#7 遊戯する人(ホモ・ルーデンス)

 地面にへたり込んだキュルルの前には、人の姿をした獣が佇んでいた。先程対峙した、無感情なセルリアンとはまた異なる、嘘偽りない感情に荒れ狂った、嵐のような存在。獣は、歯を剥き出しにして、低い唸り声を上げる。その瞳は、一瞬たりともキュルルから視線を外さない。


「ビースト……!!」

 粉塵の晴れていく中、かばんはキュルルと対峙する獣を視認した。奇しくも、かばんがサーバルたち三人と最初に出会った時と同じ状況。

 しかし今度は、この獣から逃げ隠れする場所も、逃げ切るためのバスすらもない。新たに表れた「脅威」を前に、もはや取りうる手段の無くなったかばんは、ただ身構えることしかできなかった。


 カラカルは、あの時と同じようにキュルルに歩み寄ろうとした。手を引いてビーストから引き離そうとした。だが、ダメージを受けた体はまだ回復が追いついておらず、まともに力が入らない。

 それでも諦めず、カラカルはキュルルの方に這って進む。その眼前に、ビーストによって細切れにされた紙片が、はらりと舞い落ちた。

 キュルルとカラカルとイエイヌの顔、笑顔で並んで描かれた絵の破片。あの時キュルルが願いながらも、決して見ることの叶わなかった景色。絵の中でだけ許された、過ぎ去りし日の望み。

 カラカルは絵の破片を掴み取り、握りしめた。それに勇気づけられるように、体を起こし、立ち上がった。彼女は、重い足取りでキュルルの方へと向かった。


 ビーストはキュルルを見下ろしたまま、動かなかった。目は金色に輝いたまま、険しい表情を続けている。その顔は、キュルルに対して何かを訴えかけているようにも見えるし、あるいは何も感じていないようにも見える。

「きみは……」

 キュルルが口を開いたのとほぼ同時に、博士と助手を模したセルリアンが、背後からビーストに襲い掛かった。セルリウムを変形させて作った鋭い爪で、ビーストの頭部をめがけて斬りかかる――!!


 二体の爪の軌道は、ビーストの体に到達することなく折れ曲がった。ビーストは、セルリアンの攻撃を振り向きざまに回避し、大きく腕を広げた。捻りに合わせて円軌道を描く巨大な前足は、遠心力を込めて二体の頭部に打ちつけられた。後頭部を殴りつけられた博士のセルリアンは勢いよく地面に叩きつけられ、顎を打ち上げられた助手のセルリアンは数メートル頭上へと吹き飛ばされ、そのまま博士のセルリアンのそばに落下した。

 地に伏して動かなくなった二体のセルリアンを、ビーストは睨むように見下ろしながら、両の足で踏み抜いた。虹色に光るキューブが、踏み込みの反動で真上に散らばる。キューブは空中で爆ぜ、潮風に吹かれて流されていく。虹色に輝く光の塵は、丸めた背で息を荒げるビーストの表情を下から照らす。ビーストは、セルリアンの群れを無言で睨みつけた。


 ――獣に言葉は通じない。彼女もまた、命ある者。その行動は彼女なりの自我や道理に基づくものなのだろう。しかし、それはフレンズやヒトに伝わることは無い。感情を語る手段を知らない彼女たちは、その本心を誰かに知らせることはできないし、知らせようと思うことも無い。

 だから、フレンズも、ヒトも、獣の行動に人の道理を投影する。それが、一方的な願望によって形作られたものであったとしても――。


「……助けて、くれるの?」

 キュルルはビーストに問いかけた。ビーストは何も答えず、セルリアンに威嚇を続ける。セルリアンの視線はビーストに集まっていた。隠すつもりのまるで無い、圧倒的なまでの「野生」。

 セルリアンとビースト。互いを「脅威」と悟った双方に、もはや言葉は必要なかった。無機質なまでの敵意と、感情のみに突き動かされた殺意。形の異なる野生が、ここに衝突を始めた。


 先程まで皆が苦戦していたフレンズ型セルリアンも、強大な力を持ったビーストの手にかかれば、さしたる障害にもならなかった。

「すごっ……!!」

「あれだけのセルリアンを一瞬で!?」

 カルガモとアリツカゲラは驚いて声を上げた。襲い来る複数のセルリアンを、前脚の一撃で薙ぎ払い、粉砕しながら、ビーストは屋上を駆け回る。

「姉ちゃん!!あいつ、もしかして味方かもしれへんで!!」

「行けーっ!!そこやーっ!!」

 思わぬ増援にテンションの上がったヒョウの姉妹がビーストに声援を送った。それを聞いたビーストは、後ろを振り返り、低い唸り声を上げた。二人の応援に反して、その目は全く笑っていない。目の合ったメガネカイマンはたじろいだ。

「……私、嫌な予感が」

「……うちもや」


 ビーストは踵を返してフレンズに襲い掛かってきた。

「全然、味方じゃないじゃないですか~っ!!」

「……あいつ見境なしや!!」

 逃げ惑うフレンズたち。警戒心を剥き出しにした野生は、セルリアンもフレンズも区別なく、その場で動く全てを敵と認識し、襲い掛かっていた。


「みんな!!屋上にいるセルリアンを、ビーストの方に誘導して!!」

 かばんの声が響いた。

「なるほど、あいつに片づけて貰うわけね」

「さすがヒト、知恵が回るで!!」

 イリエワニとヒョウは様子を伺っていたセルリアンにタックルを喰らわせ、ビーストの元につき飛ばした。横から飛来するセルリアンの気配を察知したビーストは、上体を反らしてそれを回避し、そのまま真下に両前脚を叩きつけて、それを粉砕した。

 フレンズは、各々屋上に集まるセルリアンの方へと向かっていった。散り散りとなったフレンズたちは、セルリアンを包囲するように、内側に向けて押し出していくように、攻防を繰り広げた。


「キュルル」

 遠巻きにビーストを眺めるキュルルの元に、サーバルに肩を借りたカラカルがやってきた。

「カラカル……サーバル……」

 キュルルはカラカルに視線を映した。カラカルは右手を握りしめたまま、キュルルに問いかけた。

「あんた、あの子もあの絵に描いてたのよね」

「うん」

 ホテルの四方に散って行ったフレンズたちから、屋上の真ん中をめがけて定期的にセルリアンが投げ飛ばされる。そのたび、ビーストはそれを追いかけるように走り回っては、これを叩き潰して虹色のキューブとして飛散させていった。

 いつからか、ビーストは直接フレンズには襲い掛からず、ランダムに飛んでくるセルリアンの動きに注目し、じっと待機するようになっていた。それはまるで、狩りを模した「遊び」をしているかのように。

「……あいつ……ビーストってさ」

 カラカルはフレンズたちの方に視線を配った。アライグマとオオセンザンコウのセルリアンが、両腕を掴み合って睨み合っている。

 アライグマは、そのまましゃがみこみ、セルリアンを脚で持ち上げ、後ろに倒れ込むように放り投げた。屋上の中央、ビーストの横を通り過ぎてそのまま転がっていくセルリアンを、ビーストは歯を剥き出しにして追いかけていった。その表情は、人間から見れば「笑っている」ようにも見えなくもない。

「みんなとは違うし、言葉も通じないし、いつ襲い掛かってくるか解からないような……怖いやつだけど」

 ビーストがセルリアンを叩き割った。勝ち誇るアライグマ。それを、後ろから狙うオオアルマジロのセルリアン。これをフェネックが横入りチョップで昏倒させた。動かなくなったセルリアンを、オオアルマジロとオオセンザンコウの二人が丸めて、「せーの」と掛け声を合わせて、ビーストの方へ放り投げた。転がってくる丸いセルリアンを見たビーストは、おもちゃを追う猫のように、夢中で追いかけていった。

「もしかしたら、あんたの描いた絵みたいにさ、上手くやっていけるのかもね」

 振り向いたキュルルに、カラカルは微笑みかけた。握りしめたカラカルの右手には、キュルルの描いた絵のひとかけらが収まっている。

 カラカルは、なんてことはないその紙の破片から、自分の気持ちを正直に口に出す勇気を、友と過ごす未来への希望を、他人の弱さを許せる温かい気持ちを、与えられた気がした。カラカルに肩を貸すサーバルは、旅を始める前からの彼女の変化に思いを馳せて、穏やかに微笑んだ。



「あっ!!」

 メガネカイマンが声を上げた瞬間、横に並んだイリエワニとの隙間を縫うように、黒い影が走り抜けた。耳の先に長い房毛を生やした、猫の姿のセルリアンが。

「こいつ……っ!!」

 ヒョウとクロヒョウの連携攻撃を高い跳躍で飛び越えて、黒い影が走り抜けた。高い耳と太いしっぽを携えた猫の姿のセルリアンが。

「やつらが……サーバルとカラカルのセルリアンが、ビーストの方に行ったぞ!!」

 ゴリラが叫んだ。それに呼応するようにビーストはサーバルセルリアンに向き直り、必殺の前脚による攻撃を繰り出した。しかし、サーバルセルリアンは後ろに高く跳躍してかわす。それを追って四足姿勢でとびかかるビーストだったが、体を宙に浮かせた瞬間、側面からカラカルセルリアンに飛びつかれた。空中で踏ん張りの利かなかったビーストは、セルリアンにしがみつかれたまま、地面を横に転がっていった。

 カラカルセルリアンは、暴れようとするビーストの背面に回り込んで、両腕を羽交い絞めにした。体の自由を奪われたビーストは、カラカルセルリアンの大きな単眼を睨みつけた。だが、自分から視線を逸らし無防備となった隙を、サーバルセルリアンは見逃さなかった。大きく振りかぶった拳が、防御不能となったビーストの腹部に打ち込まれる。

「がぁっ……!!」

 ビーストは、腹から空気を絞り出すように、渇いたうめき声を上げた。身動きを封じられ、力の逃げ場のない中で突き刺さる一撃は、ビーストにとって未知の衝撃であった。

 しかし、フレンズ以上に頑丈な体を持つビーストは、すぐさまサーバルセルリアンをにらみ返した。そして、体幹をねじり、後ろ足をバタバタとさせて、必死にサーバルセルリアンを牽制していた。



 ――フレンズたちは、ビーストを嫌っていたわけではない。けれども、言葉が通じず、誰とも慣れ合わず、野生の理の元に生きるビーストは、フレンズたちからの世話も求めないし、共に暮らす気持ちも持ち合わせてはいない。それ故に、フレンズとビースト言う存在は、文明が存在した時代から、近しい存在でありながらも、遠い関係であり続けてきたのである。

 相手に親切にしようとしても解かってもらえないかもしれない。近づいたら傷つけられるかもしれない。自分たちと同じになって欲しいと願っても、彼女たちはそれを望んでいないのかもしれない。

 いつしか、フレンズにとってのビーストは、「不用意に近づくべきではない、孤高の存在」として畏怖されてきた。互いに距離を置くことこそが、彼女たちにとっての「共存」だった。


 ――しかし、セルリアンに蹂躙されるビーストを見て、フレンズたちは感じた。「彼女を助けたい」と。

 ビーストはフレンズと違う存在である。彼女は決してフレンズの助けなど求めはしないだろう。一人でも生き残るために、力のみを拠り所にする、孤高の存在。それこそがビーストだ。

 ――だが、それでも彼女は「生きている」。

 キュルルの描いた絵のように、ビーストと友達になるなんてことは、所詮は夢物語なのかもしれない。けれど、あの子だってフレンズわたしたちと同じように生きているんだ。その命が失われようとするのを、手をこまねいてただ見ているだけなんて、あんまりだ。

 皆は願った。「ビーストを自由にしてあげられたら」と。友達になれなくたっていい、一緒にいられなくたっていい。ただ、ひと時の共闘を演じた戦友が、恐ろしい敵に蹂躙される光景を前に、「この子に生きていてほしい」と、ただそう願い続けるばかりだった。


 だが、その願いを打ち砕くように、サーバルセルリアンのパンチは、鈍い音と共にビーストに、繰り返し、繰り返し、打ち込まれる。反撃の意志を失いつつあるビーストを前に、ついにセルリアンは、その上半身のばねをギリギリと軋ませて、構えをとった。そして「必殺」の一撃を放つべく、その暗い瞳でビーストを睨みつけた。

 「フレンズを真似た者」によって、「フレンズになり損なった者」の命は、葬られようとしていた。うつむいたビーストの表情は、無念に満ちていた。

 ほぼ同時に、フレンズたちの足音が鳴った。その場にいた誰もが、感情に駆られるままに、傷だらけのビーストの元に、恐ろしいセルリアンの前に、駆けつけようとした……まさに、その時だった。




 ――純白の翼が、彼女たちの眼前を横切った。

 人類ひと能力ちからの象徴を、その先端に纏わせて。


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