二章 夕空
雲が先に変わるんだなと、マフラーを引き上げながら空を眺める。青の中で、薄い白がうっすらと色を変えていた。
ホテルの裏にある公園には私以外誰もいない。一人ベンチに腰掛け、空を眺めていた。冷たい風が吹き、視線をおろす。体を抱きしめて、ベンチの上で前後に揺れた。
ダッフルコートからワイン色のスカートが伸び、黒いストッキングがつるりと光る。制服で来るべきだったかと考えて、冷たい風に頭を振った。三月になったとはいえ、素足を晒すには寒すぎる。
普段よりも多めに着込んでいるはずなのに、貧乏ゆすりが止まらない。太ももをこすり、つま先を上げて、地面にかかとを打ち付けた。
「あれ、アイカじゃん」
ローファーで土をほじくり返していると、聞きなれた声を掛けられる。どきりと跳ねた胸に顔を上げた。メグミが「やっほー」と手を上げている。見慣れた彼女に手を振り返しながら足で地面を均した。
横目で平らになった地面を確認してから、メグミに視線を戻す。もこっとしたダッフルコートに少しだけ驚いた。
「珍しいね、こんなところで」
そういえば学校以外で会うのは初めてだと、彼女の私服姿を見る。
キャメル色のダッフルコートを着込んだメグミは手をポケットに突っ込み、首を回す。最近黒染めした髪を邪魔そうに振って、私をじろりと見た。
「かわいい私服なんだね」
頬が熱くなった。彼女は何の気なしに、柔らかいことを言う。いつも一人で驚いたり赤くなったりしてしまうのが、どうも損しているみたいで嫌だった。
「そんなこと言ったらメグミだって」
赤いマフラーを外しながら彼女は隣に座る。コートの前を開いて、裾をひらひらと仰いだ。冷たい風に温かい彼女の香りが広がる。甘いような、こそばゆい空気に耳が熱くなった。
「寒くないの?」
「アイカも赤いじゃん」
思わずマフラーを引き上げて、ベンチを立った。腕を上げ文句ひとつでも言ってやろうと振り返る。彼女が八重歯を見せて笑っていた。私の中で膨らんだ思いが色を変える。手をだらりと下げた。
メグミはコートの襟を揺らす。白く縁取りされた、光沢のある黒ワンピースがちらちらと覗いた。
「にしても、アイカはいつも一人なんだな」
「どうせ友達いませんよ」
私はすねて地面を蹴るふりをした。
学校の屋上で出会って以来、メグミと一緒にいることが多い。私は授業をサボっていないが、昼休みや放課後、メグミはどこからともなく現れる。教室にいるときはもちろん、食堂や帰宅途中など、人混みの中にいてもなぜか私を見つけてくれた。
最初は疑問と驚きが先行していたけれど、今は彼女の姿に安心してしまう。その感情をなんと呼べばいいのか、私はまだ分かっていない。
くすぶる感情を抱えて、私は「あーあ」とベンチに戻る。どかっと彼女の隣に座った。
空を見上げると、青色はオレンジ色に変わっていた。雲だけが先取りするように紫色に輝いている。
次々変わっていく風景に吐息が零れる。隣の呼吸音が居心地よく、目をゆっくりと閉じた。
「あ、宵の明星」
彼女が声を上げて空を指差す。「一番星だね」と私が答えると、彼女は得意げに言葉を続けた。
「金星。光る理由は月と同じ」
語り始めたメグミに顔を向けた。彼女は嬉しそうに顎を上げて、興奮気味に語る。
「水金地火木、金星は地球より太陽側にあるから夜には光らないんだよ。夕方と、明け方だけ。面白いよね」
「詳しいね」
私の言葉にメグミは顔を下げ、恥ずかしそうにはにかむ。珍しく頬を赤くして、視線を逸らした。
「星好きなんだ」
言葉少なに理由を教えてくれる。普段見ない表情に私はふうんと頷いた。
「いいと思うよ」
趣味に良いも悪いもないけれど、後ろめたそうな彼女にそう答える。彼女は三白眼をきらりと光らせて、笑顔を取り戻した。安心したのか、顔を空に向け星の魅力を語り出す。星の美しさやそれに心奪われた人々の話、神話を見出した星座の話。
次々にあふれてくる言葉に私は驚きながらも、メグミをちらりと見る。知らない彼女がそこにいた。
そもそもと、少しだけ沈んだ心に苦く笑う。視線をおろして自身の太ももを眺めた。
最近、一緒にいるとはいえ、彼女の学年も苗字も、何も知らない。そんななのに趣味を知り、落ち込むのもおかしな話だ。
「アイカはなんでこんなとこいいたのさ」
そういえばとメグミは思い出したように話題を変えた。彼女の口から白い息が零れて、藍色に変わる空に消えていく。
「そんなこと言ったら、メグミだって」
ダッフルコートの下はおめかしをしたワンピースだった。校則を無視した普段の格好からは想像できない服装。
彼女はふふんと笑って首を振る。光を吸い取ってしまいそうな、黒染めの髪がぶわりと舞った。金の方が似合っていたと私は思うが、学生としては黒の方がいいのかとも思う。
「今日はなんか大事な話があ……」
彼女の言葉にかぶさるように遠くから私を呼ぶ声が響く。顔を向けると父親が一人の女性を連れてやってきた。
今日は父親の交際相手と初めて会う日だった。この後、隣のホテルでディナーを取る予定。相手を待っているときの沈黙が耐え切れず、私は裏にある公園にいたのだ。
メグミに謝ってベンチを立つ。手を引いている女性に笑いかけてから、二人を待った。
メグミはゆっくりとベンチを立つ。そして私の横に並んで、ぽつりと呟いた。
「お母さん」
その言葉に驚いて、彼女を見つめる。下唇を噛んだ彼女が何を思っているのか、白い横顔からは読み取れなかった。
その向こうには暗闇に染まった夜がある。さっきまで追っていた一番星はどこかに消え、黒はどこまでも暗く、重く広がっていた。
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