アイ色の空

書三代ガクト

一章 寒空

 見上げると寒々とした空があった。柵に背中を預けて、雲一つない青を眺める。頭の上で格子がきしりと鳴り、下の校庭から体育教師の掛け声が聞こえてきた。

 冬の、十二月の青空はどこか白々しい。乾いた青が剥離しているような薄さだ。晴天なくせに温度を含まず、透き通っているくせにどこか浮世離れ。手を伸ばしてこすったらと剥がれて落ちてきそうだ。

 風が前髪を撫でて私は白い息を吐き出した。眼尻にうっすらと涙が浮かぶ。

 教室の時間割を思い出して、校庭にいるのはクラスメートであると思い至る。太陽は私の斜め上にあって、さぼっている影が校庭に落ちていそうだ。誰か気付いても良いものなのに。

 かさついた青空に心が重なって私は静かに笑う。視線を下げて屋上に投げ出した足を眺めた。膝を隠す灰色のスカートに、学校指定の紺ソックス。あまり早く走れなさそうな、白いすねに手を伸ばした。頬を撫でる風に負けないぐらい冷たい。

 ため息をこぼすと、いきなり鉄扉がガンと鳴った。驚いて足から手を離す。勢いよく柵に寄り掛かった。錆の浮いた格子が私を受け止める。

 給水塔が乗っている小屋の扉が鳴る。唯一の出入り口、その向こうで人の気配が大きくなっていた。私はゆっくりと息を吐き出す。

 少しの嬉しさと怒られる恐怖に鼓動が早くなる。耳の奥で脈打つ感覚に目を閉じると、建付けの悪い扉が音を立てた。

 ねちっこい足音が近付いてくる。これはゴムサンダルかなと、強面の教師が頭に浮かんだ。雷のような怒鳴り声に備え、目に力を入れる。顎を引いた。

「何してんの。あんた」

 想像よりも柔らかく、そして高い声に目を開けた。ゴム底の上履きと厚めの白いソックスがあった。

 ゆっくりと顔を上げ、声の主を眺めた。彼女は腰に手を当て、首をかしげている。日光を透かす金髪の向こうで、三白眼が私を見下ろしていた。

 鋭い目つきが恐ろしく顔を伏せた。気付かれないようにそのまま目だけ動かす。 

灰色のボックススカートからは膝が覗いていた。第二ボタンまで開いたブラウスの上にクリーム色のカーディガンを羽織っている。胸元に学校指定のリボンはなく、白い襟が風で揺れた。

彼女の表情が訝し気にゆがんでいるのを見て、また私は視線を下げた。怖そうな人だとため息交じりに、自身の胸元に手を寄せる。一年生であることを示すえんじ色をいじった。

「何って、サボってます」

 どこかに行ってくれることを祈って、当たり前のことを返す。けれど彼女は立ったまま重心をずらすだけだった。

「わざわざ、屋上の鍵を開けて? こんな寒い、すぐ見つかりそうなここで?」

 納得できないと主張するような声。冷たい風が吹きつける。その凄むようながさついた声色に驚き、私は瞬きをしてから、「なんで?」と顔を上げた。

「サボるんだから、それぐらいしないと」

 逆に言えば、一つでもうまくいかなかったら寒空なんて眺めていない。

中休み、職員室に誰かいたら。鍵保管庫が閉じていたら。鍵が転がってなければ。階段で見つかっていたら。扉の音を誰かが聞いていたら。屋上の影にクラスメートが気付いていたら。

面倒なサボりなんてしていない。

気持ちが他人事のように浮かび上がり、ぱらぱらと剥がれ落ちそうになる。虚しさに顔を上げ、白々しい空を眺めた。どこまでも乖離して、気持ち悪い青だ。

私の回答に彼女は顔をゆがめた。イラつくように首を回して、吐き捨てる。

「……サボるってそんなに大層なもんじゃないよ」

 彼女の言葉に想いがはらはらとめくれ上がった。乾いて劣化した感情が粉になって、落ちていく。心に降り積もる。

今朝からどうにも空回っているような居心地の悪さに、言葉が鋭く尖った。

「あなたもそんなに変わらないんじゃない」

 学校指定のものより高いソックスを指差し、冬の風に晒している胸元へと動かす。彼女は私の人差し指を見て、へえと薄く笑った。

「面白いね、あんた」

 八重歯を覗かせて、彼女は左足に重心を乗せた。体を傾けて腰に手を当てる。そして真っすぐ私を見つめてきた。不敵に笑う三白眼に、顎が引けてしまう。けれど私はじっと彼女の視線を受け止めた。

「あんた面白いね、気に入った」

 彼女は繰り返して、近づいてくる。腕をつうっと上げ、人差し指を私に突きつけた。態度からは想像できない、細く白い指。

「じゃあ、改めて。なんでこんなところにいるのさ」

 真っすぐ向いた言葉には快活ささえ含んでいる。目を向けると、彼女は「はは」と声をこぼした。腰に手を当て、さらに一歩距離を詰めてくる。ニィっと笑った。

 あ、可愛いじゃん。

自然と浮かんだ言葉に私の胸がドキリと跳ねた。思わず顔を背ける。それでも距離が縮まった笑顔は頭から消えない。耳が熱くなり、胸に手を当てた。

 ゆっくり二、三度、息を吐き出して、目を開く。横目で彼女を見つめた。警戒するような色が消え、華やかな表情になっている。弧を描いた目がまっすぐ私を見つめていた。また頬が熱を持つ。

「で、なんでこんなところにいるのさ」

 言葉を重ねてくる彼女。大きく息を吐き出して、私は朝のことを口にした。

「父親、お付き合いしている人がいるんだって」

 今朝、母親の仏壇に手を合わせた後、父親に言われた内容を思い出す。思わず用意していた弁当を投げつけ、飛び出すように家を出てしまった。

誰にも話すつもりはなかった。けれど一度言葉にしてしまうと、次から次へと溢れてしまう。

「でもそれ自体は別に仕方のないことだと思うの。一人になって長いし」

ただただそんな大事なことが知らないうちに進んでいるのがすごく嫌だった。毎朝母親の仏壇に挨拶をするのも、父親の弁当を作るのも急に虚しくなったのだ。私がやっていることに意味なんてないような気がした。

そんな気持ちが不愉快で、そんなことないと怒られたかった。授業中、教科書も開かずにいたけれど、誰からも注意されない。何をしていても関係ないと言われているみたいだった。

幼い反抗と無関心が不快感に拍車をかけて、私なんてどこにもいないような気がした。

私はずっと空回っていたのかな。

青になりきれない空が頭上に広がっている。晴天の癖に、どこか白々しく、浮いているような気持ち悪さだ。

私と同じだ。

「そうなんだ、あたしと同じだね」

 私の吐露に寄り添うような言葉。顔を上げる。彼女は空を見上げてあいまいに笑っていた。その不安定な表情に私の胸が痛む。

 彼女は私の横に並んで、腰を下ろした。そのまま柵に寄り掛かる。

「あんまり言いたくないのだけど、次は私の番だねええぇぇぇぇ」

背中を預けていた柵が軋むのと同時に、彼女の言葉尻が制御を失う。一人の時よりも傾いた頭を横に向けた。予想以上に沈んだのか、彼女は柵に背中を乗せ固まっている。

「金属だから簡単に壊れないよ」

「金属でこんなに傾くっておかしくない?」

 こわごわと首を回す彼女の髪に錆が落ちる。頭を外に投げ出すような姿勢になっていた。確かに危ないかも知れない。

 私は手を付いて立ち上がった。ぎっと鳴った柵に彼女は悲鳴を上げる。私は背中を軽く払って手を差し出した。

 彼女を引っ張り上げて、立たせる。たたらを踏んだ彼女が私に崩れてきた。その勢いのまま、二人、地面に倒れる。背中を強く打ち付け、口から息が零れた。

 ゆっくりと目を開けると、彼女が馬乗りになっている。視線が合った。

「さっきはよくもやってくれたね」

 私の頭と地面の間にある手を優しく引いて、彼女は舌なめずりをする。私は真っすぐ見返した。

「手、大丈夫?」

とっさに入れてくれた手で、私は頭を打たずに済んだ。その感謝を込めた呟きに、彼女は小さく舌打ちをする。そして数秒見つめ合い、同時に吹き出した。

彼女は私から降りて、地面に座る。両足の間に腰を下ろして、八重歯を光らせた。

呼吸を整えてから私も体を起こす。お腹を押さえて苦しそうにしている彼女に、ふと同じなんだと思った。

制服を着崩して恐ろしかった彼女も一緒に悲鳴を上げ、一緒に笑ってくれる。そんな小さな同じを見つけて少しだけ嬉しくなる。

そんな彼女も私と同じような悩みを抱えていると言う。

「それでなんの話だったっけ?」

彼女は呼吸を整えて、口を開く。それに私は首を振って応えた。

「同じってことは分かったから」

 小さな同じが重なり、少しだけ気分が上を向く。私の悩みもありふれていて、大層なものじゃない気がしてきた。

 彼女は不思議そうに首を傾げてから「そう」と呟いた。そして空を見上げる。

私も視線を追って、寒空に目を向けた。相変わらず虚しさを孕んだ青が広がっていた。山からの風が頬を撫でる。胸の中もひんやりと冷えた。思わず顔を逸らしたくなる。

隣でひゅうと細い吐息が聞こえた。寒さに震える音に、顎を引き上げた。

空転している日常の中で、一人じゃない。そのことが虚しさを受け入れられそうな気がした。

私たちは二人で寒空を眺めていた。

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