第六話
「え?」
ブラウン・カンパニーという名前を聞いて、それまで熱心にアイスクリームをすくっていたリリィの手がピタリと止まる。驚きすぎて、リリィは危うくスプーンを取り落としそうになった。
「リリィちゃん、ちょっと前にあそこで黒猫と歌ったでしょう?」
楽しそうに笑いながらエリーゼが言う。
「実はあの時、私も観客席にいたの。芸術劇場のお隣じゃない、あのテント。だから劇場を抜け出して逃げ込むには便利なのよ」
でね、とエリーゼは言葉を継いだ。
「私、本当に感動したの。リリィちゃんの歌は素晴らしかったわ。なんて言うのかなあ、心を揺さぶられる感じ? 歌う人が違うだけで、同じ歌がこうも変わってしまうのかって本当に驚いたの」
「え? でも……」
「以来ね、もう一度聴きたいなーって思っていたのよ。ね、お願い。歌ってくれないかしら。もちろん、無理にとは言わないけど……」
エリーゼが片目をつぶる。
リリィはブラウンカンパニーで歌うときはいつもブローチを起動している。そうすれば観客席のダベンポートとお話ができるから安心なのだ。
だが、そうやって震えるマナはどうやら人にも影響するらしい。ダベンポートは多分違うと言ってくれたが、リリィはいまだにブローチの影響を疑っていた。
ひょっとして、エリーゼさんがわたしを遊びに誘ってくれたのもそれが目的?
やっぱり、このブローチだったんだ。
思わず、ブローチに手が伸びる。
リリィの疑念を読んだのか、エリーゼは慌てて言葉を付け足す。
「もちろん、今日誘ったのはリリィちゃんと遊びたかったからよ。それは本当。でもね、リリィちゃんの顔見たら思い出しちゃった、あの歌のこと」
「でも、わたし、旦那様がいる時しか歌わない約束なんです」
とリリィはエリーゼに言った。
「え? そうなの?」
「だって、人が多いと怖いから……」
リリィは俯くと少しもじもじと身体を動かした。
「なんだ、そんな事! だったら私がダベンポート様の代わりになってあげる。ちゃんと観客席からわかるようにリリィちゃんを見ててあげるわ!」
「でも……」
「ダベンポート様にはちゃんと私から話しておくから大丈夫よ」
エリーゼはリリィを力づけるように微笑んだ。
エリーゼがニコニコと笑ってリリィの手を握る。
だが、ひとしきり笑った後、エリーゼは不意に真顔になると何かを思い出したように言った。
「でも、そうね。考えてみれば、私も若い頃はそうだったかも。舞台の前はいつも怖くて怖くて死にそうだった……確かにリリィちゃんの言っている事も判る気がするわ」
一人で納得してエリーゼが大きく頷く。
「うん。じゃあ、こうしましょう。もし、時間になってもリリィちゃんが怖くてどうしても嫌だったら私に言って? 私が代わりに踊るから。でも、もしよかったら歌ってくれないかしら?」
エリーゼがブラウン・カンパニーの舞台で踊る?
リリィはほとんど卒倒しそうなほど驚いた。冗談じゃない。王立芸術劇場のエトワールをあんな汚いテントで踊らせる訳にはいかない。
でも、とリリィは考える。
エリーゼさんならきっとやっちゃう気がする。さっき一緒に走って判った。この人、結構自由だ。
だったら、わたしが歌うしかない。とにかくエリーゼさんを止めないと。
なぜかは判らなかったが、エリーゼと一緒にいると勇気が出る。ダベンポートと一緒の時は頼りっぱなしな感じで、それはそれで悪い気分ではないのだが、エリーゼと一緒だと何かをしなければと言う気持ちになる。
「判りました」
リリィはエリーゼに頷いてみせた。
「歌います」
「まあ、ありがとう!」
喜色満面。エリーゼが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、もう行かなければね。確かあのテントは開演が二時だったはずだから」
二人は連れ立ってブラウン・カンパニーのチケット売り場に行った。ハンドバッグからブラウン監督のサイン入りチケットを取り出し、窓口に差し出す。
「今日のチケット、もう一枚ください」
「お二人様ですか、開演は二時です。日曜日は夜の部がないのでお気をつけください……って、リリィさん?」
やる気なく窓口に座っていた若い役者がびっくりしたように目を大きくする。
「あの、ブラウン監督ってもう来てます?」
「ああ、奥にいるよ。そんなところにいないで入って入って!」
「でも、今日はお友達もいるんです」
「そんなの気にする事ないよ!」──とその若い役者が笑顔をみせる──「二人とも入りなよ。どうせ席は空いてる」
リリィはエリーゼを連れてテントの中に入ると、奥の控え室に向かった。
「へー、こういう風になっているのね。舞台裏の楽屋と控え室が違う場所にあるなんて新鮮だわ!」
「そうしないとスペースが足りないんです」
とリリィは説明した。
「へー」
エリーゼがもう一度あたりを見舞わす。
ブラウン監督は控え室が並ぶテントの奥、いつもの場所にいた。
「やあリリィさん。遊びに来たのかい?」
今日も赤いシャツを着ている。ブラウン監督は本当に赤い服が好きだ。
「いえ、そうじゃないんです」
とリリィはブラウン監督に言った。
「お友達がわたしの歌を聞きたいそうなんです。なので、今日は歌わせてもらおうと思って……」
リリィの言葉を聞いてブラウン監督が満面の笑みを浮かべる。
「なんと! お願いだなんて、もちろん大歓迎だとも!」
ブラウン監督は思わず立ち上がると、リリィの両手を握った。
「これはすごいサプライズだ! で、そのお友達と言うのは……?」
ふと、ブラウン監督はリリィの背後で周囲を物珍しそうにキョロキョロ見回しているエリーゼに気がついた。
「エ、エリーゼ・レシュリスカヤ?」
まるで顎が外れたように口が半開きになる。
「はい。お友達なんです。旦那様が縁で仲良くなったんです」
リリィは頷いた。
「エリーゼ・レシュリスカヤがお友達? 王立芸術劇場のエトワールがお友達って、あんたんちは一体どうなっておるんじゃ」
呆れてものも言えないという風にブラウン監督が首を振る。
「もちろん、マドモワゼル・レシュリスカヤも大歓迎じゃ。ダベンポートさんが座っている席はいつもリザーブされとる。こういう事もあるかと思っての、あの席はもう他の誰も座れないようにしたんじゃ。今日、エリーゼさんはそこに座ればよろしかろう」
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