もう一度だけ


 もう一度だけ過ちを犯すとしたら、何をしますか?




 僕を「不思議の壁」へといざなったその犬は、壁の何もない一点をじっと見つめて言った。


 過ちを犯す? やり直すんじゃなくて?


 犯すんです。もう一度。


 僕には彼――でおそらく間違いないはずだ――の言っていることがよくわからなかった。


 それ以外の過ちは、すべてなかったことになります。ありますか? それ以外に過ち。


 あるさ。いっぱいある。


 じゃあ、よかった。犯した過ちがひとつしかなかったら、何も変わらないのと同じですから。


 僕を「不思議の壁」に誘った犬は、そう言うと笑った――ように僕には見えた。


 僕はじっと手を見る。見えない血で汚れた自分の手を。


 過ち――。そんなもの、数えることはできない。なぜなら、僕の犯した最も罪深い過ちは、今もなお続いているのだから。


 過ちを数える方法はひとつだけ。


 方法があるのならよかった。


 ないほうがよかったかもしれないけれど。


 それは誰にもわからないから。


 あるいはみんな本当は気づいているのかも。



 ……いま喋っているのは、だれ?


 


 「犬」の声と「僕」の声が判別できなくなってきた。


 心の中で聞こえる声と自分が発している声の境界線が曖昧になってきた。




 大丈夫。全部聞こえています。準備はいいですか?


 心を無にする。違う。無について考える。


 そうです。無にすることはできないけれど、無について考えることなら――。


 あぁ、慣れてる。


 よかった。


 壁の向こうに待っているもの。それこそが、本当の無です。




 ――――――――。



 ――――――。





 ――――。






 ――。








 僕は、この世界に生まれるという過ちを、もう一度だけ繰り返す。




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