N2

第1話


 かすかに、ささやくようにドアがノックされた。


「どうぞ、お入り下さい」


 私が声をかけると、一瞬ためらうような間があり、それからドアが開いた。

 しかし患者はそのままカウンセリングルームに入ってこようとはせず、ドアの外から何かを探すようにこちら側を見つめている。


「さあ、どうぞこちらの椅子に。鈴音、響子さんですね」


 ドアの方に向き直ってもう一度促すと、ようやく患者は部屋に入った。私と向かい合う形で置かれている大きめのソファに腰を下ろすと、一瞬、心細げな眼差しをこちらに向けてきた。その整った顔立ちが、幾分青ざめているようにも見えた。


「よく来てくれましたね。私があなたを担当する、久保です。三崎先生から大体のことは聞いていますから、何も心配せずに、楽にして。……ああ、そう、その椅子はリクライニングになっていますから、いちばん楽な姿勢になって下さい」


「はい」


 そう答えたが、患者は両の膝を揃え、うつむき加減のままソファに座っていた。体つきが華奢なせいもあって、その様子はずいぶんと頼りなげだ。十九歳ということだが、全体にもっと幼く見えた。


「あの、先生……」


「はい?」


「こちらの部屋には、窓があるんですね」


「え、ええ……」


 そうか、迂闊だった。

 このカウンセリングルームは、コンクリートの塊のような、実用本位で設計された付属病院の一室に手を加えたものだ。壁に木目調のパネルを張って木製のデスクと皮張りのソファを持ち込み、壁には静物画を飾り、花を生け、出来るだけ患者がくつろげる環境にしようとしてはいるのだが、窓の造りなどは元のままである。外に面した二面の壁の腰から上の高さには、大きなサッシの窓が連なっている。もちろん、ブラインドは全て下ろしているのだが、その隙間からは夏の長い夕日が差し込んでいた。僅かではあるが、窓ガラスも覗いて見える。

 患者の様子は三崎教授から聞いていたというのに、配慮が足りなかった。


「カーテンを閉めましょう。そうすれば、何も見えなくなりますからね」


 私はそう言って立ち上がり、暗幕を兼ねている厚いカーテンを引いた。部屋の中に、人工の光だけが満ちた。


「落ち着きましたか?」


「はい。ありがとうございます」


「では、始めましょう。ーーああ、緊張しないで。今日は響子さんに、これまでのことを伺うだけですからね」


 わざと姓ではなく名前で呼び掛けたのは、いくらかでも私に親近感を感じさせようとしてのことだった。ほとんどの日本人は、臨床の精神科医というものに対して意識的、無意識的に拒絶反応を示す。この患者も例外ではなさそうだった。私との年齢差が十歳程度と、そう大きくないことも利用して、とにかく一時的にでも親密さを形成する必要が感じられたのである。(無論、あくまで一線を画して、の話ではあるが)

 患者は小さく深呼吸をして、顔を上げた。


「何からお話すればいいんでしょう」


「響子さんの話しやすい事からでいいんですよ。ただ、三崎先生から大体のことは聞いていますけれど、確認の意味もありますので、気になっていることを全てーーできれば始めから、時間の流れに沿って話してくれると助かりますね」


「最初から、ですね」


「ええ、できれば。 きっかけとなった事件は、二ヵ月程前……六月半ばですね?」


 机の上のカルテを引き寄せながら、私は促した。


「ええ、六月十四日でした。大学の講義中に、ふと、窓の外に目をやった時に……」


 もう一度深呼吸をして、患者は続けた。


「……上から、赤いものが落ちてきたんです。友香子でした。屋上から、赤い服を着て、友香子が飛び下りて……。友香子が窓の外を通り過ぎるまでの間に、何分も、何時間も経ったようでした。友香子はちょうどこちらを向いていて、哀しそうな瞳が、ずっと私を見つめていました。助けて、助けて、そういう友香子の叫びが、瞳を通じて私には聞こえました。ーー友香子が通り過ぎると、私は自分でも気付かないうちに窓辺に近付いて、地面を見下ろしていました。ずっと下の、アスファルトの道路に、小さく見える友香子の赤が、ゆっくり、ゆっくり、広がって……」


 患者はそこで言葉を切った。


「響子さん、大丈夫ですか?」


「え、ええ、すいません」


「急がなくてもいいですからね。落ち着いて話して下さい」


「はい……。私は、そこで気を失ってしまいました。医務室で気が付いてからも、体の震えが止まらなくて……。友香子のお通夜も次の日になったので、とにかく家に帰ったんです。そうして二階の自分の部屋で横になっていた時、窓を、窓をこつこつと叩く音がしたんです。風のせいだとは思ったんですけれど、気になってカーテンを引くと……その瞬間、友香子が窓の外に、落ちてきたんです。そして逆さまのまま、私と目が合うところでぴたりと止まると、

『どうして助けてくれないの』

そう言って、また、サーッと落ちていったんです」


 寒気がするのか、患者は自分の肩を抱き締めるような仕草をした。


「私は又、意識を失いました。そして今度はそのまま二日間寝込んでしまったんです。気が付くと、病院のベッドの上でした。ベッドの側で、母が椅子に座ったまま眠っていました。起き上って、母に声をかけようとしたその時ーー後ろの窓を、こつこつと叩く音が聞こえて……」


「それが、ずっと続いているという訳ですね」


 患者が自分の話す言葉に溺れそうに見えたため、私はそう問いかけた。


「はい、最近ではほとんど毎日」


「いつも同じように?」


「はい。私が一人でどこか窓のある場所にいると、こつこつと窓を叩く音が聞こえて、そしてその窓を覗くと、上の方から友香子が、逆さまになって落ちてくるんです」


「そして窓の所で止まる?」


「止まって、言うんです。『どうして助けてくれないの』と」


「ふーむ」


 予想していた通り、比較的単純な症例のように思え、私はさらに幾つか質問を投げかけてみた。


「響子さんは、その友香子さんに対して、何か言ってみましたか?」

「はい、何度も。どうしようもなかったの、助けようと思っても出来なかったの、と、言ってみたんです。だけど友香子は何も答えてくれないんです。それに、窓の外に止まるのは、いつもほんの一瞬ですし……」


「窓を、開けてみましたか?」


「え?」


「友香子さんが通り過ぎてゆく時に窓を開けると、どうなるんでしょう? やってみましたか?」


「いえ、一瞬のことですし……。それに恐くて。一度だけ、彼女が通り過ぎた後に窓を開けてみましたけれど、外には何も特別なものはありませんでした」


「窓の種類はどうです? 彼女の現われる窓に、何か共通点でもあれば教えて下さい」


「え、いえ、特には」


 私はさらに幾つかの質問をして、患者の反応を見た。友香子という自殺者との関係を尋ねた時、他の質問の時とは違った反応が現われた。


「普通の、お友達でした」


 そう答える声が、明らかに震えていた。両の手も、堅く握り締めている。どうやら患者とその友香子との関係について何かを隠しているらしい。そして恐らく、この辺りが治療のポイントでもあるのだろう。

 今回はほどほどに切り上げることとした。通院のスケジュールを決め、窓の外に見えるものを出来るだけ気にかけないように言った。(恐らく無理だろうが)


「では、今日はこれでおしまいにしましょう。通院の予定は必ず守るようにして下さいね」


「あの、先生」


「はい?」


「私、やっぱり……やっぱり、気が狂っているんでしょうか」


 患者は、すがるような目をしてそう尋ねてきた。


「そんな風に考えてはいけませんよ」


 私は微笑みを作りながら言った。


「例えば、幻視、幻聴といったものは、大抵の人が経験するものなのですよ。気付かないだけで。大丈夫、治りますよ」


        *        *


 患者を帰した後、私は三崎教授に電話をかけた。教授はこの患者の紹介者であり、また私の恩師でもある。


「どうだね、あの患者は」


 開口一番、教授はそう尋ねた。


「は、はい、そうですね。やはり基本的には、飛び下り自殺を見たショックが引き起こしている症状だと思われますが」


「そりゃあそうだろう」


「ええ、それに、まだ確認してはいませんが、どうやら患者とその自殺者との間に、何か特別な関係があったようですね」


「ふむ。 それから?」


「それから……流言との相関関係ですね?」


「そういう事だよ」


 教授は小さく笑った。


「君が去年出した論文の中に、非常に良く似たパターンの流言があったのを思い出してね、それで、あの患者を君に回した訳だ」


 そう、ここ数年、私は出版物やTV、口コミ等で広められた情報が精神病の発症に与える具体的な影響について研究していた。昨年まとめた論文では、特にいわゆる噂話の影響について検討を行なったのだが、その時収集した口承怪談の中に、飛び下り自殺を目撃すると、真夜中にもう一度自殺者が窓の外に現われて恨みごとを言う、といった内容のものがあったのだ。


「あの噂話は、神奈川の中学生の間で広まっていたものですから、ちょうど患者の生活圏と重なっています」


「研究をまとめるにはうってつけの患者だろう?」


「ご配慮、ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、全力を尽くしますので」


「しっかり頼むよ。うちの助教授の席が空くまでに、もう二年も無いんだからね。選考が始まる前にしっかりした結果を出してもらわないと、私がいくら頑張ってもどうにもならんのだから」


「はい、ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 ーー受話器を置いて、私は小さく息を吐いた。どうやらあの患者については、全力を尽くして早急に治療を終わらせねばならないようだ。

 完璧に。


        *        *



 彼女ーー鈴音響子の治療は、スケジュールを最優先させて行なった。

 彼女も週三回の通院を一度も休むことはなかったし、緊張が解けてからは私の質問に対して実に素直に答えてくれた。また、自分の症状に関すること、そしてそれ以外のことも進んで話してくれた。

 ただ、例の自殺者との関係についてはまだ話すのをためらっていたため、私は頃合を見計らって催眠療法を行なった。彼女に納得させてから催眠状態として、抑制を取り払った上での質問を行なったのだ。


「さあ、六月十三日です」


「はい」


 まず、例の事件の前日に、記憶を遡らせた。


「今日は友香子さんと会う約束をしていますね?」


「はい。昼休み、学校の屋上で」


「屋上に? 自由に入れるんですか?」


「いいえ。彼女が、合鍵を持っているんです。鍵を閉めてしまえば他に誰も入ってこれないから……二人きりで話したいときは屋上に行くんです」


「なるほど。 おや、もう昼休みです。あなたは屋上にいます。友香子さんも一緒です。彼女の様子はどうですか?」


「何だか、真剣な目をしています。恐いくらい」


「友香子さんが話をしています。何と言っています?」


「ずっと言おうと思っていたと、なかなか勇気が出なかったと……」


「それから?」


「黙ってしまいました。私の手を握って。痛いぐらい強く」


「そのままですか?」


「いえ、私をじっと見つめて……えっ」


「どうしました?」


「彼女が……」


「彼女が?」


「彼女が、私を愛していると。ずっと好きだったと。手を握って……強く握って……」


「あなたは、どうしました」


「私は……」


「彼女に、何と答えました?」


「困る、と」


「それから?」


「それから……あまり手が痛いので、彼女の手を振りほどきました」


「彼女は、どうしましたか?」


「悲しそうな顔をして……」


「そして?」


「分かりません」


「分からない? なぜです?」


「私、恐くなって……屋上から降りてしまったんです。彼女の、救いを求めるような目が恐くて……」


 原因は分かった。

 彼女自身が友香子という友人の自殺の直接的な原因となった、そのために彼女が強い罪の意識を感じているのだろう。自殺を直接見てしまったショックも重なり、今回のような症状が現われたのだ。

 私はカウンセリングを繰り返し、徐々に彼女の罪の意識を解いてゆくようにした。幸い、催眠誘導を用いたとはいえ全てを話したということで、彼女はさらに打ち解けてくれ、信頼関係を強めた形でカウンセリングを行なうことが出来た。私との会話が、彼女の安らぎとなっていくのが感じられた。

 さらに私は、彼女が体験した(と彼女が考えている)出来事と極めて似た怪談話の存在を彼女に教え、それを聞いたことがあると気付かせようと試みた。投身自殺を目撃したショック、そして罪の意識の為にその話を現実の経験のように思い込んでしまったということに彼女自身が気付けば、症状は快方に向かうと思われたからだ。

 彼女は私の期待する所を感じ取ったらしく、自分の体験が過去に耳にした話から来ていると、懸命に信じようとした。が、それが逆効果となった。

 症状は、悪化の一途をたどった。

 彼女が私の元へとやって来てから二ヵ月、今では幻覚症状は絶え間ないものとなっていた。彼女が一人の時に限らず、窓さえあればそれを叩く音が聞こえ、そして赤い服を着た、髪の長い女が窓の外を落ちてゆくのが見えると言うのである。もちろん、彼女以外には何も聞こえず、見えもしないのであるが。


「久保先生、助けて」


 そうつぶやく彼女は、脆く、か弱げで、ガラス細工を思わせた。美しく繊細な、ガラス細工を。


「友香子の視線が貼り付いて、消えないんです。それに、最近ではカーテンを引いて窓が見えないようにしていても、窓を叩く音が聞こえるんです。友香子の声も」


「窓が見えなくても?」


「聞こえるんです! 今日も、ここのエレベーターで三階に上がると、廊下の窓のブラインドの向こうから……」


 私は、カウンセリングルームの黒いカーテンに目をやった。


「今も聞こえるの?」


「はい、ずっと。窓を叩いて、友香子がつぶやくのが」


「ふうむ」


 私は立ち上がり、カーテンにーーいや、その奥の窓に近付いた。もちろん、厚いカーテンの向こう側からは何も聞こえはしない。

 ーー私は、少し荒っぽい手法を試してみる事にした。


「ところで、響子さん」


「はい?」


 彼女がこちらを向いた瞬間、私は一気にカーテンを引いた。


「 ひ 」


 彼女が小さな悲鳴を上げ、両の手で顔を覆う。細い肩が震えているのを見て、私は少し後悔したが、


「見えたんだね、窓の外に?」


 そう、強く尋ねた。


「ひどい、先生……」


 彼女は涙声になっている。胸が痛んだ。


「答えなさい! 窓の外を通り過ぎてーー落ちていったんだね?」


 両手で顔を覆ったまま、彼女は小さく頷いた。


「こっちに来てごらん」


 優しく、そう呼び掛ける。

 彼女が両の手を下ろした。

 涙で濡れた瞳が美しかった。


「さあ、こっちへ来て。窓を覗いてごらん」


 私は彼女に近付き、肩を抱いて立ち上がらせた。そのまま窓の方に行こうとすると、彼女は一瞬ためらったが、すぐに私の腕に掴まり、小さく、一歩ずつ歩きだした。


「落ち着いて、良く見てごらん」


 サッシのガラス窓を開け、私は目をそらしている彼女に言った。

 私をじっと見つめてから、彼女は窓の方に目をやった。

 彼女の動きが一瞬止まった。そしてーー。


「うそ!」


 振り返り、そう叫ぶ。


「見た通りだよ。この窓は閉じられているんだ」


 私は腕を伸ばし、窓の外側をぴったりと塞いでいる青いボードを叩いてみせた。


「いいかい、こちら側の窓は全て、隣の研究棟に面しているんだ。狭いーーそう、ほんの数メートルの間隔を空けてね。そして研究棟は来週から外装工事が始まる予定だ。今、こちら側の全ての窓には、危険防止用のボードが取り付けられているんだ」


 彼女は窓を見つめ、静かに手を伸ばした。白く細い指が、筆先のようにボードを撫でる。


「何も見えるはずはないんだ。窓は、開いていないんだから」


「開いていない。何も見えるはず、ない……」


 焦点の合わない視線が小さくさ迷い、そして私に向けられた。

 私が腕を伸ばして優しく頬に触れると、彼女の体がびくり、と震えた。その視線が確かに私の視線と絡み合ったと思ったとき、彼女は力一杯私にしがみついてきた。彼女の速い、しかし小さな鼓動が伝わってくる。私は彼女の肩を優しく抱き、落ち着くのを待った。


「何も……何も見えるはず、ないんですね。もしも何かが見えるとしたら、それはーーそれは私の心の……」


 彼女の、自分に言い聞かせるような口調が気になった。何か、取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。

 私は彼女をソファに座らせ、鎮静剤を投与した。彼女が望んだので、私は彼女の手を握り、ずっと側にいた。


「見えるはず、ない……」


 彼女がつぶやくたび、私はうなずき、相づちをうった。他に何も出来なかったのだ。

 それでも、徐々に彼女も落ち着いてきた。


「もう、友香子を見ないような気がします」


 そうも言った。ーー無理をしているのは分かったが。


「七時を過ぎてしまったね。ーー響子さん、今日はもう急ぎの仕事はないから、良ければ車で家まで送りましょう」


「本当ですか?」


「ええ、もちろん。ちょうどいい時間ですから、途中で食事でもどうですか?」


「はい!」


 彼女は微笑み、ソファから立ち上がった。


「じゃあ私、下で今日の分の治療費を払ってきます。ロビーで待ってていいですか?」


「うん、三十分ぐらいで行けると思うから」


「はい。早く来てくださいね。きっともう、ロビーも淋しくなってますから」


 そう言って出口に向かった。ドアの前でもう一度こちらを振り返り、微笑んで、そうしてノブに手をかけーー。

 彼女の動きが止まった。


「久保先生ーー」


 声が震えていた。


「聞こえました?」


 私は答えるのをためらった。しかし、誤魔化しても仕方のないことだ。


「いや、何も聞こえなかった」


「そうですか……」


 彼女はこちらを見た。澄んだ瞳から一筋、涙が流れ落ちるのが見えた。


「だめ……久保先生、私やっぱりだめ! 聞こえるの! 今! 友香子が、ドアを叩いたの!

        


         *         *



 さらにひと月が過ぎた。

 響子は日増しにやつれてゆくように見えた。建物の中では、気が休まる時が無いのだ。あらゆる窓、あらゆる扉の向こう側から、その音が、その声が届き、響子を苦しめた。そんな時に扉を開けば友香子が現われる、と思うのだろう。響子は自分でドアを開くことも出来なくなった。

 響子は大学を休学し、日中のほとんどを見晴らしの良い公園で過ごした。夕方近くになると私が迎えに行き、家まで送る。そして夜は窓のない部屋で、ドアを開け放して過ごす。だがそんな時も、離れた所にある窓や扉を叩く音が聞こえると言った。


「きっと、窓も、扉も、向こう側につながっているんだと思うの」


 ある日、公園のベンチで響子はそう言った。


「向こう側? ああ、そうだね、窓や扉は内と外との境界を造るものだから……」


「いえ、そうじゃなくて。向こう側が、こちら側とは違う世界になる時があって、だから……ああ、何て言えばいいのか。だから、窓や扉は、普段はただの外側につながっていて、外も中も、同じ世界なんだけれど、この世界とは違う世界につながるときもあるの。例えば、友香子の行ってしまった世界に。そんな時きっと、窓や扉は直に違う世界につながっているから、だから窓や扉の外側が、この世界では塞がれていても、関係なかったでしょう?」


 私は、自分が響子に施した療法が全く効果をあげなかったばかりか、その症状をますます悪化させてしまった事を認めざるを得なかった。

 あの時、窓の外が塞がれていることをはっきりと示したため、響子の潜在意識がそれに対抗しようと、別の世界というものを考え出したのだろう。

 もちろん、私は考え得るあらゆる手段を使って響子を治そうと試みた。何の結果も出なかったが。私には新進の臨床医師と呼ばれてきた自負もあったし、なにより響子を救いたいという気持ちが強かったのだ。

 そう、いつ頃からか、響子は私にとって只の患者以上の存在になっていた。もちろん、担当の精神科医として、それを響子に伝えることは許されなかった。そんなことは、誰に言われなくとも充分に分かっていた。

 だがーー。


 私は最後の治療を行なうため、響子を病院へと伴った。二週間ぶりだった。最近はずっと為すべき治療もなく、公園でカウンセリングの真似事をやっていたのだ。今日の、この治療を行なう決断が出来なかったために。

 そう、決断したのは響子だった。三日前にーー。


        *        *


 その日、公園は細かな雨に包まれていた。


「何ですか、これ?」


 手渡した封筒を見つめて、響子は尋ねた。


「紹介状だよ。……白帝大の中島先生に、君のことをお願いした」


 響子が、大きく見開いた瞳で私を見つめる。何か、信じられないものを見るように。

 私は目をそらして続けた。


「中島先生は、全く新しい、君のような症状にきっと効果のある、VJ法と言う治療法を研究している先生だから……」


「嫌です」


 私の言葉を遮って響子は静かに、きっぱりと言った。


「先生、こっちを見て」


 初めて聞く響子の強い口調に戸惑いながら、私は響子に視線を向けた。響子は真直ぐに私を見つめている。その瞳には強い意志が込められているように見えた。何かを、決意したように。


「もう私には、君にしてあげられる治療がないんだよ」


「嘘」


「嘘じゃない。私は……」


「嘘です。先生、以前に私に話してくれたのを忘れたの? 先生がアメリカで研究していた治療法のこと。私、それをまだやってもらっていないもの」


 ぎくりとした。


「いや、知らない。君の記憶違いだよ。私はそんな話、したことはない」


「私、先生の話してくれたことは、全部覚えています。間違いありません」


「……」


「どうして嘘をつくの? その治療法が危険だっていうことも聞きました。でも……」



「本当に危険なんだ!」


 思わず、私は叫んでいた。


「Y-ブラウン法は、強い誘導剤を使う深層催眠療法で、幻覚や幻聴を覆い隠す逆暗示を刻み込むものなんだ! 力技の強引な方法で、誘導に失敗すれば反動で患者の症状は何倍にも悪化する! しかも成功率は三割以下! 未完成の治療法なんだよ!」


「でも、久保先生がやって下さるんでしょう?」


 静かな声だった。


「だめだ。君を、これ以上苦しめることになったら……」


「あなたのしてくれることなら、その結果ならーーいくらだって、苦しんであげる」


          *        *


 響子は深く倒したリクライニングソファに横たわっている。


「じゃあ、誘導剤を注射するよ」


 私の言葉に、響子は目を閉じてうなずいた。


「ねえ、久保先生」


「なんだい?」


「これが終わったら、どこか旅行に連れていって」


「旅行? ……そうだね、じゃあ、長崎に行こう」


「長崎?」


「ああ、私の生まれた所なんだ」


 響子は小さく微笑んだ。


「素敵」


 私は注射器の針を、響子の腕に当てた。


        *        *


 ーー私が手を叩くと同時に、響子は目を開いた。


「私が分かるね?」


「久保、先生……」


 響子の微笑みが、私を安心させた。


「気分は?」


「ええ、なんだかいい気分です」


「すっきりとした感じ?」


「はい」


「よし、じゃあ立ち上がってみよう」


 私は手を貸しながら、響子の様子を観察した。もうすぐ分かる。治療は成功したのか、それとも……。


「さあ、まわりを見てごらん」


 響子は不思議そうな顔をしながら、部屋を見渡した。


 その視線の先にはーー窓がある。響子が目覚める前にカーテンを開け、ブラインドを上げておいた、むき出しの窓が。

 私は息を詰めて、響子を見つめた。


「どうしたの、久保先生?」


 明るく言った。


「窓を見たね?」


「え、ええ」


「窓の外に、何か見えるかい?」


「窓の外? ……ええ、大学本部の建物ですよね、あれ」


 ーー私は響子を力一杯抱き締めた。


 Y-ブラウン法は、簡単に言えば人工的な記憶喪失を造るものである。私は今回、飛び下りの目撃はもちろん、その前日の出来事、そしてこれまでの幻覚全てを響子の記憶から抹消した。いや、正確に言えばそれらを響子の意識深くに沈め、私の造った記憶で覆い隠したのである。

 響子は、自分が今、只の軽い欝病の治療に通院していると信じている。さらに強い暗示をかけたので、もし今、本当に窓の外を人間が落ちて行ったとしても、響子の意識はそれを捉えないようにすら働くだろう。


「本当に私、治ったんですね」


 部屋を出ると、響子は何度も繰り返した質問をまた私に投げかけた。記憶を抑制しているとはいえ、何ヵ月もの間悩み苦しんだことは意識深くに刻まれているのだ。うれしくて仕方がないのだろう。


「そうだよ、治ったんだ。もう何も心配しなくていいんだ」


 鍵を閉めながら、私は答える。

 響子の顔に、幸せそうな微笑みがぱあっと広がる。ああ、響子の本当の笑顔というのは、こんなにも素敵なものだったのか。


「ねえ、久保先生」


「なんだい?」


「覚えてます? 長崎のこと」


 答える代わりに、私は微笑んだ。この、今の微笑みだけは、響子に負けないものだったろう。


「あ、しまった」


 二人でエレベーターの前まで来て、私は声をあげた。


「どうしたの?」


「車のキーが部屋の中だ。上着と一緒に。ちょっと戻って取ってくるよ。先に下りててくれ」


「はあい」


 私は小走りに部屋に向かった。ちょうど廊下の曲がり角まで来たとき、後ろでエレベーターの到着を告げる音が聞こえた。振り返って小さく手を振ると、響子もエレベーターの中から同じように手を振った。

 二人の間で、静かに扉が閉じていった。


 上着を掴んで部屋を出ようとしたとき、私は一瞬、何かを叩くような微かな音を聞いたように思えた。

 嫌な音だった。

 呪いの言葉というものはあのように響くのではないかと思えるような、ひどく嫌な音だった。


 だが私は、すぐその音の正体に思い当たり、苦笑した。今、隣の研究棟では工事の真っ最中なのだ。音が響いて当然の話だった。

 私は急いで部屋を出た。そしてエレベーターの前まできて、異変に気付いた。現在位置を知らせる表示が、ここ三階を示しているのに、扉が閉じたまま動かないのである。

 とてつもなく嫌な予感がした。

 私は慌てて階段を駆け下りた。一階に着き、ロビーを見回したが響子の姿は見つからなかった。エレベーター近くの守衛室に飛び込むと、初老の守衛が受話器を握り、落ちついて、落ちついてと叫んでいる。


「エレベーターが止まってる! 私の患者が中に閉じ込められているんだ!」


 私の声に驚いたのか、守衛は私に受話器を差し出した。


「響子、響子か、そこにいるんだね」


「先生? 久保先生? 助けて!」


「落ちついて、大丈夫、すぐに直してもらうから」


「音がするの!」


 私の背中を、何か冷たいものが走った。


「音?」


「変なの、扉の外を、何かが引っかいているの! かりかり、かりかり、音が聞こえるの!」


「引っかいて……? 落ちついて! きっと何かが当たって、音が出ているんだ! 大丈夫!」


「 ひ 」


 受話器の向こうで、響子が息をのんだ。


「どうした?」


「扉が、ぎしぎし音をたてて……いやーッ! 向こうから、何かが向こうから、扉をむりやり開けようとしてる! 向こう側に何かいる!」


「響子?」


「助けて先生! 扉に隙間が開いて、入ってくる、何か入ってくる! あれは……指! 白い指が、一本一本別々の生き物みたいにこっちに潜り込んでくるの! いやッ! 向こう側から、何かが覗いてる! こっちに来る!」


「響子!」


 ふ、と響子の声が途切れた。


「大丈夫か、どうした?」


「静かになったの。指も無くなって、向こうにいた何かが、いなくなったの……」


 その時、受話器の遠くで小さくガタリと音がした。


「先生……今、上の方で音がしたの。上の方で……」

 

 引き裂くような悲鳴があがった。

そして、静かになった。


        *        *


 ーーあれから一週間が過ぎた。

 響子の悲鳴の直後に、エレベーターは動きだした。

 中で倒れていた響子を最初に見たのは、私だった。その表情が、響子の感じた恐怖のすさまじさを表していた。


 心臓麻痺で、即死だったと診断された。

 そう、私の治療が失敗したのだ。一人になった響子をあの治療の反動が襲い、何倍にも増幅された幻覚の恐怖で、彼女は命を失ったのだ。

 そう考えるのが当然だ。

 私は、患者に実験的な治療を行い、そして死亡させた責任を取り、大学病院を辞した。響子の両親は、私と大学に対する訴訟の準備に入ったと聞いている。


 だが、そんなことはどうでもいい。

 私が考えるのは、音のことだ。今も聞こえる、この音のことだ。かすかに、ささやくようにドアを叩く音。そして向こう側へ私を呼ぶ、あの声。

 いや、もう考える時間も無いのかもしれない。これを書き終わるまでの間さえ、もつかどうか分からないのだ。 私はいつまで耐えられるのだろう。

 あの声に。

 最愛の者の、呼ぶ声に。


 ーーいつまで?


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