二通目
一筆申し上げます。
紫陽花が鮮やかに映える梅雨も明け、蝉の声が似あう青空が見られる季節になりました。
去年まで縁側で働いてくれていた風鈴は猫のねぐらのインテリアになってしまったので、今年は新しい物を買いました。
綺麗な藍色の、あなたが好きそうなまんまるの風鈴ですよ。
この風鈴が涼し気な風を送ってくれているうちに、あなたが帰ってきてくれる事を切に願うばかりです。
縁側に息子一家と一緒に座って風鈴を仰ぐあなたの横顔を、最近では夢にまで見るようになってしまいました。
ちりん、ちりんと風鈴が笑うたび、あなたが微笑むような錯覚すら覚えます。
そうそう、息子一家といえば、この間まで丁度彼らがこの家にやってきていたのでした。そりゃあもう、小さな子供が一人いるだけで家中が活気付きましたよ。
漸く帰ってきてくれた猫の尻尾をまたまた孫が踏んずけて、彼女はもうすっかりご機嫌斜めです。次はいつ帰ってきてくれるのでしょうか。
息子はなんとも言えない父親らしい良い顔をするようになって、わが子ながら複雑な気分になってしまいます。親離れとは、やはりさみしいものですね。
親離れをする息子を見送るのは、できれば二人での方がよかったです。
老人二人がしんみりと感慨に浸っているのも湿っぽい話ですが、それでも二人の方が一人よりも多少は寂しさも和らいでいい。
ああ、そういえば、最近近所に若い家族が越してきました。
孫と同じくらいの年頃の少年のいる、幸せそうな家族です。
息子夫婦に少し似ていて、なんだか得をしてしまった気分になりました。
いうなれば、孫が二人できたような。
というのも、その少年というのがまた人懐っこい性格のようで、あなたに何度も強面だと言われた私にも朗らかに話しかけてくれるのです。
これがまた可愛くて可愛くて。
実の孫と同じくらい可愛いのです。
息子夫婦が今度帰郷した時、是非彼と孫を会わせたいです。
きっと馬の合う親友になるに違いない。
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祖父の遺してくれた邸宅は、少年には大きすぎるほどに大きかった。
蔦や苔ですっかり風化した塀の奥にどっしりと構えられた、現代では少し古風なデザインの二階建て。
古風な、とは言っても、この土地自体代々受け継がれてきた古いもので、家もそれに負けないレベルの古さであったため、古風なのは当たり前なのかもしれない。
少年の祖父の最初の手紙にあったように、全体的に老朽化が進んでいる。
この邸宅を受け継いでから一年、結構な額の遺産を持っていた少年としてはすぐにでもリフォームをしたい気分だったが、なんとなくそれができずにいる。
閑静な住宅街の中で異彩を放つ、朽ちかけたお化け屋敷。
それが、恐らく近所から見たこの家の今の姿なのだ。
現に少年も、なんとなくそんな感覚でいつもこの家の外装を眺めているきらいがあった。
溜まった落ち葉を踏みしめながら、もうすっかり慣れてしまった玄関の戸を潜る。
引き戸のくせしてなんだか迫力のある扉だ。
学生靴を脱いで揃え、マフラーを外して「ただいま」と誰にともなく言う。
しんと静まり返った廊下に、声は存外小さく響いた。
白い学生靴下を履いた足の裏で、板張りの床がギシギシと不穏な音をたてる。
心無しか僅かにメキリという割れるような音が響いたが、もうとうの昔に慣れてしまった少年は表情を変えずに自室へと向かった。
男子高校生らしく散らかってはいるが、独り暮らしにしてはある程度の整理整頓が成されている。
少年の部屋は、そういった形容がぴたりと当てはまる部屋だった。
片付いているような片付いていないような雰囲気にも思えるのは、床に散らばった小物類や菓子の包装類のせいである。
邸宅の大きさに違わずだだっ広い部屋の面積は、万年床、クローゼット、勉強机やそれに付属する棚で丁度よく埋まっている。
やはりこれらも老朽化が進んではいるものの、元の保存状態が良い為か「経年変化」で済まされる程度の古さだった。
重厚な木材で作られたクローゼットなどは特に、明治時代の洋館にあっても遜色はないような面立ちをしていた。
慣れた動作で学生鞄を机に置き、中身を机上に取り出していく。
授業をまともに受けていないのにも関わらず、筆記具や教科書・ノート類は大切に使い古された痕跡がある。
それは一重に、仲間の目に入らぬうちに少年が成績を少しでも上げようとした証拠であり、成果であった。
筆箱の中には、シャープペンシルだけでなく、今時珍しいHBの鉛筆然とした鉛筆が二本入っていた。
どちらも、もう少しで使えなくなるくらいまで短くなっていた。
浅黄色の巾着に入った弁当箱を小脇に抱え、少年は部屋を後にする。
独り暮らしをしている筈の少年が明らかに手作りとわかる弁当を持参した時には、流石に堅気のクラスメイト達にも質問攻めにあった。
「え、すっごく綺麗なお弁当だね!!」
「お前彼女いたのかよ!!」
「それ自分で作ってんの?女子力ヤバくね?」
等々、なんとも学生らしい月並みな質問…というよりは、一方的な「野次」だった。というのも、不良の沽券に関わる事件になってしまう事を恐れた少年の無自覚な一睨みに威圧されたクラスメイト達が、その囀りをすぐに止めてしまったのだ。
あの時は先生にも関心されるわ、仲間にも疑惑と好奇心の目で見られるわ、少年にとっては戦々恐々な状況だったが、どうやら皆はプラスの方に解釈をしてくれたようで、それ以来少年は居もしない彼女を自慢するという罪悪感に苛まされる事もしばしばだった。
スポンジに洗剤をしみこませ、水を少しかけて握る。
何度か握れば、密度の濃い泡が沢山出てきた。
少年はいつもより泡立ちがいいのに機嫌をよくして、鼻歌交じりに弁当箱を洗い始めた。
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「…また来たよ。」
「スーパーで林檎がを安売りしてたから、思わず買っちゃった。ここに置いとくから、看護師さんに頼んで切ってもらってね」
「あ、庭に綺麗な花が咲いてたから、ちょっと手折らせてもらったよ。名前わかんないけど、ここに生けとくよ」
「…」
「………」
「…点滴、増えたね。……気のせいか。」
二通目を祖母の皺だらけの手に握らせて、少年は今日も一人でとつとつと言葉を零していた。
まだ日が高く、病室の窓からは冷たくも暖かな陽光が降り注いでいる。
眩暈がするほど高くなってしまった空は、一点の曇りもない快晴だった。
見舞いをする事は決して楽しい事とはいえないが、少年は今日が見舞い日和だと感じていた。
祖母の睫毛が風で僅かに震えるたび、少年は腰を浮かせて祖母が起きたかもしれないと希望を持った。
だが、それが風のせいであるとわかるたび、またわかりやすく肩を落とした。
そっと、窓を閉める。
「…そろそろ、帰るね。」
「学校頑張る。勉強も頑張るから、おばあちゃんも頑張ってね。」
「……」
「……じゃあ、ね」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その人は、酷く悲しそうな表情をしていた。
場所が場所だし、道行く人皆が明るい表情をしているわけではなかったけれど、そんな場所でも一際目立つ表情だった。
目鼻立ちが整っている為か、通った鼻筋や黒い髪の毛から落ちる影が、やけに彼の暗澹たる雰囲気を引き立てているようで。
思いの他簡単に、ドラマみたいに、私は一目ぼれという物をしてしまった。
悲しい顔をしているのが好きなわけじゃないけど、彼の持つ悲壮感は普通よりも私の目を惹きつけてやまなかったのだ。
制服は着ていなかったけれど、大体同じくらいの年なんだろうと思った。
クラスメイトの男子と同じ、若者特有の雰囲気があったのだ。
けれども、彼は今までみた同世代の人の誰とも、全く別の人種に見えた。
なんだか、そう—————異常に、大人びているというか。
人生の機微をもう既に味わって、飲み込んでしまったような顔つきだった。
それが余計に切なくて仕方がなかった。
「あの…これ、落としましたよ。」
病院の廊下に、折悪しくも何かを落としてしまった彼に、私は浅ましくも若干心を浮き立たせて声をかけた。
振り返った彼はやっぱり落ち着いていたけれど、少し目を見開いてから「ありがとう」と簡潔だけど実直なお礼を私に向けてくれた。
言葉を交わしただけなのに、心臓か奇妙に揺れるような心地がした。
夢半ばの気分でぼうっと見つめていると、彼は何か不安になったのか落としたハンカチをぱっと受け取って、一礼してから足早に立ち去ってしまった。
「……好き。」
ぽそりと呟くと、点滴を引き連れた老人がすれ違いざまに訝し気な視線を向けてきた。でも、そんな事も気にならないくらい、今の私は夢見心地だった。
(一目ぼれって…ほんとにあるんだなぁ…)
色恋事に明るくない私はその時、その僅かな会話だけで、名前も知らない少年への恋心に一人胸をときめかせていたのだった。
硝子瓶と手紙 三日月の上に猫 @011814
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