硝子瓶と手紙
三日月の上に猫
一通目
一筆申し上げます。
最近は庭の木々も青々しく色めき立って、来るべき夏を枝を長くして待ち構えています。しっとりした空気にしな垂れる葉も、そろそろ見納めですね。
こんな季節には、あなたの顔が見たくなってきます。
そろそろ床板を張り替えたいのですが、どうもあなたとの淡い思い出が過って先送りにしてしまいます。年を経ると些末な事にすら感慨に耽ってしまうのですから、まったく困ったものです。
ああ、そうそう。
近々、息子夫婦が帰郷するとの一報が届きました。
なんでも、孫のランドセル姿を一目見せてくれるのだとか。
ありがたい事に、私の目はまだまだよく見えるので、孫の晴れ姿を目いっぱい愛でてやる事ができます。野菜をたくさん食べていたのがよかったのかもしれません。
いやはや、長生きはしてみるものですね。
ただ一つ、孫の頭を撫でてやる節くれだった手が、あなたの分もあれば言う事なしだったのですが、流石にそちらからは腕が届かないでしょうから、両の手で撫でてやる事にします。
とはいっても息子夫婦が来るのは来月ですから、なんとも気の早い事ですね。
年寄りになっても、気忙しいのは相変わらずのようです。
気忙しい私に叱責を飛ばしてくれるあなたがいないのが、今は堪らなく寂しいです。
口喧嘩ばかりのあの頃が懐かしくて、懐かしくて。
いつも私の負け戦でしたが、それでも幸せだったのだと思い返します。
皺だらけの私ではもう涙も枯れてしまいましたが、あなたの事を考えていると胸のあたりがとても痛くなってしまいます。
涙脆いのも、相変わらずですね。
あなたが私の涙を拭いてくれる日は、いつか来るのでしょうか。
お返事、お待ち申し上げております。
追伸:先日猫の尻尾を踏んでしまい、いたく機嫌を損ねてしまったのですが、一体あの猫はどこへ行ったのでしょう。
あなたに預かった大切な猫は、どうにも頑固で困ります。
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病室のカーテンが、夏の風をはらんでふわりと広がった。
花瓶の中で気まぐれに揺れる切り花が、また一枚花弁を落とす。
夕方らしい橙色の日光が、何度も読み返したせいでくたびれてしまった便箋を柔らかく照らしていた。
深く皺の刻まれた手に握られたそれは、涙のあとでインクがところどころ滲んでおり、今ではもうとても読めたものではなかった。
ぽたり、ぽたり。
辛抱強い点滴が、彼女の痩せ細った腕に薬を流し込んでいく。
だが、老女の瞳を覆う瞼は、未だに固く閉ざされていた。
「…今日でちょうど、おじいちゃんの一周忌だよ。」
声変わりをしたばかりの掠れた少年の声が、短く尾を引いて途切れた。
少し言いよどむような表情を見せてから、再び語りだす。
「手紙、そろそろ読んであげてもいいんじゃないの。」
「おじいちゃん、口下手だから頑張って手紙書いたんだよ。」
「あんなにおちゃらけてたおじいちゃんがこんなに堅苦しい敬語使うだなんて、ほんと笑っちゃうよね。」
「あの人、書店で手紙の書き方の本とか買っちゃってさ。」
「お父さんまで呆れてたんだから。おばあちゃんには読めっこないって。」
「でも、僕はそうは思わない。だって、おばあちゃんおじいちゃんの事大好きだったでしょ。大好きな人の手紙は、何が何でも読みたくなるものでしょ。」
「ねえ、おばあちゃん。」
ほとんど独白のように、少年はとつとつと語った。
その語り口調は、彼くらいの年であれば到底使わないような落ち着いたもので、普段の彼らしからぬものであった。
学校では手の付けられない悪童で通っている彼の、他ならぬ本音。
綺麗な金色に染められた髪の毛や、着崩された学ランと照らし合わせると、それは随分ちぐはぐな代物だった。
人がいないのを良い事に、少年はこうやってちぐはぐな独白————少年としては祖母に語り掛けているつもりだったのだが————を続けているのである。
やがて語る言葉がなくなると、少年はほうっと溜息をついて立ち上がった。
祖母の枯れ枝のような腕から手紙を取り上げると、便箋をたいそう丁寧に折りたたみ、これまたくたびれた茶封筒に仕舞う。
そして、ベッド脇の引き出しの奥にそれを入れた。
引き出しの中には、他にも同じような封筒がいくつかしまい込まれていた。
「…じゃあ、そろそろ行くね。おばあちゃん。」
返される言葉があるはずもないが、少年はそう呟いて病室を後にした。
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薄さびれた校舎裏に、物騒な音が絶え間なく響く。
どすどすという殴るような音、それに続く苦しそうなうめき声。
ある程度の小心者であればすぐに尻尾を巻いて逃げてしまいそうなその音は、責任感が強いとはお世辞にも言い難い教師たちの黙認によって、滞りなく続いていた。
「おい、そこらへんにしとけって。そろそろ死ぬぞ。」
「…ったく、弱ぇ癖に喧嘩売んなよ。ダセェ。」
「和則が強いだけじゃね?こいつら結構ガタイ良いし。」
仲間の制止の声で、ようやく少年の拳は留まった。
どこか安堵するような空気が流れる中、少年は冷然とその拳についた血を拭う。
喧嘩慣れしている事が一目でわかる、洗練された動作だった。
「そうか?見た目だけの筋肉だろ。」
「うわぁ~、謙遜に見せかけてディスってるよ。やっぱえげつないな。」
「あ?…いや、そんなつもりは」
「おーし、ひと段落したし、こいつらの財布で飲むか。」
「……。悪ぃ、俺ちょっと用事思い出した。」
「んだよ付き合い悪ぃな。次は絶対来いよ。」
「おう。」
自分の失言に気付いて撤回しようとするも、仲間の明るい声で委縮してしまう。
祖父に似て口下手な少年は、「人の金で酒を飲む」という学生らしからぬ行為がどうしても気に食わず、咄嗟に誘いを断った。
冗談めかしてからからと笑う仲間に背中を叩かれ、口の端を無理に吊り上げる。
見た目だけならば、完全に年季の入った非行少年だった。
鋭利な目つきを更に研ぎ澄ませて歩く少年に、通行人は我知らず道を譲る。
それに若干気付いていながらも、知り合いに見られる事を恐れて、少年は頭を下げて会釈したい衝動を必死にこらえていた。
周りに、———それも赤の他人に———気を使わせてしまう事は、どうしようもなく胸が痛んだが、前述した通り不良として過ごす少年にとって、通行人にいちいち頭を下げて回るという行為は幻滅される事につながる。
幻滅されるという事はすなわち、彼の周りを取り巻く友人が敵にとって変わる事を意味していた。
少年自身孤立したくなかったというのもあるが、孤立してしまえば優しい祖母が悲しんでしまうという気持ちが多分にあって、少年は「常識」やら「道徳」やらを無視して練り歩く他なかったのである。
「あっ…す、すいません!!」
「……」
すれ違いざまスマートフォンを落としてしまった女性が、なぜか少年の方を向いて大袈裟に頭を下げる。
液晶のひび割れの方が少年としては心配だったのだが、こうも目立つ事をされてしまっては流石に心が痛い。
少年は、鋭い一瞥をくれると、僅かに会釈をして女性の横を通り過ぎた。
「…やだ、今の見た?」
「こっわー…まるっきりドキュンじゃん。最低。」
僕は何もしていない。
さっきのは、ただ相手が勝手におどおどして、勝手に携帯の画面を割っただけだ。
人相が悪いからだなんて事で責められるならば、僕は今すぐ整形してやったっていいんだぞ。
…と、そんなやるせない悪態を心の中でついて、少年はやや歩く速度を速めた。
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「お見舞い、ですか?」
「はい。503号室の、兼代雅です。」
受付での猜疑心に満ちた視線を浴びるのは、久々の事だった。
なにしろおよそ一年間ずっと通い詰めなので、受付のおじさんに顔を覚えられてしまい、最近ではちょっとした世間話を交わす程だったのである。
だが、今日は受付の人が違うようで、若い女性が対応をしてくれたものだから、随分な扱いを受けてしまった。
人相はもうあきらめているが、髪だけでも黒く染めなおそうか。
いや、髪をまともな色にしてしまえば、それこそ仲間の疑念を集めてしまう。
高校を卒業するまでの我慢だ。
そこまで考えてから少年は、自分がすっかりこの病院へこれからも通い続けるつもりだという事に気付いて、思わず苦笑いを浮かべた。
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