ファインダー越しに咲いた花
森音藍斗
ファインダー越しに咲いた花
目が覚めるような寒椿の写真を文机の裏に見つけたときから、私は彼のことを先生と呼んでいました。私が写真を見つけたことに、彼が気付いているかは知りません。
「先生、春ですよ」
私は、南向きの窓のカーテンを開けながら言いました。この部屋にはじめて入ったときも、最初の仕事はカーテンを開けることだったと懐かしく思い出されます。部屋の様相はあのときとはまるで違っていて、吸い殻の溢れた灰皿も、空っぽの酒瓶も、灯油の切れたストーブも、蒼白だった彼も、もうここには在りません。
あの日私は、父に代わって家賃の回収に来たはずでした。鍵が掛かっていないのに誰も返事をしないことを訝しみ、我楽多を踏んだり蹴ったりしつつ明かりのない部屋を縦断した私は、カーテンを開けてようやく光の差した部屋にひとりの人間が転がっていることに気が付いたのでした。部屋は真冬の屋外と変わらない寒さで、私は彼が息をしていることを確認し、急いで自分の家から湯たんぽと白湯を持ってきたのでした。
その日から、私は毎日この部屋に来て、掃除と洗濯と炊事をしています。貯金はあるらしく、彼は家賃をきっちり入れた上で、私にも小遣いをくれます。ちょっとしたアルバイトです。私はお金を稼ぐために彼の世話をしているわけではありませんが。
「先生、春ですよ」
聞いているんだか分からない彼に、私はもう一度声を掛けます。私が急かさなければ風呂も食事も自堕落な彼は、今も洗ったばかりのシーツを引き寄せて座っています。十ばかりも年上の男性とは思えませんが、とはいえお日様の香りのシーツに喜んでくれるのは嬉しいものです。尊敬する先生であればなお。
「散歩に出ませんか。カメラでも持って」
彼の肩がびくりと跳ねます。今まで、彼の前でカメラに言及したことはありませんでした。私が片付けるまでは雑多だったこの部屋の、押し入れの隅に高価そうな防湿庫があって、その中に古い一眼レフカメラが入っているのを私は知っています。
この部屋に私が通うようになってから――私が学校に行っているあいだはどうだか知りませんが――彼が部屋の外に出ているところを、見たことがありませんでした。食材は、私がお財布を借りてお使いに行きます。たまに酒や煙草を頼まれますが、私が買ってこないので、彼は今とても健康的な食生活を送っています。
「桜が咲きそうですよ」
「桜の季節はまだ先だろう」
寝転がろうとする彼に、私は平常心を装いながら言いました。
「先生が雑誌に投稿された、狂い咲きの桜」
彼は顔色を変えません。
「確か昨年の今頃ではありませんでしたか」
「写真はもうやらないんだ」
穏やかな声でした。
いつにも増して穏やかな声でした。
「その話はしないでくれるかな」
穏やかで、無機質な声でした。
先生が外に出るのを見たことがないのと同じぐらい、私は先生の笑った顔を見たことがありません。
目が覚めるような寒椿の写真が週刊誌で最優秀賞を獲ったのは、一昨冬のことでした。
今まで名前も聞いたことのなかった写真家は、それを口火にあらゆる賞を総舐めし、写真界隈のみならず、世間一般に名を馳せました。小説の表紙に起用され、それがベストセラーになった影響も大きかったでしょう。雑誌や広告で彼の写真を見ない日はないほどで、若者を中心にカメラが流行しました。――何を隠そう、私もその波に乗って一眼レフを手にした一人なのですが。
寒椿から始まり、狂い咲きの桜、アスファルトの隙間の菫、季節外れの松雪草、晩秋に毅然と立つ向日葵、燃えるような彼岸花、荒野の蒲公英。彼の撮る花はみな生き生きとして、まるでこちらを見ているようでした。彼は撮影技術も然り、花の絶頂期を捜し出すのに長けていたのかもしれません。
そして、彼がぱたりと世間から名を消したのは、秋の終わりでした。
冬になり、花々が枯れてしまったから、花ばかり撮っていた彼は被写体を失ったのかと囁かれました。先の冬の寒椿のように、冬にも咲く花があると誰かが言いました。花以外も撮ればいいと煽る読者投稿も雑誌に寄せられました。しかし、彼の名を再び見ることはありませんでした。
私がこの部屋で写真を見付け、表札が写真家の苗字と同じだと気付くまでは。
「先生、今鳴いたの、鶯ではありませんか」
振り返ると、先生は外套のポケットから手を出さないまま、気のない欠伸をしました。
「先生、もうちょっと春を喜んだらいかがですか」
私の口調は不満げにもなります。先生は、
「無理やり連れ出したのは君だろう」
と、乏しい表情を顰めます。
しかし、幾ら仏頂面をしようと文句を垂れようと、先生が私の言うことを聞いてくれなかったことは、結局、ないのでした。掃除をするから移動しろと言えばそうしたし、風呂に入れと言えばそうしたし、そして健康に悪いから散歩をしろと言えば、最終的には、家を出る、それが彼なのでした。
律儀なのか、大家の娘である私が怖いのか、命を救った恩があるからか、理由は分かりません。
「久々の外の空気は如何ですか」
「寒い」
先生の外套が虫に食われていないのは、私の功績です。
「はじめてお会いした先生のお部屋よりは、随分暖かいと思います」
一方の私はといえば、真冬より一枚薄い羽織の上に、カメラを提げてまいりました。自宅から持ってきた自分のカメラです。私はふと立ち止まって、露出計と睨めっこしながら、絞りとシャッター速度を合わせました。
振り返ると同時に、ファインダー越しに先生の姿を捉えます。先生の顰め面は色を濃くし、あまり写真向きの表情とは言えません。
それでも私はシャッターを切りました。
初春の屋外は案外明るくて、今の写真は失敗かもしれないなと呟きながら、フィルムを巻き上げます。
先生もカメラを持ってくることを密かに期待したのですが、残念ながらそう上手くは行きませんでした。
――写真はもうやらないんだ。
拒絶するような彼の声が胸中に蘇り、私は左袖を体の影に隠します。
先生の写真には触れない約束ですが、私が私の趣味として写真をやることに文句は言わせません。何か言われたら言い返す準備はしていたのですが、先生はそこまで稚拙ではありませんでした。
「先生、桜が咲きそうですね」
民家から道の上に、大きな樹が手を伸ばしていました。寒々しい桜の樹ですが、枝がほんのり紅色に色付いています。じきに蕾が膨らむでしょう。その頃にまた来よう、と、私はごつごつした枝を写真に収めます。
先生が去年撮影された狂い咲きの桜はご近所なのかと尋ねようとして、先生に写真の話題を口止めされていたことを思い出しました。掛ける言葉を失って思案する間に、今度は先生が口を開きました。
「君は今、何を撮ったんだい」
「桜ですが」
先生の口調は心の底から私の行動の意味を問うているようで、私のほうこそ首を傾げました。
「なぜですか」
「花が咲いていないじゃないか」
「花が咲いていなければいけないのですか」
そう訊くと、先生は口を噤みました。私には、先生の意図するところがさっぱり分かりませんでしたが、それで会話は閉じられてしまいました。
私は道々写真を撮りながら歩きました。枯れた街路樹に一片しがみつく枯葉。啄まれた銀杏の実。花弁を閉じたままの福寿草。先生は黙って後ろをついてきます。初心者の私を見かねて手解きなんかしてくださったらいいのにと、ちらりと先生を窺いますが、彼の表情は相変わらず冬色で、こちらの心が挫けてしまいそうです。
地面に落ちて朽ちかけた寒椿を見付け、蟻に少しずつ蝕まれながらもはっとするような緋色に心惹かれてしゃがみこみます。シャッターボタンを押し、フィルムレバーに手を掛けた私は、フィルムが最後まできてしまったことに気が付きました。
いつの間にか、撮り過ぎていたようです。私は立ち上がりながら、背後を振り返りました。
「フィルムが終わってしまいました」
「替えはあるのか」
「いえ……実はこれ、今月に入って二本目でして」
単なる女学生に、そんなお金があるわけがありません。
「来月のお小遣いまで、現像も撮影もお預けです。無計画に撮り過ぎてしまう私が悪いのですが――」
「俺のカメラ」
先生が私を遮って、私はどきりと動きを止めました。
「新しいフィルムが入ったままのはずだ」
「……何のお話ですか」
振り絞った声は掠れていました。青空のもとで見る先生は思いのほか背が高くて、太陽を負って私を見下ろしていました。
「持っているんだろう」
私は目を逸らしました。
「何のお話ですか」
目を逸らしてしまったが故に、先生の動きに後れを取ってしまったのは今でも後悔しています。普段六畳のアパートに引き籠っている人の、どこにそんな俊敏さがあったのでしょう。先生は私の左袂にさっと手を伸ばすとそこに入っていたものを乱雑に掴みました。
黒い革のポーチに入った、先生の一眼レフカメラでした。
「……分かっていたんですか」
「挙動不審にもほどがある」
先生は溜め息をつきました。
「いくら君が俺の部屋を掃除してくれているからって、いくら君が女学生だからって、これは立派な犯罪だぞ」
返す言葉もありません。
浅薄な考えで家を出る直前、先生がお手洗いを済ませている間に、私はこれを袂に滑り込ませたのでした。
悪気はなかったんです、ほんの軽い気持ちだったんです、そんな言い訳が通用しないことは分かっています。私の行為は、立派な窃盗行為――犯罪でした。
「理由を教えてくれるか」
「先生が」
また写真を撮りたいと、何かのきっかけでそう思ってくれたら、いつでもすぐに差し出せるように。
「そんなところだと思った」
先生はもう一度溜め息をつき、頭を掻きながら空を見上げました。
「とんだお節介だ」
本当です。先生の顔を見ることすらできず、ぎゅっと両手を握り締める私に、先生は続けました。
「それも、分かっていたんだろう」
私は、目を見開きました。
「分かっていたから、出せなかったんだろう」
……その通りでした。
私が口出しすることではないと、口出しできることではないと気付いたのは、ここまでの道程を半ば過ぎたころでした。私はこのカメラを最後まで隠し通し、家に帰ったら元の防湿庫に返そうと思っていました。
「お見通しなんですね」
伏せた私の後頭部に、不意に先生の手が置かれ、私は首を竦めました。
「あまり大人を舐めるもんじゃないよ」
舐めていたつもりはないですけれど、私は黙って頷きました。
「訴えますか、私のこと」
「馬鹿言え」
そう否定して、先生は優しく私の頭を撫でました。
自分の爪先ばかり見つめていた私は、
「そのカメラ、君にあげよう」
先生が突然そんなことを言い出したので、委縮していたのも忘れて顔を上げました。先生の手が私の頭から離れます。
「えっ」
「フィルムも、カメラも、ポーチごと」
それから、と先生は、芝居がかった手付きでポーチの横についていた小さなポケットを開けました。
「この鍵も」
小さな銀色の古びた鍵が、私の手の上に落とされました。
見知った街の、見知った通り、うちのアパートから徒歩数分――それなのに目にも留めたことがなかった錆びたシャッター、その脇のアルミ製の扉が、ぎいと軋みながら開きました。
「しばらく来ていなかったから、埃を被っていてすまないね」
先生は鍵を適当な棚の上に置き、私を中へと導きました。
薄暗い廊下を先生について歩きます。私はシャッターの上にあった剥げかけた看板を思いながらその背中に声を掛けました。
「写真屋さん、だったんですか」
「死んだ父がね」
先生は勝手知ったる様子で進みます。先生の片付け下手は居室に限ったことではないようで、私はだいじなものを踏んでしまわないように用心しながら進みます。
「現像液は取り替えたほうがいいんだろうな」
先生の独り言に、私はその意味が分からないまま曖昧に相槌を打ちました。
廊下の突き当たりに、部屋がありました。先生がドアと、ドアに掛かっていたカーテンを開け放すと、床も壁も天井も真っ黒な中に見たこともない機械や流し台が幾つも並んでいるのが見えました。先生は部屋の中央に下がっていた紐を引いて、電灯をつけました。
「電気が止められてなくてよかった」
「お金は払ってらっしゃるんですか」
「先月は払ったような気がするな。今月の請求は来たんだろうか」
「それは……把握しておかなければいけないことではないんですか」
「生きていればね」
それ以上の質問を許さないとでも言うように、壁際の何かのスイッチをぱちりと押して、彼は作業を始めました。先生が何も言わないので、私も中に入って扉を閉めました。
先生は乾いた柔い布で台や器具を拭い、戸棚から液体の入った瓶を取り出します。同時に銀色のトレイに科学室で使うようなビーカーと、温度計、それから白手袋や金属の容器なんかを並べました。寒かった部屋も徐々に暖まってきて、先程のスイッチはどうやら空調を動かしていたようです。
「カメラを」
私は黙ったまま、戴いたばかりの先生のカメラを差し出しました。先生は、首を横に振りました。
「君の、カメラを」
私は首から自分のカメラを外します。先生はそれを手に取って背面を開け、フィルムを取り出すとそれをぐるりと手の中で回し、私に電気を消すように言いました。私は少し躊躇いつつも、言われるがままに電灯の紐を引きました。
室内は、真っ暗になりました。予想より遥かに精巧に作られた闇に恐怖を感じたのも束の間、微かに物音だけが聞こえてきました。この中で先生は、作業をしているのでしょうか。
「何をなさっているのですか」
「現像は初めてか」
先程と変わらない距離から先生の声が聞こえて、私はちょっぴり緊張を解きました。
現像という言葉で、この部屋が暗室と呼ばれるそれだということに私はようやく思い至りました。現像とは、繊細な作業だと聞きます。私は一寸動いて大切な道具を壊すのが怖くて、隅で縮こまります。お邪魔でなければいいのですが。
先生は、また電気を点けるようにと言いました。私は眩しい蛍光灯に照らされた部屋で、無言の空気を破ろうと試みました。
「慣れてらっしゃるんですね」
「本業だからね」
先生は短く答えます。
先生が仕事をするところを見るのははじめてで――この歳で、家賃も滞納せず独りで生きているのですから、写真以外に定職があったことは不思議ではありません。ですが、家に帰れば母が食事を作って待っていて、小遣いでフィルムを買っている私と違って自分で生計を立てている先生を改めて目の当たりにすると、先生がなんだか、とても遠く感じました。
先生は筒状の容器を振ったりビーカーの水に浸したりしていますが、それがどういう工程なのか私に説明してはくれません。捲った袖から意外と逞しい腕がちらりと見えました。
私は眩しい蛍光灯に照らされた部屋で、無言の空気を破ろうと試みました。
「先生」
私との会話が作業の妨げになるだろうか、という不安が頭を過ります。
「何だ」
が、先生が返事をしてくれたのでいいことにして、私はお喋りを続けます。
「先生は、自分のお写真も自分で現像されていたんですか」
流れるように動いていた先生の手が、ぴたりと止まりました。
お喋りがいけなかったのではなく、先生ご自身の写真の話はご法度だったと気付いたのは、数秒後でした。
「そうだな」
しかし、先生は何事もなかったように再会しました。作業と、会話を。
「ネガフィルムは、印刷段階の調整でかなり表情が変わるんだ」
先生は、口と手を同時に動かし続けます。
「だから、刷れるなら自分で刷るのがいちばんなんだ。公募のときは特にね」
いつものように穏やかな先生の口調とは裏腹に、私の鼓動は早鐘を打ちました。
拒絶しなかった、答えてくれた、その答えすら耳に入らないほど。
先生の写真の話題が赦されるのなら、赦されたということなのなら――訊きたいことはたくさんありました。寒椿の写真。狂い咲きの桜。先生の被写体の選び方。先生のカメラについて。先生が写真を始めた理由。写真を、辞めた理由。
先生は、写真の話題を赦してくれたのでしょうか。
それとも、私の二度目の失言を、波風立てずに往なしてくれただけでしょうか。先生は、大人だから。
私は結局次の語を継ぐことさえできないまま、先生の作業を見つめていました。
現像されたネガフィルムは、血で染めたような赤褐色をしていました。
フィルムが渇くのを待つと言うので、数か月ぶりに開けられたというその建物を軽く掃除していたのですが、先生は案外すぐに私を呼び戻しました。
「薬品に触れないように気を付けるんだよ」
先生が電気を消しました。部屋はまた真っ暗闇に落ちました。――いえ、だんだんと目が慣れてくると、先程とは違い、部屋が暗い暗い赤色灯の光で満たされていることが分かります。私の目が慣れる前に、紙の擦れる音が聞こえてきました。
「おいで」
先生の言葉にも、私はすぐには反応できず、先生の顔が朧気に見えるようになってから、怖々と傍に寄りました。
「ご覧」
私がその手元を覗き込むのを待って、先生がかちりと何かのスイッチを押しました。
私は思わず声を上げかけました。
機械に据えられた紙に光が透かされ、彩鮮やかな画像が浮かび上がったのでした。
それは、私が最後に撮影した、椿の写真でした。自分の影が入ってしまったその写真は、お世辞にも上手とは言えませんでしたが、しかし光になって目の前に顕現した様は巧拙を抜きにして美しく見えました。
隣の先生に気を兼ねて、漏れかけた歓声はすんでのところで押し込めたはずなのですが、
「子供は素直でいなさい」
すぐ斜め上にある先生の耳には、察されてしまったようでした。また部屋は闇に沈んだことと、唯一の明かりが暗赤色なので顔色の変化が先生に見られないのが幸いでした。先生が機械から紙を外すのを見ながら、私は言いました。
「子供扱いですか」
「褒めているんだよ」
必要なときだけ大人であって、あとは適度に子供でありたいものだ、と私を諭すように言いながら、光を放ったその紙を、水の張られたプールに落としました。
「あっ」
先生がトングでゆらゆらと紙を揺すると、徐々に絵が現れました。私は口から感嘆の声が漏れるのを、我慢するのをやめました。
「子供は素直でいなさい」
先生は手際よく、写真を紙に起こしていきました。はじめの一枚を明るい場所に出て確認し、色を私と相談して、それからは黙々と手を動かし続けました。私はその隣で、先生の無駄のない動きを黙って見ていました。飽きることはありません。
地に還る椿、眠れる福寿草、どこかの小鳥の糧になった銀杏、風に耐える乾反葉、そして、はちきれんばかりの生を内側に秘めた桜の細枝。先生は、時間を遡るようにして、写真に彩を付けていきました。
写真はぼやけていたり、影が落ちていたり、明るすぎたりしましたが、先生はいちばん色鮮やかで、いちばん写真が活きる瞬間を紙に留めてくださいました。
「あのカメラ」
静謐だった暗室の、沈黙を破ったのは先生でした。
「父のものだったんだ」
先生が持っていたカメラの話でしょう。
「昨年の冬に他界してね。遺品として譲り受けたんだ。この店と、カメラと」
あのカメラ、と、先生は続けます。
「命が撮れたんだ」
私は分からなかったので、相槌も打てずに先生を見上げました。闇に染まる先生は、疲れた顔をしていました。
「蕾でも、終わった花でも、俺があのカメラのファインダー越しに覗けば最高の姿を見せてくれた」
冬に朽ちた夏椿の萼。黒々とした寒枝。アスファルトの隙間に開かず死んだ菫の蕾。松雪草の枯れた痕、晩秋に俯いた向日葵。茶色がかった彼岸花。荒野に果てた蒲公英。
「命がいちばん輝いている瞬間を見せてくれたんだ。俺はそうやって写真を撮って、そしてその写真は美しかった。でも、ある日突然、撮れなくなった」
原因の分からぬまま、カメラははたりと現実を写すようになった。
「だから俺は写真を辞めたんだ。もう写真は撮れなかった。俺には命の美しさが撮れなくなった」
写真を撮る意味も、生きている意味も分からなくなった。今まで評価されていた写真が、自分の実力じゃなかったことも思い知らされた。
「俺は、あのカメラに棄てられた」
死んでもいいと思った、だから彼はあのときあの部屋で、飢えて死ぬか凍えて死ぬかの狭間で彷徨っていたのでした。
顔はよく見えないままだったけれど、先生の声が泣いている気がして、私は彼の背に手を置きました。
彼の背は震えているのに、彼は、大丈夫、と呟きました。
「そんなところで大人ぶらないでください」
私は彼の背を、ゆっくり撫でながら言いました。
「私に命を助けられている癖に、今更、大丈夫だなんて」
「助けてと頼んだ覚えはない」
先生は強がって、でも、私の手を振り払うことはせずに、液に浸された私の写真――花の未だ咲かない桜の枝に目を落としていました。
土に堕ちた椿、縮こまる福寿草、抉られた銀杏、終わった命に縋る乾反葉、そして、まだ始まっていない桜。私が今日撮影した冬は、どれも活力とは程遠く、確かに先生のお写真とはかけ離れています。でも、
「先生」
声を掛けた私に対して返事はありませんでしたが、先生の背が身じろぐのが手を伝って感じられました。
「私は、写真を撮っていたころの先生を存じません」
あるいは幾度か会釈をしたかもしれませんが、父のアパートの一住人でしかありませんでした。名前すら把握していません。
「でも私、今の先生、好きですよ」
冷たい部屋で死を待っていた彼に白湯を差し出したときから、好きでした。お日様の香りのシーツに喜んでくださる先生が、私の食事を美味しそうに食べてくださる先生が、当たり前になっても感謝と気遣いをくれる先生が、私の散歩に付き合ってくださる先生が、そして、こういう理由で死にたがり、こういう理由で泣く先生が。
先生の声は掠れていましたが、私は何とか彼のありがとうを聞き取ることができました。
「君の写真は綺麗だな」
「でしょう」
上手くはないが、と言い足す先生を、私は態と強めに小突いて、これからですよ、と子供っぽい口応えをしました。
「あのカメラ、やはり戴くのはやめておきます」
先生が私を見ます。私は先生の顔を見ていたので、至近距離で目が合って、私は視線を下げました。少し間があって、先生が言いました。
「そうだな、君にはまだ使いこなせない」
その悪戯っぽい響きに、私が言い返す前に、先生はするりと先を続けました。
「今度は俺もカメラを連れて、手解きしてやろう」
全く先生は――子供なんだか大人なんだか分かりません。困ったものです。
「よろしくお願いします」
ここは素直にそう言って、大人な私が場を収めておくことにしましょう。
「それから鍵も、お返ししますね」
先生は手を動かしながら言います。
「預かっておくよ。死ぬのを辞めたら稼がないといけなくなった」
次に感光した写真が、今日撮ったはじめの写真でした。家を出てすぐ、先生を振り返ってシャッターを押した――フィルムから印刷紙に光の画像を投げる数秒の間に、私と先生は同時に声を上げました。
先生が紙を現像液に漬けます。慌ててもさすが本職なだけあって、白い紙は上手に水面に浮かびます。
光が多すぎるし、ピントも合っていない、今日いちばんの出来の悪さですが、しかし、そこにぼやけて写った先生の姿――確かに私が撮った彼は、いつもどおりの仏頂面でした、間違いありません。それなのに、写真の中の先生は、笑っていたのでした。
言葉を失った先生に、私は言いました。
「綺麗ですね」
先生は何も言いません。
「先生のいつものお顔も好きですが」
いつか、私の前でも笑ってください。
「善処するよ」
擦れた大人のような素直じゃないその返事は、子供のような照れ笑いを咲かせていました。
ファインダー越しに咲いた花 森音藍斗 @shiori2B
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