冬の狂 転
珍しいな君が酒を強請るだなんて。
申し訳ない。ただでさえ旦那には厄介になっている身なのにこんな贅沢を。
いいんだ。少し君には羽目を外すということも覚えた方が良いだろう。後で部屋に持ってこさせようじゃないか。
あぁ…ありがたい。
「先生も呑まれるんですね。」
「はは。少し口寂しくなって。」
まさか持ってくるのが彼女だなんて誰が思っただろうか。いや、少しは期待していたであろう自分もいるのだが、あぁつくづくなんて愚かな男だろうかと自虐的に笑う。そのまま
入り口で受け取って絞めてしまえば良かったものの、いつもの癖で部屋に招き入れてしまった。そしてちゃっかり彼女に酌をしてもらう。
「あぁ旨い。」
「お酒はそんなに美味しいものなのかしら。」
「興味があるのかい?」
「興味があると言ったら一口頂けるのかしら?」
「まさか!私が旦那にどやされてしまう。」
「でしょう?だから興味はないの。」
早く年頃になって先生とお酒を交わすのもいいかもしれませんねと茶目っ気を醸し出す彼女にはぐらかす様に笑いながら残っていたそれを一気に煽った。あぁ、これだ。いい感じ身が溺れる様な感覚にいい気になってついつい彼女に向かって空になったお猪口を向けた。
「程々になさってくださいね先生。」
「あぁ。」
「もう聞いていないでしょう。」
「どうかなぁ。」
曖昧な返事に彼女は邪険に扱わず返してくれる。あぁ心地良い。しかし、視界に端に写った白く忌々しい束を目にした途端、酔いに預けていた身が一気に熱を冷ましていった。
「はぁ…。」
「どうかなさったの。」
「いや、私は狡い大人だなと改めて認識してな。」
「あら。」
「あぁ。自分の置かれている身を知っているはずなのにこうして酒に手を出す私はなんて愚かなんだろうか。あぁ情けない。」
ずるずると抜けていく身体にいつしか持っていたお猪口も畳に転がっていた。机に突っ伏すこの身も起こす気なんてなれない。
「椿くん。」
「なあに先生。」
「これは、ずるい大人の戯言と思ってくれ。」
「えぇ。」
私は、残念だが、この話を書き終えることは出来なさそうだ。書けないのだ。私の作品にはどうしても花が咲かないのだ。何度書いても書いても芽が出たかと思ったらその花を咲かせることは無く、無様に散ってしまうのだ。なんでだろうな。いや、分かってはいるのだ。所詮、私が書いたところでなんになると心の底で思っているのだろう。
しかしだ。今度は君の為に書きたいと思ったのだ。いつからだろうか。きっと初めて君と会ったあの時からだろう。僕の心にはいつしか君という花が咲いていたのだ。なんとしてでも君の為に書き終えたかった。そして君に思いを告げたかった。
だが、またしても筆が止まってしまったのだ。
君にこの前、溢したね。君のお陰で書けそうだと。確かにあの時は書けたはずなんだ。その証拠にもうこの最期だけなんだ。またしても止まってしまったんだ。
「私はどうしたら続きが書けるのだろうか。」
いつの間にか、私と彼女の距離は埋まっていた。床に彼女が横になっている。私の下敷きになっている。いつの間に?あぁでもこんなにも近い距離で話しているのは初めてかもしれない。
彼女の白い腕が豆だらけの男の手の中に納まっている。押さえられている。あぁ痛そうだ。しかし彼女は痛いともやめてとも言わない。黙って私の戯言に付き合ってくれていた。
「あぁ、本当に私は愚か者だ。」
逃げない君に付け入る様にその身を預ける。いっそのことこのまま、君が私の花になってくれればもしかしたら、書けるかもしれない。あぁ、なんてつまらない戯言だろうか。
「せんせ。ねぇせんせ。私が―」
朝、寒さに身を震わせ目を覚ました。いつの間に私は寝ていたのだろうか。いや、気を失っていたのだろうか。あぁ頭が痛い。ずきずきと痛みが反芻してくる。しまった呑み過ぎた。いつの間にか部屋には私一人。彼女は部屋に戻ったのだろうか。いつ?思い出せない。私は最後、彼女とどんな会話をしていたのだろうか。彼女は私が旅立つ前に呟いていた言葉はなんだっただろうか。あぁ確か。
私が先生の花になってあげるわ。
であっただろうか。あぁ言っていた言っていた。確かに彼女は言っていた。しかしなんでそんなことを言っていたのだろうか。あぁダメだ。酒を飲んだあとはいつもこんな朧気になってしまう。少し頭を冷やそう。今の時期だ。井戸の水を被ったら嫌でも目が覚めるであろう。覚めたら彼女に詫びをしなくては。そして、
そしてなんと思ったのだろうか。私は。あぁ、今となっては思い出せない。何故なら戸を開けた先の庭。雪が積もったその庭の真ん中に彼女が佇んでいたのだ。
白き衣に散った赤い花。花嫁の綿帽子から覗く赤い紅のようなそれが弾けた。私の脳内をかき乱した彼女は、庭に生えた松の木に首を吊っていた。
「あぁ…!」
声がする男の声だ。一体誰だ?あぁ彼女の父君だ。そして女の声も聞こえる。母君も泣き叫びながら彼女の身体を起す。彼女の白い肌がいつも以上に白く映った。なんということだ。私はその情景を忘れることなんてできなかった。あぁ彼女はこのことを言っていたのだろうか。私の花になるとは、このことを言っていたのだろうか。
「これ…だ。」
彼女の最期は私の物語の終止符をつけるのにこの上ない作品となった。あぁ、彼女のために書いていたのに、最期を飾ったのがまさか彼女の死そのものなんて。彼女はなんてものを最期に私に見せてくれたのだろう。あぁ…感謝をしてもしきれない。なのにどうして。
「君には見せたかった。」
もう少しで書き終わるはずだった私の大作。この私の脳内で完結を迎えたそれは、もう誰の目にも見せられなんかしない。否!
「彼女の最期は私だけの!私だけのものだ!」
笑いが込上げてくる。あぁきっと周りの者達は気が触れてしまったと嘆くことであろう!愚かめ。誰が悲しんで気が触れてしまったといった。私は喜んでいるのだ。この上のない幸せを噛み締めているのだ!こんな紙屑はもういらないんだ!あぁなんて滑稽なことだろうか!誰にも見せない。誰にも渡さない!君の終焉は永遠に私だけ知っていればいい!
あぁしかし本当に君に見せられないことだけが心残りだがそれもいい。いつか私がそちらに渡った時に見せてあげよう。それまでは愚かな私を嘲笑っていてくれ私の椿!
だから今だけは、涙を流すことだけを許しておくれ。
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