秋の狂 承

「名乗るほどの者でもありません。」


そう、頑なに貴方はお名前を私に教えてはくれませんでした。日の光を浴びず、閉じてしまっているその花びらのように頑なに。

道端で助けていただいたあの日から私はどうしても貴方のことが忘れられなかったのです。竜胆の花を咲かせた異形のヒト。


思えば、その頃の私は錯覚を起していたのでしょう。亡き夫の姿を、似ても似つかない美しい貴方を重ねて。やっと、やっと帰ってきてくださった。だから、どうしても会いたかった。

あんなに出るのが億劫でした外にも、それだけの理由でこの身を動かすことが出来たのです。今思えば、なんて愚かな女と自分でも思います。だって、


「―様…。」

「おかえり。」


夫の名前を呼べば、名前を教えてくれなかった貴方は振り向いた。

夫の名前を呼べば、貴方はその腕を広げ私を受け止めてくれた。

夫の名前を呼べば、壊れ物を扱うかのように私の頬を撫でて下さった。


夫が帰ってきてくださったと壊れかけた私が錯覚するには十分でした。

けれど、貴方は拒否をすることもなく、ただ、


「綺麗だよ。」


夫のように、夫以上に、私に言葉をかけて、貴方はだんだんとこの身に浸潤していったのです。


「貴女は綺麗だ。」


美しい姿をした異形のヒト。名前もしらないヒト。


「秋穂。」


ゆっくりと、ゆっくりと、


「綺麗だよ。秋穂。」


甘やかな蜜に沈み込む様なその声で貴方は私を満たしていったのです。



聞いた?

聞いたわ。それに見ちゃったのよ。

女寡に花が咲くとはいうけれど、

ねぇ…。あんなに暗かったのが嘘みたい。

若い男を連れ込んで、その身を持て余しているのかしら。

まぁ、いやだ。


「なんとでも言って下さいな。」

「どうかしたかい秋穂。」

「いいえ、なんでも。」


誤魔化す様に凭れ掛かると、ただ黙ってその身を貸してくださった。


囃し立てられる噂話。虚実が入り混じったそれは幾度となく私の耳へと入り込みました。いつからだったかしら。

…あぁ、そう。この方を家へと招くようになった頃だった。だから、もう随分と前のこと。やだ私ったら。招くだなんておかしかったわね。だって、私の夫なんですもの。帰ってきてもらうのは当然のことなに。まだ、貴方が帰ってきてくださったことに浮き足をたててしまっているみたい。


けれど、


「そろそろ行くよ。」


夕日が沈みこんで辺りが暗くなってしまうと、貴方は決まってこの家から出て行ってしまう。そしてまた朝日が昇る頃に私の目の前に現れて、ただいまと言う。


どうして行ってしまうの。どうしてまた私を一人にしてしまうの。お願いいかないで。


どんなに言葉を並べても貴方は行ってしまった。本当に帰るべき所へ。


貴方が帰って空っぽになってしまったこの家は、夫が亡くなった時のように、いえ、それ以上に虚無が私を包み込んでいくようでした。

ねぇ気付いていらして?夫の姿を重ねていたはずなのに、今では貴方の姿を、あの人の姿を重ねない、ありのままの貴方を思い浮かべてしまうの。

いつからからなんて覚えてはいないわ。あぁ、でもきっとそうね、あなたが甘やかな蜜で私を沈め始めたあの時からかもしれません。

嘘だと思う?私が一番信じられないの。あんなにあの人が帰ってくるのを待ち望んでいたはずなのに。でもね、


「その証拠に、私はもうあの人の顔を思い出せないの。」


目を閉じて思い浮かぶのは誰だと思う?あの人じゃないの。貴方様なの。

ねぇ、名前を教えてくれない竜胆さん。貴方も私を尻軽と思う?それとも貴方はまだ私を受け入れてくれる?お願いよ竜胆さん。


「だって、私を堕としたのは貴方なのよ。」


手を伸ばして受け入れて、蜜で包み込んで、その声で私を導いて。全部、全部、貴方があの人の代わりに埋めてしまったのよ私を。

ねぇ、いつになったら本当の、あの人の名前ではなく、貴方の名前で呼べる日が来るのかしら。


ねぇ、竜胆さん。

私、あなたのお名前が知りたいの。

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