春の狂 承
桃色の花びらがひらひらと舞い落ちるのをぼうっと見つめる男がいた。
腕を組み、咲き誇っている桜を見上げる男、晴彦はいつになく難しい顔をしていた。
「あぁ、見ろ。」
「なんだなんだ?またか。」
「堅物の淡い恋心ってのは見てて面白いねぇい。」
「まぁそう言ってやるなよ。あの晴彦にやぁっと春が来たんだ。」
「確かに。それもそうか。」
「いつからあんな調子だったか?」
「そうだなぁ…確か、あの見回りの…。」
「やめてやれ。ほっておいてやろう。」
「そうだな。たまには生真面目男も女子にうつつを抜かした方が良いってものだ。」
少し離れた母屋では、晴彦の同僚たちがひそひそとそんな話をしていたとは、本人はつゆ知らず。
話の種となっている晴彦は未だじっと桜の花を見つめながら、あの夜のことを思い出していた。
鴇色の着物に身を包んだ異形の者。
この世の者なのか。その姿は言葉にするのであればそう、物の怪の類に思えた。この世の者とは思えない酷く悍ましく、そう悍ましい美しさをもった者だった。
目を瞑り、脳裏に浮かぶのはあの桜。生まれて初めて、この身の底から美しいと感じた。仕事一筋だった、己が可笑しいくらいに無我夢中になるとは。
たかが花だと馬鹿にしていたあの桜に執心になるとは。それはそれはとても恐ろしい程に。
高揚した気持ちを吐き出す様に、深く深く息を吐き出す。体中に籠った熱を冷ますように。
懐にしまっているあの夜に握ってたてぬぐいを着物の上から握り絞める。
もう一度会えないだろうか。せめて一目だけでもいい。あの美しさを今一度この目に焼き付けたい。思い出す度に痛いくらい高鳴る心の臓をどうかあの手で慰めてほしい。
「…もう一度。」
切なげに口から零れ出た言葉は桜の花びらが包み込んだ。
何度目かの夜が来た。
提灯の明かりを頼りに晴彦はあの桜並木を歩いていた。
ここずっと、夜、数刻の間あの桜の者を探しているせいか、晴彦の目元にはうっすらと黒い影が出来ていた。
しかし、当の本人はそれに気づいていなかった。
それ程まで彼の心内を支配しているのはあの者だけであった。浅い眠りが続いたのと、疲労が重なり続けている今、晴彦の足取りはとても見ていられるものではなかったそうな。
それはあの、ほおっておいてやろうと囃し立てていた同僚たちが家で休んでいた方がいいと心配するほどに。
しかし晴彦は今日も夜の桜並木を歩いていた。
ただそう、会いたいという一心だけで。
しかし、心ではそう叫ぶものの、身体はとうに限界を迎えていたらしい。一歩、踏み出したその時、自身の身体を支えきれず地面へと倒れ込んだのだ。
手から転がり落ちた提灯はそのまま近くの川へと転がり落ちてしまい、辺りは暗闇に包まれた。月も今日は雲の間に隠れてしまっていて、明かりが届かない。
倒れた晴彦はなんとか起き上がろうとするも、眠気のせいでそれが出来なかった。ぼぅとする意識の中で、身体を起すまではいかなかったが、なんとか反転することは出来た。そして掠れる瞳で見つめるのは桜の花。
頼りない力で桜に手を伸ばすも、到底届かなかった。
まるで今の己自身の気持ちと同じではないか。
自虐的に己を笑い、瞼を閉じた。ゆっくりと手を下ろそうとしたその瞬間、ひんやりとした感触が晴彦の手に伝わった。
きゅっと控えめに握られているようで、手の甲をゆっくりと撫でられる。
誰だろうか。目を開けるのすら億劫となってしまった今では、誰がいるのかはっきりと伺えなかった。
「だ、…。」
絞り出した声もえらく小さかった。ここまで限界がきていたのか。どうしようもない。情けない。
ぐるぐると頭の中で巡る自分への暴言に埋め尽くされそうになっている時、耳元に小さな音が聞こえてきた。
「もし、もし…。」
女性の声だ。聞いたことのない、それは柔らかな声。
「もし、もし…。しっかり…。」
今度は額にひんやりとした感触が伝わった。あぁ、この感触は知っている。つい最近、味わった、あの、
「晴彦様。」
持てる力を使い果たすように閉じていた瞼を動かす。
先程まで暗闇と夜の静寂に包まれていたはずなのに視界に広がったのは、自分は恋焦がれていた桜の花。
晴彦の周りがほぅと光が灯っているかのように明るく見えたのだ。あの異形の者が。
「お気を確かに…。晴彦様。」
あぁ、この桜はこんな声色をしていたのか。姿形だけではなく、声色まで美しいとは。そして己の身を案じていてくれているとは。
極楽浄土にいるような気持であった。
この上内ほどの幸せが胸を包んだのだ。
もう一度だけ会いたいと願っていた桜にもう一度会えた。それだけで限界を迎えていたはずの身体に英気が流れてくるような心地よさであった。
握られていた手をしっかりと握り返し、晴彦はずっと伝えたかった事を絞り出すように言った。
「御逢い、したか…た。ひと、…めだ、け、も、いち…ど。」
伝えたいことはまだまだ山ほどあるはずなのに、だんだんと回らなくなっていく口に嫌気すら覚える暇もなかった。
「あ、なた…おし…た、いし…。」
「…今は眠りましょう。晴彦様。また、目が覚めた暁に、夜の帳が降りた頃、またこうしてお待ちしております。だから今は、…ゆっくりとお休みなさって。」
寝かしつけるように瞼に重ねられた手に、成す術がなかった晴彦はそのままそっと目を閉じた。
やっと会えたのにという反論すら出来ないまま。
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