冬の狂 起
私はこの人生で忘れることの出来ない過ちを昔起こしたことがある。忘れられるわけもない、愛した女にしてしまった過ちだ。
手が悴んでうまく持てないペンを置いた。窓の外を見れば、すっかり庭が雪景色へと変わっており、道理でと思った。しかし、それだけでは飽き足らないらしい。未だにぱらぱらと振り続けるそれをじっと見ていると静かに戸が引かれた。
「先生。」
鈴を転がしたような声が冷たい部屋に静かに響いた。戸に目を向けるとセーラー服に身を包んだ椿の花の子がそこにいた。
「おかえり。」
世話になっている下宿先の一人娘である彼女は、学び舎から帰ってきたばかりなのか、いつもは白い手が指先だけ赤くなっていた。
「ただいま。すごい雪でした。」
「そうだね。ここに居てもよく分かる。」
「なのでこんな物をお持ちしました。」
ずるずると重そうに引っ張るそれは小さな火鉢。この部屋ではそれ一つで充分温まれそうなそれを彼女はどうぞと部屋に置く。そしてさも当たり前かのように彼女も部屋に入り、火鉢の熱で手を温めていた。
「ありがとう。」
「いえいえ。先生のおかげで私もこうして温まれる訳ですので。」
「ちゃっかりしている。」
「ふふ。だって働いた分の対価は頂きたいじゃないですか。」
「そりゃあそうだ。ではおまけにこれをどうぞ。」
先程まで睨めっこしていた紙の束を差し出す。するとまだ温まりきっていないその白い手で、彼女は嬉しそうに受け取った。
「でも、これじゃあ得しちゃいましたね。」
「そうかい?じゃあ返してもらおうか。」
「いやですよ。もう受け取ったんですもの。」
手渡した物を返してもらおうと伸ばした手が宙へと空ぶる。渡したそれは、もう誰にも渡さないと言わんばかりに、だけど紙がしわくちゃにはならないようにと彼女の胸の中で抱きしめられていた。
そして火鉢の横でゆっくりとそれに目を通していく彼女を、机に頬を突きながら眺める。
しがない物書きである自分の作品を初めて見せた時、面白いと語ってくれた彼女をどうしても甘やかしてしまうのは、やはり贔屓にしている部分が無いわけではないのであろう。けどそれ以前に彼女のその身の動き、一つ一つがどうも愛らしく思えて甘やかしてしまうのだ。歳が10以上も離れているから、まるでいないはずの妹を可愛がるようなそんな気分だ。
ただ困ったことに、
「(日に日に綺麗になっていく。)」
妹には抱かないであろう、その感情はいつしか大きくなっていっている気がした。一体、この娘に対して自分は何を考えているのだろう、と。そしてもう一つ困った事に、
「(この娘の気持ちに答えてやらない自分は汚い大人だ。)」
彼女も彼女で、歳の離れた兄のような人に対する態度ではなく、一人の男として接するときが偶に見えた。決して口では愛を語ることはなく、健気に、懇親的に尽くす。そんないじらしい姿をされてしまえば、勘違いではなく嫌でも確信へと変えさせられた。
しかし彼女の思いに、男として答えてやることはなかった。
だってそうであろう。こんな売れない物書きに。しかも年も離れた男に。この子の親も許さないだろうと勝手に心の中で決めつけていく。そう、ただたた決めつけるだけ。そうしておけば、きっと間違ったことはしないと自分の中で線引きが出来る。
「(せめてこれで食っていけるようになるまで…いや、その前に彼女が学び舎を卒業してから。)」
それまでにはきっと、この子もこんな大人に対する気持ちもきっと薄れるだろうとまたしても決めつける。いつまでたってもこの逃げ腰の姿勢は直せないなぁ…と一人心の中で溜息を吐いた時だった。
「先生、好きです。」
「…ん?」
「今回のお話しも、好きですよ。」
「そう…かい。そうか…。気に入ってもらえたのなら嬉しいよ。」
「えぇ。…では、そろそろ私は部屋に戻りますね。お邪魔しました。」
「あぁしっかり勉学に励めな。」
「先生も、執筆、頑張ってくださいね。」
それじゃあと彼女が部屋を離れて行った。静かに閉じられた戸を数分見つめたまま、柄にもなく、どきどきと高鳴っている胸を撫でる。
「あぁ…。心臓に悪い。」
身体はすっかり温まった。えぇそれはもう。火鉢のお陰ですっかりと。いや、火鉢だけではないのは百も承知なのですが、ね。えぇ。
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