第四章
1
弟のことを、誰よりも思っていたのだ。
弟は、まだとても幼かった。
常闇は自分の後ろをついてくる小さな弟を、誰よりも大事にしていた。しかし、弟はある日を境にどんどん衰弱していき、そして死んでしまった。弟とおなじように幼く、まだ元服したばかりの常闇には、それもどうしようもなかったのだった。
ひどく泣きわめく母親から、常闇は弟の死因が病死であったことを知らされた。
常闇がひとりでぼんやりと過ごしているうち、父母は亡き弟と似ている常闇を見ていることですら、次第につらくなっていったようだった。
息子を売る必要があるような貧しい家でもなかったのに、気が付くと常闇には身請け話がきていて、これまた気が付いたときには、常闇は宮の貴人だという爺の家に居り、蓮の宮様になるのだという赤子の侍従として育てられることになっていた。
常闇を息子として迎え入れた貴人の男には子がなかったが、正室の女も側室の女もひとりずつ居り、なのになぜその男に子供がいなかったのかというと、どうもこの男にはその気がなく、それも、そもそもそういう性質の者であったらしい。
常闇はそれについて、ちっとも驚かず、あるがまま「そうなのか」「だから自分がここにきたのだ」という感想しか抱かなかった。
赤子と会うため、常闇は男の息子だという肩書だけ持って、ある農村へと居を移すことになった。
そこで出会ったのが、常闇よりもはやく――元服もしていないような幼いころ――にそれが決まり、常闇よりも正統な血筋で「宮様の従者になる」のだという鈴虫であった。
常闇は「こいつがいるのならば、自分は必要ないのではないか」とぼんやり考えてはいても、それを口には出さず、鈴虫と幼少期を過ごすことももちろんせず、ただ義務だからと、勉学と武道の稽古に励んだのだった。
気が付けば、常闇は若くして、村の門番となって将来の宮様のそばにいるようになっていた。宮様は若椿という名のとても気が強い少年で、しかし常闇からすれば、その若椿の生意気さが、幼くして亡くなった弟と重なって見えていたのだった。
弟が死んで約十年の間、常闇はずっと、一人で生きてきたのだ。そんな常闇がようやく見つけた弟の影に惹かれないでいるなど、どだい無理な話だったのだろう。
気が付けば、常闇は若椿のことを――遠巻きにではあったが――弟のようにかわいがっていて、若椿が大事にしている、彼の双子の妹のことも、常闇自身の実妹のように思っていたのだった。
2
農村の門番となった常闇の、最近一番の悩み事は、自分とおなじような身分である唯一の――つまり、宮様の従者になるのだという未来が決まっている――鈴虫のことであった。
鈴虫はとても明るく、だが少々それが行き過ぎているのか、粗野な面も併せ持っているような青年で、村一番の金持ちである親の金で豪遊する、常闇から言わせれば「放蕩息子にもほどがある」ような男である。
しかし金持ちの息子である鈴虫は、身分と肩書だけ持って村にきた、門番として細々と暮らしている常闇とは、村人たちからの扱いの差が歴然であり、それも常闇としては、やはり面白いものではなかったのだった。
おなじ肩書の自分がこんなに誠実に暮らしている傍らで、なにも気にせず親の金で遊び借金を作るような男が、村人にちやほやと世話を焼かれているのは、常闇からすれば目障りでしかなかった。だから、関わり合いたくはなかったのである。
「門番さんは俺のことが嫌いなのだろう」
蛇が獲物をなぶるような眼でそう鈴虫が呟いたのが、常闇にとって、ある種の転機となった。
鈴虫と常闇は、なぜか常闇の家で宴会をしていて、それも、鈴虫の「門番さん、一緒に酒を飲まないか。あんたと話したこともないし、どんなやつなのか知りたくてなあ」という気まぐれのせいであった。
常闇は最初、面倒だからと断ってしまおうとしたのだが、それをさせないのが鈴虫である。強引に常闇についてきて、家まで上がり込んできたものだから、常闇も「勝手にすればいい」と家中の酒を出してやったのだ。文句を言われる前に勝手に酔いつぶれたら良いと思っただけの行動であったが、鈴虫はそれを常闇の親切心と取ったようで、ひどく上機嫌によくしゃべった。
鈴虫のくだらない話を聞くのは常闇にとって退屈であり、だからこそ常闇は無口なまま酒をあおっていたのだが、そんな些末なことは気にしないのが鈴虫である。
相当の時間喋って飲んでとしていた鈴虫が、やっと口を閉ざしたなと思っていた矢先に「俺のことが嫌いだろう」と尋ねられて、常闇は一瞬間の抜けた顔をしてしまった。それに鈴虫は腹を抱えてけらけらと笑っている。
「あんたの俺を見る目には、おまえのことなんか軽蔑してるって、はっきりと書いてあるんだよなあ。なんだその呆けた顔は、はは、面白いなあ。まさかうつけの俺にはわからないとでも思ったのか」
常闇は「うつけという自覚があったのだな」と思ったが、口には出さずに無言で酒を啜っている。そんな常闇をじっと見据えながら、鈴虫は言葉を重ねる。
「村のやつらはみんな俺に金をせびるくせに、自分たちは俺のことを人として足りない、くずだと罵る」
「金の貸し借りの前に、己の行動を省みたらどうだ」
鈴虫の言葉に、つい常闇はそう口を滑らせ、途端、漏らした己の本音のとげに目をそらした。しかし鈴虫は依然こちらをじっと見ており、酒を煽りながら「省みる? 無理だよ。俺には学がないんだ、わかっていてもどうにもならないことだってあるんだ。でも、俺は、将来、若椿の従者になるんだぞ。将来の宮様の一番お傍にあがるんだ。村人たちは若椿が宮様だということにすら気が付いていないではないか。阿呆はどちらだ。あんなに涼やかな音が鳴る御子など、ほかにどこにいるというのだ」
常闇は顔を上げ、鈴虫の目を見る。常闇が鈴虫に対して真剣な顔を見せたのは、これが初めてだった。その証拠に鈴虫は一度目をまたたいたが、さっとその驚きは、満足げにゆがめられた笑顔に隠されてしまった。
「門番さん、やはりあんたは俺と同じに見える。鬱屈した自分を、若椿を真ん中に据えることで、まともに見せようとしているんだ。これは愉快……」
「お前になにがわかるんだ」
鈴虫は、常闇が眉根を顰めたのを上機嫌に眺めながら「あんた、俺のこと、放蕩者の馬鹿野郎だって思っているだろう。俺もあんたのことを馬鹿真面目でつまらないと思っている。その程度しかわからないがな、あんたが若椿のことを、後生大事に自分の存在意義にしていることくらいはわかるさ」とごくりと酒を飲みくだした。
「同じ穴の狢」とからから腹を抱えた鈴虫に、常闇は痛み出した頭を手で押さえて「面白くもない冗談だな」と呟いた。
「俺はなあ……門番さん。こんなクソみたいな生活を送っている身の上で、なんでのうのうと生きているかというとさ、宮様の従者になるっていう理由があるからに他ならないんだよ。宮様以外の誰かの従者になるってのでもだめでさ、この宮様っていうのがみそなわけだ」
「わかるさ」と言いそうになった口をへの字に閉じて、常闇は鈴虫を、じっと見ている。鈴虫は「この世で一番偉い方の傍に侍ることが、生まれたときから決まっていて、だ。それを自殺などでみすみす逃す気にはなれないさ」と言葉をつぎ「門番さんもそうなのだろう」
「……馬鹿にするな」
「それは、己をか? まさか若椿を、とは言わないだろうな」
「門番さんはやはりくそがつくほどの真面目と見える。つまらない男にもほどがあるぞ」と鈴虫は唇を尖らせ、それに常闇が「喧嘩なら
「余所の方が、門番さんよりましかもな。門番さんがこんなに肝の小さい男だとは思わなかった」
常闇は殴りかかりそうになる己を必死に抑え込んでいたが、鈴虫は常闇の心中を知っているうえで、常闇に対して侮蔑的な言葉を投げ続ける。
「ああ、わかった。門番さんは堅実に生きていると自分でごまかしているようだが、その実ただの臆病者だったのだな。だからつまらない男だとみんなに言われるのだ。これは愉快――」
鈴虫の言葉の途中で、常闇は立ち上がり、その胸倉をつかむ。鈴虫はしらっとした顔で常闇を見ながら「酒がこぼれるぞ、門番さん」と笑った。
「お前に……好き放題した挙句、親にしりぬぐいをすべてさせているような、能無しのお前に! 俺の何がわかるというのだ!?」
「親? 門番さんだって、させようと思えばできることだろう。なにをそんなにうらやましがることがある? 俺に嫉妬しているのがひしひしと伝わってくるぞ、門番さん」
常闇は鈴虫の頬を打ち、飛ばされた鈴虫が片手を地面についたのを、冷めた心地で見ていた。腹の奥から怒りがふつふつと湧いてきて、自分がなにに怒っているのかも、次第にわからなくなっていく。
「門番さん、おきれいな振りをしてはいるが、腹の中には俺への嫉妬と、若椿への執着しかないではないか。それを見抜かれてそんなに青筋を立てていては、図星だと大声で言っているようなものだぞ」
鈴虫は「俺はな」となおも続ける。
「俺は、見た目通りのうつけだからな。若椿への、いや――俺自身の将来への執着で、やっとここに立っているのだ。あんたに殴られて笑っているのも、自分がくだらない人間だとわかっているからだ。あんたが羨ましがっているのは、俺のそこなのだろう。一度くらい腹の内を割ってみないか。村人の誰ともその調子では、あんたの執着している若椿も、あんたを決して信頼しないぞ 」
「お前になぜそんなことを言われなければならない」と常闇が問うと、鈴虫は笑って首を振り「わからないがなあ。ただ、あんたとは友達になれそうな気がしたんだ。俺のこの勘というやつは、まあまあ当たるのでな」
3
鈴虫の調子に飲まれてしまったのか、もはや怒鳴りつける気力さえもなくなった常闇は、鈴虫の語るむかしばなしを、うなずくことも相槌を打つこともなく黙り込んで聞いていた。
鈴虫の話によれば、やはりこの男はとても幸福な幼少期を過ごし、そのまま少年期を終え、とにもかくにも恵まれていたようであり、どことなくいつもさみしさと虚無がつきまとっていた自身と鈴虫を比べてしまって、常闇は
しかし、鈴虫はずっとむなしさを抱いていたらしい。鈴虫は、自分が肩書と家柄だけの男であることを知っていて、それに対する寂しさのようなものを、誰に対して話しても、一向に「恵まれた」鈴虫の悩みを受け入れてくれるものが現れないことが、鈴虫の寂しさをますます強くさせていくらしかった。
「そんなことをいうのは嫌味だとか、そういう悩みしかない俺が羨ましいだとか、だからなんだというのだ。俺の気持ちよりも自身で感じたことばかり語られて、そんなものを聞くために、俺が悩みを話したとでも思っているのか」
憤って当時を振り返る鈴虫に、常闇が「あまりにも贅沢な悩みだというのはそうだろうな。悩みが羨ましいという気持ちのほうが理解できる」と酒をあおっていると、鈴虫はちらりと常闇を見たようだった。
鈴虫の視線を知っているうえで、常闇は鈴虫のはなしを聞き流しながらも、ここまできてもまだ、この男と本音で語りあうことを、自分自身が避けていることに気が付いていた。
「門番さん。俺が羨ましいか」
鈴虫がそう目を細めたので、常闇はぐいと酒を喉に流し込み「疎ましいとは思っている」と吐き捨てた。
「疎ましいか! はは、そんなにはっきりと言われたのは初めてだ。面と向かってはなあ、さすがに誰も、そんなことを言いはしないぞ……」
「そりゃあ、お前はそうだろうな。疎ましがられることも、邪魔だと思われることも……信頼していた家族から捨てられることも、経験などないだろう」
「門番さんはあったとでも言いそうな口ぶり」と鈴虫が目を瞬いたことに対して、常闇は深い息をついた。あるとも、ないとも、やはりこの男に言いたくはないが、なぜか口が滑ったのも事実である。
「幸福な生まれのお前には、きっとわからない」
常闇の言葉に、鈴虫は感じたものがあったらしく「幸福ねえ」と唇を尖らせているので、常闇は「なにか言いたいことがあるのか」と睨むように鈴虫を見たが、鈴虫は
「門番さん。その口ぶりだと、門番さんには家族に信頼されていた昔があったように思える。俺は家族に信頼などされたことはないし、
「俺には門番さんのほうが幸福に見えるぞ。ひとり気ままに生きて、堅実にいるからな。そういうやつの方が、村人から信用されるし、現に門番さんを頼るものは多いではないか」と鈴虫が言葉をつないだので、常闇はその鈴虫の言葉に虚を突かれてしまった。
「互いを羨ましい、羨ましいといっても仕方がないのだがな。門番さんが情けのない喧嘩を売ってくるものだから、つい買ってしまったではないか」
「……情けが無くて悪かったな」と常闇はばつが悪そうに目を逸らし、その常闇の様子に鈴虫は「やっと本性を現したな、門番さん」と指をさしたので、常闇は再びきょとんとしてしまう。
「うん、うん」と、鈴虫は常闇に対して、ますます上機嫌で酒を胃の腑に流し込んでいる。
夜はとっぷりと更けており、外の月灯りと家の中の火くらいでは、口が裂けても互いの表情が良く見えるとは言い難く「そろそろ帰る頃合いだな」と、常闇は何度目かわからない期待をしていたが、鈴虫はまったくもって「帰る」とは言いださない。
いよいよ数度目の淡い期待が裏切られたあとに、常闇は遂に「もうそろそろ帰ってくれ」とその場に寝転がった。鈴虫はしばらくきょとんとして、そんな常闇の様子を見ていたが「そうだなあ」と呟いて、最後に酒をひとくち飲んで立ち上がった。
まったくふらつきもしない様子であった鈴虫に、少々酒が回ってきているらしい自分を比べて、常闇はまたふつふつと胃の腑がむかついてくるのと同時に「こいつはきっと、毎夜、こんな風に大酒を食らっているのだろうな」と呆れてものも言えなくなるのだった。
「それじゃあ、
そういって、どすどすと重たい足音を鳴らしながら出ていく鈴虫を振り返りもせず、常闇は気が付くと酔いに任せ、その場で寝てしまっていたのだった。
「酒の臭いがする」と若椿が眉間にしわを寄せるものだから、常闇はますます鈴虫への恨みつらみが溜まっていくのだった。常闇は、村の門の前に立ってはいても、二日酔いで自分が使い物にならないくらい弱っているのに気が付いていて、勿論、門の前を通った若椿もそれにすぐ気が付いたらしい。朝の太陽が常闇の目を刺し、頭は激しく痛むのだった。
「どれだけ飲んだんだ、常闇。まったく良い御身分……」
なにも返せず「申し訳ありません」と頭を下げる常闇に、若椿は鼻から息をはいて「その状態で雪椿に近寄ったら、ただでは済まさないからな」とうんざりした様子である。常闇は「はい」と頷くだけに留めたが、しかしそうやって頷くことさえも、体が怠くて仕方がないのであった。
「そういえば」と若椿が常闇の顔を見上げ「鈴虫と飲み比べをしたそうだね。あいつが言っていたよ」
常闇は、若椿の顔を見る。面白いものを見つけた顔で笑んでいる小さな主人は、常闇に耳打ちするように「お前たちの仲が良いだなんて、意外も意外。犬猿の仲だと思っていたのにね」と呟いたのだった。
「……犬猿ですよ」と常闇がうんざりしたように言ったとき、大きく常闇を呼ぶ声が割り込んできた。声は鈴虫のものであり、ただでさえ二日酔いで頭が痛むのにと、常闇は我慢ができずに手で頭を支えたのだった。
「門番さん、どうして頭を抱えているんだ。門番さんの親友である、この鈴虫がきたというのに」
常闇がつい「誰が親友だって」と眉を顰めるのを見て、若椿が笑っている。鈴虫は若椿とは違い、本当にそうだと心から信じ切った様子で「俺と門番さんが、だよ」と嬉しそうにしているので、常闇は「こいつは本当にうつけらしい」とため息をついた。
「門番さん。俺は一度酒を
鈴虫の言葉に、若椿が「そうだね、たしかに。鈴虫はそういう奴だ」と頷いても、常闇からすれば、早々に諦めてくれと出した酒のせいで結局、鈴虫が懐くなど、本末転倒も良いところである。しかし鈴虫の強引さはよく見知っているのだから、いかんともしようがないのがますます不幸であった。
「図られたね、常闇。まあ、こういう風な友人も良いんじゃない」
若椿の言葉は、本当に「常闇にとって良いことだ」と言っているというよりは、常闇を揶揄って楽しげにしている語調であったので、常闇は昨夜から今朝にかけての出来事だけですでに、胃の腑を痛めてしまったのだった。
4
桃煉は、ここ最近、闇夜に隠れて人を殺めるのが日常となってきている。だんだん若宮の食事の量が増えているのが大きな理由で、そもそもなぜ若宮の方も、食事が増えたのかといえば、宮内では一等の儀式の日取りが近くなってきているからであった。
「桃煉、よくやったね」といって、優しく桃煉を抱きしめる若宮の姿は妖艶で、おおよそ人の美しさには思えないほどであり、餌を求めて、男衆をおびき寄せる桃煉の方も、日に日にその美しさが妖に近くなってきている。
「まったくもって、あのふたりは始末に負えないね」と呟いた主を、主の傍付きたちが忍び笑うのだ。
空には月が丸く白く浮かび上がっていて、生ぬるい夜風が主の頬を撫ぜる。主は寝間着の裾を翻し、今日もまた橋の袂にいた。この橋を渡るその時がくれば、それこそが己の最期であるのだと、主もよくよく知っている。そして蓮と人を分けるこの橋こそが、「あの世」と「この世」の境目だということも、主は分かっているのであった。
「あの子は、妖なのか、人なのか」
謳うようにそう唇からこぼして、主は傍付きたちを見やる。傍付きたちは一様にくすくすと笑っており、そのなかのひとりが呟いたのは「どう見ても、あの子どもたちは妖そのもの。まさに蓮というところでしょうな」であったので、その言葉に主は「ううん」と小さく唸って顎を触っている。
「明日は我が身」
主の気分は些かばかりか高揚しており、それもそのはず、今日は主のほうに通い人があったのだ。こういう日に、主は宵闇を縫って、この橋の袂に出てくるのが癖であり、それはこの宮が、浮世から離れた場所であることを確認する作業でもあった。この赤い橋が、闇に浮かぶ様はまさに夢のなかの光景のようで、それは「美しい」というよりは「怖ろしい」である、と主は思う。
橋の袂は、蓮派の裏の林からは遠い場所にあるのだが、桃煉はこの場所をよくほかの男との逢瀬に使っていたのだった。桃煉はすっかり宮で浮名を流しており、それはまさに彼女の父のようであった。父が女をよく殺していたのと同じ手口で、桃煉も男をよく殺しているのだとはっきり見知っているのはごく限られた人物だけだとはいっても、薄々とそれを感じ取っている者は、この宮にも無数に存在しているのである。
「繰り返している……」と主は呟いて、橋の欄干に手を触れた。赤い橋は冷たく、まだ夏の暑さを残す夜で、ほかの冷ややかなものであれば心地が良いくらいには蒸し暑いのに、この橋のそれは特別、背筋に悪寒が走るのだ。
「我が晴れの日は一体、いつだろうね。もう、長くはないのだろうな」
呟き、主はその赤い目を伏せる。妖に似た紅色の瞳を、鏡を見るたびくりぬいてしまいたくなったのは、いったいいつ頃からだっただろうか。
もしかしたら、この宮のしきたり通りに、女人と肌をあわせなければならなくなってからだったかもしれない。その行為自体も、その行為の意味も、すべてが主には残酷で、汚れているように思えるのだ。
「僕を律と呼んでくれるのは、もうあの妖ただひとりなのだ」と思えば、主はこんな運命のなか、一番輝いていた時期に、最後となったあの女性を思い出す。
春の色をした髪の、可愛らしい人だった。その人の前で、主は「それが僕の運命なら、僕はその運命の中で、美しく咲くことを選ぶ」と笑ったのだ。それが最初で最後、主はそれから次第に、当時自分が持っていたはずの強さを失っていったのである。
桃色の髪のその女性とおなじ顔の少女は、今宵も人を殺めており、その少女が一番に大切にしている兄が、今夜もそんな少女を褒めるのだ。
「これを運命のいたずらと言わずにして、何というのか」と主は思う。その思考に己のことながら笑みがこぼれたところで、いつも主は「この宮はなんとつまらない」と赤い目を細めるのである。
「明日は我が身……」
繰り返して、主は傍付きたちをぐるりと見やる。ひそやかな笑い声を立てる傍付きたちも、きっと、人ではなく妖なのだろうなと、主は本心から思っている。
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