第五章
1
「桃煉の身の振り方を、もうすこし考えてあげては
主の言葉を腹の底から疎ましく思っているのを隠しもせず、若宮が眉間にしわを寄せているので、主は「やれやれ」と言わんばかりに目を細めている。
「お前に桃煉のことが関係あるの」
「関係はないけれど、関係ないからこそ、目に余ることもある」
主が口元を隠している扇子を、若宮はぐいと地面に落とし、その扇子を一瞬だけ目で追った主は、しかしすぐに若宮のほうへ鋭い視線を投げたのだった。
若宮が「醜いね。その赤い目、本当に気にくわない」と吐き捨て、それに主は「若宮の真似事だからね、飴のように美しいだろう」と偲び笑ったので、若宮は渋面をして「あと幾日だろうね。晴れの日が待ち遠しくて、夜通し女の膝枕で泣いているそうじゃないか」
「面白い話だね。僕が膝枕で?」
「あれ、違うとでも言いたいの」
若宮が言い放った下品な放言に、主はしらっと「どうだろうね。閨のことは閨のなかだけで済ませるものでは? 若宮は他人の
「宮の主に褒めてもらえて、恐悦至極」
「……桃煉の話、二度と口に出すなよ。宮の主が付き人にどう接していようと、お前如きが気にするようなことではないだろう」
「付き人ね」と呟いた主が、落ちた扇子を拾い上げようと腰を曲げ、伸ばした手のひらを、若宮は踏みつけた。
見下ろす若宮の赤い視線と、顔を上げた主の視線が交わる。
「何が言いたい、律」
「よくわかっているだろう。なにからなにまで教示差し上げないとならないのかな」
そういって、主は若宮の足を下から軽く叩く。舌打ちして背を向け足音荒く去っていく若宮の後姿を見つめながら、踏みつけられたせいで手のひらに跳ねた泥を、主はもう片方の手で払ったのだった。
若宮の苛立ちは顕著であり、若宮の室にやってきた桃煉も、さすがに驚いて若宮を遠巻きに見てしまうほどであったので「若様はいったいどうしてしまったの?」と恐る恐る常闇にたずねてみたものの、常闇の方も首を振るばかりである。
「また人派の主にやられたみたいでな」という鈴虫の話に、常闇もつい「なるほど」と納得する。その横で桃煉が「主様になにを言われたの」と鈴虫にきいても、その場に護衛として付き添っていた鈴虫からすれば、流石に桃煉本人には言いづらかったらしく「いやあ、な……」と言葉を濁してしまっていた。
渦中の若宮は「桃煉」と彼女を厳しい声音で呼び立てて、怖々と近づいてきた妹に「今日はおとなしくしていなよ。僕は今日、食事の気分ではないからね」ときっぱりくぎを刺すと、さっさと寝所に潜ってしまった。
「若様?」と桃煉が寝所の傍から呼んでも、珍しいことに、若宮は相手が桃煉であっても、返答したくないほどに気分を害しているらしい。
「とりあえず、若宮の言いつけを聞いておいてくれないか」と側近ふたりからも重々言い含められた桃煉は、若宮を心配に思いながらも、自室へと戻っていこうと廊下を歩いていたが、ふと橋の袂へと行ってみようという気になり、それも「主になにがあったのか訊いてみよう」と思い立ったからであった。
「主様」と桃煉が橋の袂で主を呼ぶ。
常であればここにいるはずなのに、と今日は無いその姿を探す桃煉に、声をかける者があった。
桃煉は自分の名を呼んでいるその男に、うんざりした目線を投げた。そんな桃煉の様子も気にせず、男は「桃煉」と桃煉の名を親しく繰り返す。
「今夜、この場所で」と笑む男に、桃煉は首を振る。
桃煉の様子に顔色を変えたのは男のほうで「なにがあったのか。自分が何かしただろうか」と桃煉にしつこく付きまとうので、桃煉は男を蔦で早々に殺してしまおうと考えたが、しかし今日に限って、若宮やその側近たちから「なにもするな」と言われたことを思い出したのだった。
いよいよ断り切れず、なし崩しに会うことになってしまい、桃煉はうんざりしていた。
夜になったところで、仕方なく約束の場所へと向かう。
満月が空にぽかりと浮かび、生ぬるい夜風が桃煉の頬を撫でていく。橋の傍に立っている男の姿を見つけたとき、桃煉の脳裏に浮かんだのは「これが若様であれば」という思いであった。
桃煉は、嬉しそうにこちらに寄ってきた男に「さあ、寝所へと行こう」とあけすけに言われ、ひどく腹を立てた。
蔦がなければ桃煉など、この男にすらも終ぞ手出しができず、益々男の熱が上がってきたところで、彼女は苛立ち任せて男の頬を打ったのだった。
「なにをする」と男が叫ぶので、桃煉は「触らないで」と鋭く命じたが、男のほうが桃煉より身分が上なこともあり、男は桃煉のその無礼さに気が立ったらしく、その言いざまが苛烈を帯びていく。
男が桃煉の襟を掴んで破ったところで、馴染みの呑気な声が「ああ、これはすまないね」と、桃煉と男の間に割って入ったのであった。
「お取込み中だったようで、失礼。道に迷ってしまったようでね。桃煉、こちらにきて、蓮の中を案内してくれないかな」
場違いに柔らかく微笑む主は、桃煉と男のそばにやってきて、桃煉の襟を握る男の手をぐっと掴んだ。それから「離しな」と短く、低い声で男に告げると、桃煉に顔を向けて「頼めるかな、桃煉」と笑ったのだった。
仕方なく男が体を離し、それを見て主は橋を渡り、蓮へと入る。桃煉は主に言いたいことが山ほどあったせいで、まずなにを言えばいいのかわからなくなってしまい、主と蓮の廊下をひっそり歩きながら、やっと「主様、あの」と声を絞り出したが、廊下の隅で、今度は主が桃煉を壁に押さえつけたのだった。
驚いた桃煉が声も出せずにいるのを、両手をついて桃煉を囲ったところで、主はその赤い目を細めて顔を寄せる。いまだ強張っているせいで動かない体を、桃煉は心中で「動いて!」と叫んだが、ついぞ体は動かず、恐怖から固く目をつぶったところで、主は「桃煉」と桃煉の名を、再度ひそやかに呼んだのだった。
「これ以上はもう止めな、なにか遭ってからでは遅いんだ。いい加減、すこしは己の行動を考えたら如何」
主の言葉に、桃煉は驚いて双眸を見開く。主は冷たい表情で、間近から桃煉を見下ろしていた。
2
「主様、なんでそんなこと。桃煉は……だって……」
「若宮に言われているのか、桃煉が好き好んでいるのかは僕の知るところではないけれど。僕程度の力でさえ振りほどけない
主はその柔らかな声色とは反対に、赤い目を細く歪めて桃煉を見据えているので、桃煉はその目を見ていられず、ゆるりと視線を逸らしたが「桃煉」と頬を掴まれ無理やり主に顔を向けさせられる。
「主様、離して」と桃煉が泣きそうな顔で頼んでも、主は微笑むばかりで桃煉の頬を掴む手を緩めようとしないでいる。
「さて、今宵はどうして蔦を使わないのかな、桃煉? もしや若宮のご機嫌が斜めなのだろうか」
「分かっているなら、早くその手を……」
「若宮の許可なく蔦を使うこともない……ここまで若宮に従順とは。自分がどうしたいかなど、考えたこともない様子」と主は言い、桃煉に顔を寄せて「桃煉。僕は蔦のない君にであれば、無体を強いることなど容易い」
「それはほかの男であってもそうだ。蔦に頼り切っているうちは良いだろう。けれど何かの拍子にこうやって、その力を奪われてしまったら? 使えないような状況に追い込まれてしまったら? 自身がどれだけ危ない橋を渡っているのか、少しは考えてみるんだね」
「主様」と桃煉は、自身の足元で知らぬうちに騒ぎだしていた蔦を、無意識に蹴る。そこで桃煉がちらりと蔦を見たのに主も気が付き、主の方が騒ぎ出した蔦をぐしゃりと踏みつぶしたので、その行動に驚いた桃煉が主の顔を仰いだのだった。
「いまので若宮に知れたかな」と美しく笑う主に、桃煉は決死の思いで「若様」と心の内で若宮を呼ぶ。しかし、若宮が来るより早く、主は桃煉の破れた襟を引っ張った。
「やめて!」と鋭く叫んだ桃煉の声に被ったのは、若宮の「なにをしている!」という怒号であった。
険しい形相でこちらに向かってくる若宮に「若宮」と声をかけ、主が涼しい顔で桃煉の肩を抱く。
桃煉はといえば、そんな主から離れようと藻掻いており、若宮が荒い足音で近寄って主の腕を強く引いたので、その拍子に少しばかり緩んだ主の腕から桃煉はすばやく抜け出したのだった。
桃煉が「若様」と言うより前に、若宮の方から桃煉を抱きしめて、きっと主を睨みつける。主は笑い声を立てて「若宮、随分怒り心頭のご様子だけれど、いつかこうなることも分かっていたのでは?」
「分かっていたというのも口が腐る。まさか相手がお前だなんて」
「僕じゃなければ許したとでも言いそうな口ぶり」
「どうだろうね。桃煉の手足が出ないときに行為に走ろうとする屑がお前だと知って、僕は失望しているところだ」と若宮が言うので、主は目を細め「それはそれは、申し訳なかったけれど。知っている、若宮? 蓮の中にも桃煉の手足が出ない日に事に及ぼうという輩は幾らでも居るよ」と言い返した。
主の言葉にぞっと背筋を凍らせた桃煉の心中を知らずとも、若宮の桃煉を抱く腕に力がこもる。若宮が「なんだって?」と眉をひそめたのを、主はしのび笑っている。
「気分が悪いのならば、すぐに己の行動を省みるんだね。君が人を食うことについては、そういう妖なのだと思えば、仕方ないとも言い捨てられるけれど」
「お前、誰にものを申しているのかわかっているのか」
若宮が睨みつけても、主はにこやかに頷くだけで、ちらりと顔色を変えることもなく「これだから、晴れの日を前にした人間は嫌いなんだ」と若宮は小さく呟いた。
「可愛げがない……晴れの日を楽しみにするんだね。死んでもなお、死にきれないような逝き方をさせてやるからな」
「ふふ、それは楽しみだ」
「桃煉」と若宮は桃煉を呼んで、振り向いた妹を抱き上げ「いくよ」と、話が通じないと見切りをつけた主に背を向ける。
「律」と若宮は主に最後に声をかけ「僕はこんなに気分が悪くなったことは、一度たりともない」
「……それは、恐悦至極」
主の顔を見ずにその場から退いた若宮は知らずとも、若宮に抱えあげられていた桃煉は主の表情を見ていて、その顔が桃煉の脳裏にはっきり焼き付いたのであった。
3
次の日の夜半に、桃煉の襟元を破った男が寝所で寝被っていると、そこに来訪者があった。男の傍付きたちがなにやら酷く慌てているので「なんだろう、一体誰だ」と緩慢に起き上がり、来訪者の顔を見たが、そこで男は大慌てで起き上がったのだった。
「わ、若宮」と男は来訪者の名を呼ぶ。若宮と呼ばれた青年は男に柔らかく笑ってみせてから「良いよ、そのままで。今更服を着替えたところで」
「その、一体どうなさったのです。こんな夜更けに」
「……どうして僕が来たのかわからないの?」
小首を傾げる若宮の意図が、男にはまったくもって理解できずにいたが、すっと立ち上がった若宮は「……
「僕の正体は知っている? お前なぞに、
「わ、若宮……お助けを……」
「いいんだよ、ゆるりとしていても。どうせ死ぬだけだ」
男の顎をついと持ち上げて、若宮は笑う。男が涙を流していても、恐怖に凍えきっていても、それらは若宮の下す罰から男を救うものにはならない。
「主のものに無許可で手を出すなんて、身の程を知りな。……僕自ら手を汚してやるんだ。地獄に堕ちて、永遠に苦しむと良いよ」
「どうしてこんなことを」と言う男に、若宮は「なに、大したことではない。見せしめだからね」と微笑んだのだった。
「若宮」と、青年を呼ぶものがある。傍付きの常闇と鈴虫が男の寝所の傍にずっと侍っており、ふたりは若宮の仕事が終わったのを知って声をかけたのであった。
「常闇、鈴虫」と血に塗れた袖を振る若宮に、常闇が寄っていって若宮の衣を脱がせる。血が飛んだ室を見渡して、若宮は満足げに笑った。傍付きひとり残さず殺してその場に放置しても、若宮はそれらを、ひとつも食事にすらしないでいる。
着物を正し「血に塗れたほうの衣はその場に捨ておいて」と命じた若宮に頷く常闇の横で、鈴虫が「良いのですか」と尋ねると、若宮は「良いよ。誰がやったか分かりやすい方がより良い」と楽し気に声を立てて笑う。
鈴虫は「くわばら、くわばら」と身を縮める仕草をしながら、血だまりの上に無造作に、衣を捨てたのであった。
「僕は人間に対して、ここまで苛立ったことはない。給仕がいる身であれば、僕自ら手を汚すことなどもはや、一片たりともないと思っていた」
「若様」と、室に戻ってきた若宮の頬を、室で待つよう言われていた桃煉が優しく触れる。桃煉が「どうしたの? すごく悲しそうよ」と言うので、若宮は「桃煉」と桃煉の腰を引き寄せた。
「僕を慰めて」
桃煉が「若様、可哀想」と頭を撫でてやると、若宮は桃煉のその手を取って「ふふ、桃煉、お前のやっていたことは、こんなにも気分が高揚するんだね。お前たちに蔦をやる以前のことを思い出したよ。確かに以前、僕は食事の最中、こんな気持ちだった」
「若様?」と桃煉は目をぱちくりと瞬くので、若宮は「ねえ、桃煉」と笑った。
「連香のことを教えてあげよう。その前も、それより前の宮の主と給仕のことも、いくらでも話そう。僕が生きてきた
「
「蓮煉様と呼べ、桃煉。それが、僕の名だよ」
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