第三章

「宮内で妙な噂が広がっていてなあ」と、呑気に間延びした声で鈴虫が言った時、桃煉は若宮の部屋で、若宮と茶を飲んでいた。

 常闇はかいがいしく若宮の世話をしており、鈴虫はその隣で優雅に茶会に参加している有様で、桃煉はといえば平和なその時間を、こっそり楽しんでいたのだった。

「妙な噂?」と若宮が面倒くさそうに眉間にしわをよせた隣で、常闇が「なんだ、それは」と鈴虫に問い返した。鈴虫は団子を口に放り投げ、咀嚼しながら「給仕が現れたのではないか、とかなんとかっていう噂だよ。なんでも、この間、橋の袂で男が死んでいたらしくてな」

 その鈴虫の言葉に、喉を詰まらせたのは桃煉であったが、彼女が咳込んでいる間にも、若宮は我関せず、桃煉の傍で優雅に茶を飲んでいる様子である。

「給仕?……」といってちらりと桃煉を見たのは常闇の方で、それもそのはず、村の元門番と、村一の金持ちの息子であった常闇と鈴虫は、桃煉が給仕の力を持っていることを知っており、しかし桃煉はこの宮で、それを公にはしていないことも見知っていたのだった。

 常闇から茶を注いでもらいながら、鈴虫は「その男の死に方が、いかにも給仕がやったふうだと、持ちきりなんだよ。しかしおかしいとは思わないか」という風に言葉をつなげている。

「おかしいとは?」とようやく若宮が鈴虫をちらりと見やる。

「だって、給仕はここにいるのに。桃煉がそんなことをするはずがない」

 鈴虫の言葉に、ますます咳込んだのは桃煉本人である。若宮は耐え切れず笑い声を漏らす有様で、しかし若宮の傍付きたちは「それもそうですな」「そうだろう!」と口を揃えて頷きあっている。

「前代の宮様と給仕の子である桃煉以外に、給仕の力を持つものがいるとでもいうのか」

 鈴虫がそう腕を振り上げたとき、桃煉はふと「前代の宮様?」とその鈴虫の言葉に興味を持ったのだった。前代の給仕であれば、桃煉にもなんとなく、父のことを指しているのだろうと分かる。しかし、桃煉の記憶では、母は宮様でもなんでもなかったはずなのだ。

「母様が宮様だったの?」と桃煉が目を丸くして問うものだから、真相を知る常闇と鈴虫は顔を見合わせ、若宮はいよいよ噴き出したのだった。

 喉を震わせながら体を折りたたんで笑う若宮に、桃煉は「若様? どうして笑うの」とちょっと頬を染めている。若宮は「いや、桃煉があまりにもおかしくてさ」と笑いすぎて溜まった涙を拭って「宮様は別に居たんだよ。桃煉、連香のはなしはきいたことがない?」

「連香? 父様ではなく?」

「父さんは連泉だろう……ああもう、やめてくれ。笑いすぎて死んでしまう……」

「連泉様が、前代のはなしを?」と常闇が、いまだ腹を抱えている若宮にたずねると、若宮は「まあ、そういうことにしておけばいいよ。なんでも聞きな、桃煉。父さんの弟の話だからね」と桃煉の顔を覗き込んだ。

「父様の弟?」と首を傾げる桃煉に「そうだよ。双子の弟だ」と若宮は微笑む。ふたごのおとうと、といまだうまく呑み込めない様子の桃煉の頬を軽く撫ぜて、若宮は「まあ、お前にはまだ早いね」と笑ったのだった。

「俺はききたいです、前代の話なんて、なかなかきけませんからね!」と鈴虫が割り込んだが、若宮はといえば「お前には話さない」とつんと答えて茶をすすっているので、その傍で常闇が、鈴虫と若宮の様子につい笑いそうになっていた。

「ねえ、芙蓉。芙蓉は前代の宮様について、なにか知っている?」

 自室に戻ってから、桃煉は室にいた芙蓉に飛びついた。芙蓉は桃煉に対し首を傾げて「前代の宮様ですか。当時、私もまだ幼かったですから、特別なことはなにも」

「若様がちらりと言っていたのよ。連香様という方で、私のお父様の双子の弟だったとか」

「ああ……そうですね。桃煉様の御父上は、前代の給仕だったとか」

「桃煉様にも給仕の」と、そこまで言って、芙蓉は口を閉じた。桃煉は芙蓉が「桃煉様にも給仕のお力さえあれば」と言おうとしたことを察しているからこそ、なにも聴こえなかった振りをして話を戻してしまう。

「ねえ、芙蓉。お父様の双子の弟というのは、いったいどんな人だったの?」

「ええ……そうですね。この芙蓉が宮に居た頃は、あまり悪い噂はきいたことがなかったですわ。でも、わたくしも小さかったので……これといったことは、なにも、お話しできそうなことはありません」

 そう芙蓉は、強張った表情で笑ってから「さあ、桃煉様。お勉強のお時間ですよ」と教本を取り出したので、桃煉もそれきり、連香のことを尋ねられずに終わったのだった。

 その日、桃煉はなんとなしに寝付けず、寝台を抜け出した。

 室に置いてある水差しから杯に水を注いでいると、かたりと物音がして、そちらを振り向けば、桃煉の気配に気が付いたらしい芙蓉が出てきて、寝間着の姿であくびをかみ殺していた。

「芙蓉」と桃煉が名を呼ぶと、芙蓉が桃煉に「どうされたのです。こんな夜更けに」と寝ぼけた声で訊ねるので、桃煉は「ううん、なんだか、寝付けなくて」と答える。

「桃煉様。すこしおはなししましょうか」

 芙蓉がすこし笑んでそう申し出たのを、桃煉は「珍しいこともあるものだ」と嬉しく思いながらこくりと頷いた。桃煉が寝台に座ったそばに立つ芙蓉を、桃煉は近くに椅子を引いて座らせてやる。芙蓉は少々戸惑っているようではあったが、こころよく椅子に腰かけた。

「そうですね、せっかくなら、普段しないおはなしを。このわたくしめの昔話でもしましょうか」

「芙蓉の昔話?」と桃煉が目を丸くしたので、芙蓉は朗らかに笑い声を立てる。

「そうです……私が十をようやく数えたくらいの年頃だったときの話です」

 芙蓉のする話は、こうであった。

 芙蓉が十を数えた女童めわらわであった頃、芙蓉ははじめて宮に上がった。貴人の端くれの娘であった童は当時の名を捨てて「芙蓉」と改め、しかしいかに「貴人」の血筋といえどそこまでの家柄ではなかったために、宮の小使いをしていた。

 そんなある日、まだ小使いで、まわりに友人もおらず、気心知れた仲間もいない芙蓉に、声をかけてくれる美しい青年がいた。

 彼は名を「連香」といったが、芙蓉はそれをはっきり「嘘だ」と思っていたのだ。

 れんのつく名前であることもそうであるし、そもそもその名は当代の宮様の名であって、まだどこか、少年の幼さを残したその青年などが、宮様であるとはどうにも思えなかったのである。

 しかし、芙蓉は彼が名乗るままに「連香様」と彼を呼んでいて、それも、彼がその名以外の名をまったく名乗らなかったからであった。

 豊かな黒髪を右側に流した彼は、いつも真紅の服に身を包んでいた。肌は東洋のそれであり、しかし翡翠色の双眸がいつもきらきらと輝いていて、芙蓉は彼を「綺麗なひとだ」とぼんやり思っていた。

 連香は、偉い身分の貴人を祖父に持つ女性とともにいて、どうも彼女の方が連香に熱を上げているらしかった。

 連香は彼らしい柔らかな声で彼女を呼んで、それに彼女が嬉しそうに微笑むのだ。芙蓉はそれを「美しい夫婦人形めおとにんぎょうのようだ」と思っていたのである。

 しかし、ある日からぱったりと、彼は芙蓉のもとに現れなくなった。風の噂に「彼は、とても美しい春色の髪の女性に会うために、人派を足繁く通っているらしい」と聞き、それを不可思議に感じたことを、芙蓉ははっきりと覚えている。

 ――連香様と夫婦のように寄り添っていた、あの美しい貴人様は、いったいどうなったのだろう

 それを、芙蓉はどうしても確かめたくなったのだ。ある日芙蓉は、連香の姿を見て走り寄った。

 常であれば笑って振り向くはずの連香は、その日はなぜか、芙蓉を振り向いたとき、一瞬ひややかな目をした。芙蓉を見て、その唇が「誰」と言った。

 芙蓉はそれきり、なにも言えなくなって、縋りついた連香の袖先から指を離し、あとから追ってきた自分の教育係が何度も何度も頭を下げていたのを覚えている。

 教育係は、芙蓉を責めなかった。代わりに、数日後に突然、ぽっかりと消えてしまった。

「その教育係はどうなったの」と、昔話の締めくくりに納得がいかない桃煉がたずねると、芙蓉は小さく笑い声を立てる。

「さあ、どうなったのでしょう。いまでも、あの方が連香様だったのか、私にはわかりかねるのです。でも、そうであったら良いと思う反面、そうであれば、あんなに怖い人もいないと思いますね」

「そのお方が本当に連香様なのかしら。不思議な方ね、突然人が変わったみたい」

 桃煉の言葉に、芙蓉ははっとしたような顔をした。桃煉が首をかしげると、芙蓉は「いえ」と言って「そう、人が変わったようだった」と、自身に確かめるように呟いている。

「若様にきけばよかった、連香様ってどんな人だったのか」と桃煉が背筋を伸ばして欠伸をするのを見ながら、芙蓉はふふと笑い「桃煉様、もう朝日が昇ってしまいそうですよ」

「すっかり眼が冴えたから、このまま桃煉のはなしをきいて、芙蓉」

「あら、何のおはなしでしょう」

 そういって笑い合った女二人は、そのまま本当に朝日が昇ってしまうまで、睦まじく話し込んでいたのであった。

 最近、桃煉を見ているものがあることに、桃煉は気が付いている。しかし、時々届く文も、品も、差出人の名が書かれていないせいで、なんともしようがなく、桃煉の方も、ほとほと困っていた。

 若宮の仕業だろうかと思ってみても、あの気位の高い宮様であれば、やれ「あの品は身につけないの」だ「返事をよこさないの」だなどと、なにかしらの一言があるだろう、と桃煉は思うのだ。

「そもそも、若様が桃煉に文なんて、書くと思う? 芙蓉」

「若宮であれば、せめてもっと質の良い紙に書いて寄越すと思いますね」

「この漢文の愚かなこと……」と芙蓉は呟いて、桃煉に手渡す前に丸めてしまう。

「桃煉様の目に触れさせるほどのものでもございますまい。これは放っておいて宜しいでしょう」

 桃煉は、ふと漢文が書かれているというその文に手を伸ばす。芙蓉は「お目汚しでしょうに」とぶつくさ言っていたが、桃煉が読みたいのなら、と嫌々ながらも桃煉に手渡したのだった。

「ええと……、これはどういう意味?」

 しかし、桃煉は漢文を読みこなすことができない。とくに詩的なもの、歌となると、ますますよくわからずに頭を抱えてしまうのだ。そんな様子の桃煉に、芙蓉は「こまったものだ」とでも言いそうな顔をしている。

「まあ、下手な漢詩ほど、始末におけないものもないですからね……」

「これは恋文でしょう、桃煉様。貴女様にお見せしても、お目汚しも良いところですわ。お相手に学がないのがありありと見て取れる」と芙蓉は桃煉が持つ文に手を伸ばし、桃煉が素直に芙蓉に文を渡したので、芙蓉もいよいよ丸めて机の上に放置してしまった。芙蓉からすれば、文箱に入れる価値がないと思ったのである。

「処分いたしますか」と芙蓉がきいたとき、芙蓉は「しましょう、桃煉様」と言い出さんばかりの勢いであったが、肝心の桃煉は首を振り「初めて恋文を貰ったもの。それに、いままで何度か品を贈ってくれた人なのでは……お礼を言いたいと思っていたのよ」

「返歌なさると?」

 芙蓉がぎょっとしても、桃煉にはどこ吹く風である。桃煉は文と紙を持ってくるように侍女に言付けて「芙蓉、書き方を教えて頂戴」

「およしになられたほうが……。それこそ、若宮に知られてしまえば、桃煉様のお顔に泥を」

「若様にはあとで伝えるし、それに、こんなに沢山贈物を貰って、なにも言わないのも悪いでしょう」

 芙蓉は桃煉が、まるきり引かないことに頭を抱えて「桃煉様にその気があるのなら、致し方ありません。しかし、返歌の方法を間違えれば、大変なことになりますよ」と忠告したが、桃煉はその忠告を、いつものように聞き流してしまったのだった。

 桃煉が返歌したことが、どこから伝え漏れたのだろう。ある日、桃煉が室で日課の勉強をしていると、そこに鈴虫がどかどかと荒い足音を立ててやってきた。鈴虫は「桃煉!」と激しく桃煉の名を呼ぶと、驚いた桃煉が顔を上げた瞬間に、桃煉に矢継ぎ早に問いただしたのであった。

「桃煉、これは一体どういうことだ。若宮と恋仲なのではなかったのか? どこの誰ともわからんような男に、気のある返歌をしたそうじゃあないか。その男がその気になっているそうだぞ。若宮は酷く苛立っているし、常闇さんはあまりに若宮に当たられて、胃の腑の調子が悪いというし……俺だってもうそろそろ、体調を崩しそうだぞ。一体どういうことなんだ」

「気のある返歌? 何のこと」と桃煉にたずねられて、きょとんとしたのは鈴虫のほうである。鈴虫は「これはますますわからないな」と頭を抱えながら「いままで品やら文やら届いていたことを、若宮に隠していたことに対しても、若宮はひどくご立腹だぞ。それについては?」と、痛みだした頭で桃煉に問うたが、桃煉のほうも一体なんのことだか一向にわからないでいる。

「若様に隠してなんていないわ。どうして桃煉が若様に、隠し事なんて」

「若宮は、どうして桃煉のそういうはなしが、噂で自分の耳に届くんだ、と言っている」

 つまり、若宮のいうことは「桃煉のもとに文が届いた」ことを、桃煉本人から聞き及んだのではなく、風の噂としてきいたことも、桃煉が気のある返歌をしたのだという噂も気に食わない、ということであるらしい。

 桃煉は芙蓉に、鈴虫のはなしをかみ砕いてもらって、やっと理解したようであったが「ええ?」と、それでもまだ、なにか納得がいかない様子である。

かく、桃煉、若宮に謝りに行こう。いや、筋を通しに行こう」と鈴虫が言葉を変えたので、桃煉は「筋を通すって」と腰に手をやって、はっきりと不機嫌そうにしている。

 鈴虫の言い分は「若宮と閨事ねやごとを共にした女子おなごが、他の男に気を許すなんて」であり「若宮は、きっと桃煉が言えば、いまならほかの男の話も忘れてくれるかもしれない。だからきちんと話して、頭を下げるんだ」ということであった。

 桃煉は「どうしてこんなことになったのか」と思い「あの返歌に気のある素振なんてあったかしら」といまだに考えているので、若宮の室にいく途中で、鈴虫が桃煉にかけていた励ましの言葉の一切を聞き流していた。

「若宮、鈴虫です。桃煉を連れてきましたよ」と鈴虫が若宮の室に入ったとき、桃煉の名をきいた若宮は「桃煉? どうして連れてきたんだ」と室の奥から嫌そうに低い声で言ったきり、こちらを見もせずに常闇と机について書き物をしている。

「若宮、せめて桃煉様のほうを……」と常闇が困惑しているのを見て、若宮は鼻から息をついたらしかった。ぱたんと筆をすずりに置いて「見てわからない、桃煉。僕はいま忙しい。来るなら後にしなよ、なんならもう来なくても良い」

「若様」と、桃煉が甲高い声を上げた。若宮は耳を塞ぎながら、それでも桃煉の方をちらりとも見ずに「常闇、連れ出して」と常闇に指図したので、それをきいた常闇が、戸惑いながらも立ち上がったのだが、そこに立ちふさがったのが鈴虫である。

「常闇さん、ちょっと待ってくれよ。桃煉は若宮に頭を下げにきたんだから」

 鈴虫の言葉に、常闇がなにか言うより早く、ようやく振り向いた若宮が「頭を下げる? なにに対してさ」と面白くなさそうに眉をひそめた。桃煉はちらりとこちらを見た若宮の赤い目が、いつもよりも冷たいことに背筋を凍らせている。

 しかし、桃煉の方も、相対しているのは「宮様」ではなく、それでも「実兄」である。ふんと顔を逸らして「帰る。鈴虫、若様のほうも何のことだか分かっていないんでしょう」

「桃煉」と鈴虫が驚いて彼女を咎めたのも気に食わず、桃煉は言葉を次いで「桃煉も、なんで若様が怒っているのかわからない。だから、もうこのはなしはやめて頂戴」

「あの阿呆あほうを追い出して」と、小さく若宮が言うと、それにぴんと背筋を伸ばしたのは常闇で「よろしいのですか」と若宮にやっとたずねた様子であったが、若宮がしっしと追い払うように手を振ったので、いよいよ仕方がないとため息をついて、常闇が桃煉の肩に手を触れた。

「桃煉様、若宮が出ていくようにと仰せです」

「若様のばか!」と桃煉は叫んで、常闇の手を払い、脱兎のごとく室から飛び出したのであった。

 桃煉は、足早に自室へと戻る道中に、ひとりの青年がいたことを、まったく気にもしなかったのだ。青年が桃煉の背後にそっと寄っていって、桃煉のその口を手で覆ったとき、桃煉は驚いて声もあげられなかった。

 桃煉は身の危険を覚えて、咄嗟に青年の指を強く噛み、青年が「いたっ!」と短い悲鳴を上げて手を離した瞬間に、桃煉は青年の顔を確かめようと勢いよく青年を振り返った。青年は貧相な体躯でまるで冴えない男性であり、桃煉は「どこかで会ったのだろうか」と自身の記憶を探ったが、とんと覚えがない。

「……だれ……」と桃煉が呟いた言葉が、青年の気に障ったらしい。青年は眉根を寄せて「誰って?」と鸚鵡返しをすると「あんなに気の良い文をくれたのに、随分とつれない」と笑った。

「気の良い文?」と繰り返して、桃煉は「ああ」と思う。もしかして、この青年が、自分に品や文をくれていたあの見知らぬ男性であったのだろうか。

 桃煉の読みは当たっており、青年が桃煉に対して「あまり身に着けてくれてはいないようだと残念に思っていたけれど、意外と喜んでくれていたようで、なによりだよ、桃煉」と口の端をゆがめたので、桃煉は「……それは、ありがとうございました。だけど……」と言葉尻を濁しながら後退りする。

 じりじりとその場を退くうち、桃煉の背が直ぐに壁に当たり、彼女は身を強張らせた。まずい、と壁を振り返り、すぐに青年の顔をじっと見て、どう逃げるべきか策を巡らせる。

 しかし、桃煉の自力ではどうにもできそうもなく、だからといって、蔦を操ればあのときの二の舞であると知っているが故に、この場で桃煉がとれる抵抗は大声を上げることくらいであった。

 しかし、青年のほうも、桃煉がつぎに取るだろう行動は予測がつくらしく、ぐいと桃煉に詰め寄って、がばりと桃煉の口を袖ごと腕で覆った。

 今度、いささか桃煉が噛んだところで、青年の方も噛まれることはわかっているのだから、最初ほどに狼狽することもない様子である。

 青年は空いた片手で桃煉の両腕を取って、頭上にまとめあげてしまう。桃煉はいよいよ頭に血が上り始めており、次に青年がなにか行動すれば、蔦で殺す気にまでなっていた。しかし青年の顔を見ているうちに、ふと若宮との喧嘩のことを思い出し、桃煉の脳内に浮かんだものがあった――桃煉は、そしてそれを実行したのだった。

 男を背後から蔦で締め上げ、あっさりと殺してから、男の力をなくした肢体が桃煉にのしかかってきたのを、音をたてぬように一旦受け止め、それから蔦で死体を動かし、てきとうな場所に隠して、自分は誰にも見つからぬように、若宮の室へと急ぐ。

 若宮はまだ常闇と鈴虫を伴って室で書き物をしている様子であり、桃煉が血相を変えて「若様」と室を訪ねたとき、一瞬嫌な顔をしたが、すぐにその桃煉の異様さに「……桃煉?」と怪訝な様子を見せた。

「若様、桃煉ね、あのね……」と言葉を詰まらせる桃煉に、若宮はすぐに察して、常闇と鈴虫を下がらせた。桃煉とふたりきりになった室の中で「なに? 桃煉」と首を傾げる。その顔が妖しく歪んだ笑みを浮かべているので、桃煉もほっと安堵した。

「可愛い桃煉。もしかして、贄を用意してくれたのかな。僕が怒っていたから? ふふ、それで獲物を獲ってくるなんて、まるで本当に獣だな……」

「若様、若様のお役に立つ方法が、ようやくわかったの」

 桃煉の頭を撫でていた手をとめて、若宮は首をかしげている。桃煉は殺したばかりで興奮した様子のまま、若宮にこう言い募った――「桃煉、こうして男衆を罠にかけて、殺してしまうのが、一番若様を喜ばせるのだと、わかったのよ。それが一番でしょう? 若様、裏手の林の奥に、新しい死体があるの。だから、桃煉と一緒に行きましょう」

「林のなかに埋めたものは……泥がついてしまっているね。今度は室でやってしまって、そのままそこに置いておくと良いよ。今回は仕方がないから、まあ許すけどね」

 そう桃煉に囁いて、若宮は途端、機嫌よく腕を広げ「桃煉、おいで。褒美がまだだ」

「若様、もう怒っていない? 桃煉、本当に、気のある文なんて送っていないのよ。贈物をしてくれて有難うと、それだけを……品や文が贈られてくることも、ちゃんと若様にいおうと思っていたし」

「良いよもう、そんなことは。そのおかげで贄がつれたのだから、不問にするし、そうするのがお前の狩り方なら、僕は文句は言わないさ。好きにしな、桃煉」

「ただし」と若宮は桃煉に顔を寄せた格好で二の句を次ぐ。

「僕以外のものに、体を開くな。それだけは許さない。狩りの仕方がそれであっても、一線を超えたら、僕はお前を捨てるからな」

 赤い目が、弧を描く。桃煉は丸い目で若宮を見つめて、嬉しそうに破顔した。

「勿論よ、若様」と彼女が言ったのを境に、若宮は幼子にするように、桃煉をその胸に抱きしめたのだった。

 若宮に閉め出された廊下の隅で、室内の音を聞いていた鈴虫が「桃煉、給仕になったのか? 本当に?」と隣に立って目をつぶっている常闇に尋ねると、常闇が「そのようだな」となにかを思案している様子で頷いた。

 鈴虫が感慨深そうに、何度か頷いて「そうか、そうかあ」と言っているのと同じく、常闇もどこか嬉しそうで、その口元が笑んでいる。

「桃煉様は、もともと若宮の双子で、力も持っていらしたのだ。あのおふたりが正式に事を進めろというのであれば、この常闇、いつでもすぐに進めさせて頂くというもの……」

「常闇さんはそういうところがなあ……、まあでも、うまく収まってくれて、よかったというものだ」

 常闇と鈴虫がそう話している横で、夜は更けていく。月が空に照らされているのを見上げて、ふたりの傍付きは「酒でも飲みたいところだな」と頷きあっていた。

 さわさわと夜風が不気味に流れていく方向には、宮の裏手に茂る林があり、その奥には死体が眠っているのだとしても、宮の静けさは変わらない。

「贄を掘り出しておくか?」と鈴虫が、立てた足に頬杖をついて座っているので、常闇もその隣に腰を据え「その任は給仕のものだ。我らが手を出すことではない」

「しかし、本来、給仕というのはもっと大ぴらにしていいものではないのか」と鈴虫が唇を尖らせたのには、常闇は落ち着いて「まあまあ」と言って「あとは若宮の意向を訊いてからでないと……桃煉様が給仕であること、いままで誰にも明かすなと達ししていたあの方のこと、勝手に我らが動けば、大目玉を食うぞ」とすがすがしく笑っている。

「また常闇さんの腑が痛くなるな」「鈴虫はすぐに逃げ出すからな……」とふたりは顔を見合わせ、言い合ってから「まあ、それもまた一興だ」と同時に呟いたのだった。


 朝になり、桃煉は若宮の布団で目を覚ました。背伸びをして寝台を出て、そこに置いてあった着物に袖を通そうとしたとき、ふと桃煉は異変に気が付いたのだった。

「これ、若様!」と桃煉は若宮を慌てて揺り起こして、若宮がうんざりした様子で目を開けたところに「これ、この着物、若様が準備してくれたの?」と目を輝かせ、胸の前で着物を広げて見せる。若宮は「ああ……それか。そうだけど、それがなにか」

「若様、この着物、いつから用意してたの? 昨日、今日じゃないよね……?」

「そんな些末なこと、お前が気にすることじゃないだろう」

 若宮がそう言ったとき、彼が珍しくも、少々頬を染めていたので、桃煉が目を瞬いて「もしかして、若様、ずっと前からこの着物を」と言う途中で、若宮が「要るの、要らないの?」と言葉を被せたために、桃煉は慌てて「いる! すっごく嬉しい、若様、有難う!」と嬉々として声を弾ませ返事をしたのだった。

 桃煉が腕を通したその着物は、桃煉の肌色によく合う、鮮やかな仕立ての絹の着物であり、一目見ただけで、あの青年が贈った品より高価なことがわかる。

 室の奥から「まだありますよ」とこっそり常闇が教えてくれた、桃煉へのものだという品々は、あの青年が贈った品そのままの品類であり、しかもそれを格段に良くしたものばかりであったので、桃煉のほうも、ここまでくればやっと、若宮の思惑が分かった様子である。

「……若様、かわいい」と桃煉が呟いたのは、桃煉の自室でのことで、それをきいているのは芙蓉、ただひとりであった。

 桃煉が芙蓉に「でも、さすがに文はないのね」と笑ったのを見て、芙蓉が「ここまでして頂いた上に、文まで貰った数だけあったりすれば、いよいよ身が持ちませんよ、桃煉様」と苦笑したので、桃煉は「そうね。それにね、芙蓉。若様に文は似合わないものね」と、本当に嬉しそうに笑い返したのであった。

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