第二章

 桃煉と若宮は、小さな農村で生まれ育った双子であったので、村人たちは若宮が将来、宮様として宮に上がるなど、これっぽっちも考えていなかった。

 幼い桃煉もそのうちのひとりで「若様」と名を呼んでその後ろをついて回っている時分には、まさかその若様が目の前からぽっかりと、五年もの間、消えてしまうなど、想像すらしていなかったのだ。

 ひそやかな新月の日、真暗な実家の寝室で、若宮は桃煉と「ずっと傍にいる」のだと約束を交わしたことがあった。それは桃煉にとって本当に夢のように幸せな瞬間で、だがその次の日に、若宮は自らの意志で宮へ上ってしまったのだった。

 桃煉は、自分もおなじ宮に上がった今でさえ、その日のことを思い出すたびに胸が苦しくなる。十七にもなれば、あのとき若宮が、こちらに小指を差し出した理由が「自分一人で宮に上がるため、桃煉を目くらましさせる必要があった」のだと察することができることも、桃煉の胸を強く締め付けるのである。

「それでも、桃煉はここにいるもの」

 寝台に寝転がった格好のまま、桃煉はちいさく呟く。真夜中の宮はうすら寒く、どこか不気味である。

 桃煉はそっと室を抜け出して、また赤い橋のもとへと散歩に出た。橋の向こう岸にはやはり人派の主がいて、彼は決して、夜分に橋を渡らないくせに、時折こうして庭先に出て、橋を見に来る癖があるようだった。

「主様」と桃煉が手を振ると、主はゆっくり桃煉を振り向いて、柔らかく微笑み「桃煉」と手を振り返してくれる。白い寝間着はまるで死装束のようにも見えて「やはりこの主は妖のようだ」と桃煉はこっそり思った。

「こんな夜更けに。また寝所を抜け出したんだね」

「主様も桃煉のこと、言えないでしょう」

 そういって桃煉が屈託なく笑い声を立てると、主も釣られたように声を漏らして笑った。青年らしい主は数え二十をとうに過ぎているらしく、若宮の笑い声より主のそれのほうが、低く掠れて男性的である。

「桃煉を見張っているのかもしれないよ、僕は」

「桃煉を?」と主の思いがけない言葉に桃煉が目を丸くすると、主は手で口を覆って笑った。主が上機嫌に「なんてね、冗談」と言葉を足したことに、桃煉は頬を膨らませ「揶揄わないでください」と眉根を顰める。

 主は、桃煉のほうに一歩寄り、だが橋には手をかけただけの状態で「若宮はいまだに君を捕えていないのだね」と呟いて、ますます首を傾げる桃煉に「早くしないと、きっと君は真白なままでいられなくなるよ」とその赤い目を細める。

「僕から、若宮にも口酸っぱく言い含まないとね。桃煉、もう寝ると良いよ。宮には妖がいるから、夜半の散策はお勧めできない」

「今度は昼間においで。僕もきっと、ここにいるから」と主は桃煉に背を向ける。桃煉は咄嗟に「別に、主様に会いに来ているわけじゃない……」と言ったが、そんな桃煉を少し振り返った主は、なぜだか楽しげに口の端を上げていた。


 太陽が天辺に昇ってから、桃煉はなんとなしに主の言葉を思い出して、赤い橋へと向かった。橋には先客がいたようで、珍しく橋の中央に立つ主と、蓮側の橋の袂に桃煉がよく見知っている背の低い少年の後姿があり、そのふたつの影は気安い様子でなにかを話している。

 桃煉は慌てて橋へと駆けていき、少年のほうに声を掛けた――「若様!」

 若宮と主が同時に振り向き「桃煉」と名を呼ぶ。若宮の着物の裾にしがみついた桃煉の頭を軽く撫でて、若宮は主を振り返り「顔見知りだったの」と彼に対して訝しく目を細めた。

「そうだね。何度か逢瀬を」

 主の言い方に桃煉が息を呑むよりはやく、若宮が「はあ?」と見るからに額に青筋を浮かべる。若宮は、真っ青になった桃煉などはまったく眼中にない様子で、主に対して声を低め「自分がなにを言ったのかわかっている?」

 若宮が動くたびになる軽やかな鈴の音が、桃煉には若宮の怒りを現わしているように聞こえる。必死に「若様、違うんです」と言おうとしても、桃煉はうまく声が出せず、どもってしまった。

「若宮」と、傍に控えていたらしい鈴虫が若宮に「そろそろ、謁見の時間ですよ。行きましょう」と声を掛けてきたので、若宮は「そうだね。いくよ、桃煉」と桃煉を連れ、その場を離れようと背を押した。

 桃煉は主のほうを伺うように見たが、主は軽く桃煉と若宮に手を振りながら、場違いに笑んでいた。

 桃煉を彼女の自室の傍まで送り届けて、若宮は「桃煉」と不機嫌に手を腰に当てて名を呼んだ。桃煉は「はい、若様」と、若宮の声が冷たいことに緊張して身を固くする。若宮は息をはいて「人派の主と、逢瀬を?」

 桃煉がぱくぱくと口を開けたり閉じたりするのを、冷ややかな目で見下ろしながら、若宮は退屈そうに目を逸らす。桃煉はその若宮の表情や声色が、若宮の頭に血が昇っているときの様子だと見知っているために、ますます体を竦めている。

「もう良い……言い訳もできない愚図と話すような暇はない」

 そう吐き捨てて、若宮は桃煉に背を向ける。桃煉はその若宮の言葉に、心底傷ついたが故にますます声を出すこともできず、離れていく若宮の背中を、ただ眺めていたのだった。

「珍しい。あんなに腹を立てるなんて」と、桃煉の背後から、鈴虫が顔を出した。桃煉は鈴虫が普段通りの表情をしていることに、なぜかぼたぼたと涙がこぼれる。

「おやおや」

 若宮の護衛であるはずの鈴虫は、若宮と桃煉の喧嘩を見て、桃煉の肩を持とうと決めたらしい。鈴虫は桃煉と向かい合うように立ち、桃煉の目の前で首を傾げている。

「桃煉が誰と恋仲になろうと、兄貴には関係ないだろうになあ」という鈴虫の慰めを訊くに、どうも鈴虫は「若宮は桃煉に過保護すぎる」と思ったようであった。

 桃煉が、両腕で涙を無茶苦茶に拭いながら、しゃくりあげて泣いているので、鈴虫は「ううん」と唸って顎に手を当てている。

「桃煉、そんなに泣くな、兄弟喧嘩なんてよくあることだろう。誰が見ても桃煉は悪くないのだし、桃煉のような年頃の娘が誰と恋仲になろうが、当人の勝手というものだ」

 桃煉は「ちがう」と言おうとしたが、涙に邪魔されてうまく言えない。鈴虫は「桃煉にだって、そういうこともあろうさ。若宮が過剰に反応しているだけだ」とずっと桃煉に言い聞かせていたが、やがて「やはり若宮に進言してくるか」と言い残して、若宮の室のほうへと消えていった。

 そのあとに血相を変えてやってきたのは芙蓉であり、芙蓉は「鈴虫様はもう若宮のところへ行きましたか」と桃煉に尋ねると、桃煉が頷いたのを見て稍々右往左往したあと、桃煉に寄り添うのが先だと判断したらしく、桃煉の手を柔らかく取って「桃煉様。桃煉様は、人派の主様とはなにもないのでしょう」とゆっくり確かめるように問いただしたのだった。

 桃煉が、頬を濡らしたまま頷くのを見て、芙蓉は頭を抱え、深いため息をつく。

「若宮の誤解を解くのが先でしょうに。これだから殿方というものは」と鈴虫を口の中で小さく非難して、芙蓉は「桃煉様」と再度桃煉の名を呼び「人派の主と、会っていたのですか。彼のことを慕っているということは?」

 桃煉が「偶然、数回会っただけ」とやっと答えたのをきいて、芙蓉は「桃煉様。若宮以外の殿方のこと、慕うのは桃煉様ご自身のこと。この芙蓉や、誰かから、口出しされるようなことではありませぬ。しかし、人派の主を慕うことだけはおやめ下さい。これだけは決して違わないでいただきたいのです」

「人派の主は贄なのです。人派の従者は贄の僕に他なりませぬ。蓮とは身分が違います。身分違いは不幸しか呼びませぬ」

 芙蓉の言葉に、桃煉は驚いてぱちぱちとまばたいた。芙蓉は息を小さく吸い「桃煉様にも、いつかわかること……」と呟いて、桃煉の肩にその手を置き「桃煉様。芙蓉のこの言葉、ゆめゆめ忘れてはなりません」と桃煉に対して、幼子にするように言い聞かせたのだった。

 結局、芙蓉は桃煉にその言葉の真意を教えてはくれないまま、桃煉に寝所で大人しくしているよう言いつけて自分は室の奥に引っ込んでしまった。桃煉は寝所に設えられた窓からぼうっと宮の庭を眺め、擦りすぎて痛くなった目を、指でそっと押さえていた。

 ぴいと鳴いて、文鳥が一羽、桃煉の部屋の窓に飛んできたので、桃煉は緩慢に起き上がり、その文鳥に気晴らしだと指を出してみた。文鳥は少々迷った後、そっと窓越しにすり寄ってくる。

「随分と人慣れしているのね」

 桃煉はそう、やっと笑って、泣き腫らした目を擦りながら、文鳥を室にいれた。文鳥は桃煉にほとんど物怖じしておらず、桃煉は文鳥に「秋帆あきほ」と名をつけてみる。

 不思議なことに、文鳥は桃煉が「お前の名は秋帆よ。返事をして」と微笑むと、ぴいと鳴いてくれるので、桃煉はやっと声を上げて笑うことができた。この文鳥こそ、桃煉がこの宮で初めて、できた友人であった。

「桃煉様」と桃煉を室の外から呼ぶ者がある。桃煉は秋帆を籠に入れるように侍女に頼んでいる最中であったことと、今は人に見られて気分の良い表情をできていないと自覚していたので、他の侍女に訪ねてきた者の名を訊ねるよう言付けて、自分は室の奥に引っ込もうと背を向けた。

 しかし、訪ねてきたのは常闇で、桃煉は常闇に「忙しかったでしょうか」と問われ、正直にも、ゆっくり首を横に振ってしまったのだった。

「桃煉様。若宮がお呼びです」

 若宮、と名をきいて、桃煉は顔を強張らせてしまう。あんなことがあったすぐあとの呼び出しなど、桃煉にとっては怖くて堪らず、どうしても応じたいとは思えない。

「桃煉、若様のところなんて、行きたくない」

 桃煉の言葉に、常闇は困ったように眉を八の字にして「そうですか」と言ったが、それでもすぐには退こうとせず、なにか思案している様子である。

 双方、しばらく黙り込んでいたが、先に折れたのは常闇の方で「判りました」と頷いて室を出て行った。桃煉は心臓が騒いで仕方がなかったが、息苦しさをおさえてその場に座り込むのが、彼女の精一杯であった。

 若宮が酷く苛立っているとなると、その側近にはとんでもなく厄介なことであるらしく、桃煉を心配しているのだと言い訳しながら、ここ数日、鈴虫が桃煉の元を足繁く通うようになっていた。

 桃煉にとっても、鈴虫は村の仲間で、若宮とはまた違う自分の兄のようなものであったので、桃煉は頬を膨らませながらも鈴虫の愚痴をきいていたのだった。

「桃煉、若宮を許す気は?」と愚痴の最後に鈴虫はいつもそう訊ねる。今日もまたその問いかけを桃煉にしてきたので、桃煉もいつもはだんまりを決め込むところを、今日はようやく「桃煉は、若様のこと、怒っていないのよ」と返事をしたのだった。

「怒っていない?」

「どうして桃煉が若様を怒るの。怒られているのはこちらなのに」

「それなら、どうして若宮の呼び出しに応じなかったんだ」と鈴虫が本当に理解できないという顔で訊ねるので、桃煉は膝を立てた格好で、頬杖をつく。

 桃煉が小さく「怖かったから……」と呟いたのをきいて、鈴虫は目を丸くしたあとに、自身の前髪をぐしゃりと握り、深いため息をついた。桃煉が「なあに」と眉を顰めて鈴虫を見る。

 鈴虫は「いや。なあんにも」とわざとらしく言葉を濁し、すぐさま立ち上がって「さて。仕事にでも戻るか」

「桃煉」と鈴虫は去り際にこちらを振り向いて「若宮に、すぐ謝った方が良いと思うぞ。あちらさんだって、少しばかり気が焦っただけなんだから」

 鈴虫の言葉に「あちらさん?」と桃煉は首を傾げたが、鈴虫はさっさとその場を後にしてしまったので、その言葉の真意は結局、桃煉には分からず仕舞いであった。


 その日の夜半、桃煉は気が晴れないせいでなかなか寝付けず、また橋の袂まで出てきていた。人派の主が居なければ良いと桃煉はこっそり思っていたので、橋の向かい側に人影がないことにほっと安堵する。夜風にしばらく当たっていると、茂みががさりと揺れて、桃煉は反射的にそちらを向いた。

 そこから突然飛び出してきた黒い影に、桃煉はみぞおちを殴られて、しゃがみ込むうちに囲まれていた。

「なにが起きたのか」と辺りを見回し、桃煉は耳元で小さく鈴の音が鳴ったことに気が付いた――いけない、と思った時には、桃煉は自分に襲い掛かる男を、桃煉の身を守ろうと勝手に出てきたらしい馴染みの蔦たちで、羽交い絞めにしていたのだった。

 男が苦しむのを、桃煉はじっと眺めている。怖くて声も出ないのに、蔦の動きを制御することもできない。蔦たちは桃煉の意に反して男を殺そうとしており、ちりちりと涼やかな鈴の音が、このときばかりは酷く桃煉の恐怖を煽る。

 ごきん、と鈍い、首の骨が折れる音がしたあと、男のうめき声も止んで、すべてが終わったことに気が付くより早く、桃煉は静かに泣いていた。男の死体をどうしていいのか分からず、桃煉はすぐさま蔦を払い、男はそのまま地面に伏せさせておいて、震える足でその場を逃げ出す。

 何度も躓き転んだせいで、自室の前に戻ったときには、桃煉の服の裾は泥だらけであった。

「桃煉」

 桃煉が部屋に入れずにいると、暗闇から桃煉を呼ぶ者がある。桃煉はなじんだその声に「若様」と震えながら返事をした。

 若様、と呼ばれて、声の主である若宮が姿を現す。寝間着姿の彼は屈んで泣く桃煉とおなじ目線の高さに屈んで「桃煉。よくやったね」と微笑んだ。

「よくやった……?」

 若宮の言葉に、桃煉は虚ろに返す。よくやった、と頭の中で繰り返して、桃煉はようやくその意味をかみ砕いてから「……若様」と若宮を涙目で見上げる。若宮はいまだ笑んで桃煉を見下ろしている。

「桃煉、それでこそ給仕だ。奇妙な気配がしたから、何事かと寝所を出てきたけれど」

「給仕」

「そうだ、給仕の任を果たしたんだ。それでこそ我が片割れ……」と若宮は呟いて、ちらりと男の死体がある方を見やり「まあ、あれは泥に塗れてしまって、食べる気もしないけれど……」と続けて「桃煉。なにか褒美をあげよう、何が良い?」

「ご褒美? 桃煉に?」

 繰り返して、桃煉は若宮が全く怒っていないことに、安堵の涙を一筋流した。

 桃煉は五年前のことを思い出していて、それは村に若宮が居た最後の日のことであった。桃煉はその日、村にやってきた不審な男衆を蔦で殺したのだ。

 宮の者だという輩に「あなたは給仕なのだ」とけしかけられ、それが若椿――当時の若宮の名である――の為ならばと行動に移した桃煉は、その後に若椿と酷い喧嘩をして、それから「詫びだ」と若椿と一生傍にいる約束をしたのであった。

 若椿が宮に上がったのは、次の日が昇ってすぐ後のことだった。

「若様、またどこかへ行ってしまうの」と桃煉は、当時を思い出して若宮にたずねる。若宮は小首を傾げて「何の話」と言ってから「ああ」と合点して「もうどこにも行かないよ。宮が僕のいる場所で、給仕である桃煉の居場所でもあるんだから。これから別の場所に行くなんて、そんな馬鹿げたこと……」

「そんなことより、褒美が思いつかないのか。無欲にも程がある」

 若宮は美しく微笑む。それから桃煉の顎を持ち上げて「僕をあげようか。桃煉、それが一番欲しいものだろう?」

「給仕の仕事をするたびに、僕をあげよう。僕と居る夜をね。それで手を打たないか」

「若様を?」と桃煉は突拍子のない若宮の話に目を丸くする。ぽろりと頬を落ちた涙を指で掬って、若宮はそれを口に含んだ。桃煉はその行為で、若宮がなにをしようとしているのか察し、頬をみるみる赤く染める。

「もっとはっきり言おうか」

「若様、良いの? でも、桃煉、いま殺したばかりで、すごく汚いから……」という桃煉は、戸惑っているなりに平常を取り戻しつつもあり、そんな桃煉に若宮は小さく「給仕の血が騒いでいるんだね、桃煉。良い子だ」と言い聞かせ、次いで「……こんな時、連香ならどうしていただろう。そんなことはできないとでもいうかな」と独り言ちて笑った。

 桃煉が「連香?」とその名を繰り返しても、若宮は笑うばかりでなにも返さないまま、桃煉を抱きしめる。

「良い子には、褒美をあげなくちゃ」

 ちりちりと鳴る鈴の音に、桃煉と若宮は囲まれていく。いつの間にか桃煉の周りに渦巻いていた蔦たちが、嬉しそうに音を鳴らして踊っているようにさえ、桃煉には見えたのだった。

「主様。お加減がよろしくないので?」

 宵闇に紛れて立っている主を、呼ぶ声がある。主は死骸の傍に立って、それをぼうっと眺めていた。主の傍付きが駆け寄ってきて、その男を見て「これは」と主の顔を仰ぐ。主は首を振った。

「だから籠に入れておけと言ったのに……」

 桃煉の室がある方向を見やって、主はため息をつく。その場にいたわけではないが、男の体についた無数の細い縄状の痕を見れば、何が起きたのかなどすぐに察しがつくのだ。それは桃煉にとって、避けることができない定めであり、しかし避けられるのであれば避けるべきのことであった。

「若宮は満足しているかな?」と主は男の死体から一歩離れて、側近に尋ねた。側近の男たちは一様に頷いて「それが蓮派でしょう」とうすら笑っている。

「この男も、きっと物盗りかなにかだろうね。運が悪いとしか言いようがない。きっと表立って噂になることもなく、宮によって存在を消されて終わりだ」

「主様。あまり夜風に当たられては、風邪を引きますよ」と従者の一人が言い、それに主は「ああ、そうだね」と微笑む。妖に似た赤い瞳が弧を描くのを、侍従たちはぞっとする心持で見ていた。


「桃煉」と、昼時、橋の上で主が桃煉を呼ぶ。桃煉は若宮と共にいて、主にちょっと頭を下げたが、その隣で若宮は退屈そうに目を細めている。

 若宮が後ろに従えていた鈴虫が「若宮。俺が一発、あの男を懲らしめましょうか」と腕を振るので、桃煉が驚いて鈴虫を見上げる横で、若宮は「止めておけ、鈴虫。桃煉、話したいのなら話しておいで」

 若宮の言うことに、桃煉はますます口をぽかりと開け「え、若様、良いの?」と言うので、若宮は面白くなさそうにしながらも「まあ良いよ。逢瀬だなんてたちの悪い冗談だと、僕が見抜けなかっただけなんだろう」

「おや。冗談だと分かってしまったの」と主が口をはさんだのを、鈴虫が訝しげに目を細め、若宮が眉根をひそめて睨みつける。

「分かっているの。律のせいで散々だ」

「桃煉は散々かもしれないね。その節は申し訳なかった、桃煉。でも、若宮はしっかり頂いたのだろう」

「頂いた?」と桃煉が首を傾げているので、律と名を呼ばれた主は微笑んで、桃煉の、首と肩の付け根を指し、主自身のその部分に手を当てて合図してみせる。桃煉は分からないなりに自分のその部分を摩って、そこに歯型があることに気が付き声にならない声を上げた。

「気を付けて」と桃煉に告げ、主がすっとその場を立ち去ったので、桃煉は若宮の背にすっかり隠れてしまった。

「鈴虫。桃煉の上着を取ってこい」と若宮は肩を怒らせて鈴虫に言付け、鈴虫が若宮の部屋に走って戻っていくのを桃煉と一緒に見送ると、背中に隠れたままの桃煉の腕を引き「いつまでそうしているんだ。堂々としていなよ」と不機嫌に告げた。しかし、桃煉は若宮の言葉に激しく首を振っている。

「……あれ」と、桃煉はやっと「そのこと」に気が付いて、屈みこんだ格好のまま、橋の辺りを見回した。若宮が「なに」と短く訊ねたが、桃煉は再び首を振る。

「ううん」と彼女はしばらくそうして唸っていたが、あの死体がどこにもないことに違和感を覚えていても、それをこんな真昼に口に出すことが、どうしてもできないのであった。

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