第一章
1
「若様」と名を呼ぶのが、好きだったのだ。
だからこそ、桃煉の周りは「考え直してはくれないだろうか」と何度も言ったのだ。しかし、肝心の桃煉の両親はそういったことには口を噤んでしまっていたこともあって、結局、桃煉が気変わりすることは一切なかった。
「宮様のお傍に上がりたいのです」とこうべを下げる、十七の娘に、父と母は顔を見合わせ、それから母がゆるりとこう問いかけた――「あなたのお兄様に、会いたいのですか」
その問いに、桃煉は
桃煉は、幼名を
幼い頃から共に過ごした双子の兄は
双子の兄が宮様になって、一際困ったのは片割れ、つまり桃煉である。桃煉は双子の兄にそもそもべったりくっついていたので、兄が宮様になるのだと宮に上がってしまってからしばらく、その癇癪は手に負えないほどであった。
それから桃煉が「私も宮に上がる」のだと覚悟を決めるまで、かかった歳月はじつに二年である。
「桃煉も立派な女性になったもの。若様の傍にあがるのに、なにも恥ずかしくありません」
胸を張る、言葉通り美しく成長した愛娘に、自分たちが宮の辛酸を舐めたことを言いだせないでいる母と父は、今日も又、娘の将来にかかる暗雲に対して、不安で眉根を顰めていることを、肝心の桃煉は気が付いてもいないのだった。
「女の利発も結構だと育てたのが、間違いだったか」と酒を舐める父に、母は頭を垂れ「桃煉の生末は決まっていたのでしょうか」と涙を呑んでいる。
「尊殿宮に上がるなど、こんなに愚かしいことはない。あの宮に上れば桃煉は二度と帰ってはこない。この俺ですら、もう顔を見ることも叶わないだろう」と父が言い、それに母が「若椿が宮に上がったときから、私はもしかしてと考えていました」と答える。母の言葉は父にとっても薄々気が付いていたことであったので、父は黙して盃に酒をつぎ足した。口に運ぶ酒が、この日は嫌に臭く、そのくせに無味である。
「不味い」と呟いて、父は盃を置いた。頬には僅かばかりすらも朱色は走っておらず、素面の調子で父は布団に寝転がる。
「連泉様」と母は父を呼んだ。それは父が宮にいた時分の名で、もうすでに捨て去った名でもあった。
「
その母の問いかけに、父ははっきりと答えられず、ただ「判らない」と告げて、渋い顔で目を閉じたのだった。
2
いよいよに桃煉の出発の日となり、父と母はめかし込んだ美しい我が娘を見て、涙ぐんでいた。桃煉は純朴故にその涙を「父様と母様は、自分の出発を喜んでくださっている」と思い込んでおり、元気に手を振って、この娘は宮行きの篭に乗り込んだのだった。
この日の為に母が用意した反物は美しく、桃煉の白い肌と豊かな黒髪によく似合っている。紅を差した顔立ちはまだどこか幼さを残しており、この日の桃煉は、格段に美しい少女であった。
尊殿宮の鳥居をくぐり、中に入って、桃煉はその豪奢さと広さにまず圧倒された。
尊殿宮はまさしく宮であり、王の住まう場所であった。南と北に別れた建物は、中央の廊下で繋がっており、南が
篭から降りて第一に、桃煉は蓮と敵対しているはずの人派の
「この宮に上がってきたの」
彼は涼やかな声でそういうと、桃煉に人懐こく手を伸ばす。桃煉は彼の手を握って良いものかしばし思案して、結局扇を口元にあてて笑んでから、ちいさく頭を下げた。
「その装い、蓮派か。若宮によく似ているけれど、血縁者であるのかな」
気安く話しかけてくる人派の主に、桃煉は困ってしまう。自分が若宮――宮様――の血縁だということ、いつかわかることだとはいえ、いまこの男に話して良いものなのだろうか。
「主。また女遊びかい」
「ああ、若宮」
蓮派の奥から、声が伸びる。主はその声を「若宮」と呼び、驚いた桃煉が振り向くよりも早く、その声の主はこちらを見向きもせずに、主にだけ「いい加減にしておかないと、人派の格が落ちるだろう。僕はどうでもいいけれど……」と言葉尻を小さくして、奥に引っ込んでしまった。
「若様」と桃煉は若宮の名を呟き、慌ててその人影を追いかけようとしたが、それは終ぞ叶わなかった。桃煉の侍女だという女がやってきて、桃煉を引き留めてしまったのだ。
主のほうも、女たちが話し込んでいる間に姿を消しており、それから月が二めぐりする間は、桃煉の方も宮式の作法を叩きこまれるのに忙しく、主とも、勿論若宮とも謁見することはできなかったのだった。
美しい尊殿宮は、今日も鳥居の奥で霧に覆われている。
いつでも肌寒いこの宮は、桃煉のいた村とはなにもかもが違っていた。この蓮派では「れ」のつく名はそれ即ち貴人の家系のものであって、特に「れん」の音は蓮の中でも宮様に近いものしか冠せないらしい。
「ということは、若様はやっぱり、とっても偉いお方なのね。桃煉もそうなのかしら」
「桃煉さまは特別ですわ。宮上がりしたばかりの娘子が、最初から
教育係の侍女が、次いで「若宮のお名前、絶対に口に出してはなりませぬ。桃煉様がいくら若宮に近しい血縁だとしても、この宮での貴女様と若宮の間には、深い溝があるのです。軽々しく口の端に上らせるものでも、若宮に話しかけて良いものでもありません」と口酸っぱくいうので、桃煉は「はあい」と肩を丸めて小さくなってしまった。
折角宮に上ったというのに、これではいつ会えるかもわからない。そもそも会えるという確証もないのだということを、桃煉は薄々と勘付き始めていた。
3
桃煉は、若宮と同じく、人ならざる能力を持つ。桃煉のそれを「給仕」と呼ぶのはひと昔前のことであるが、しかし、それを異能だと知らず、だが「人前で見せるものではない」と母に教え込まれた桃煉は、寝所で侍女が寝てしまった後になって、こっそり独りの寂しさを発散しようと手遊びのようにその力を使うことがあった。
桃煉の異能は「蔦を操る」ことであり、それは桃煉が心中で呼べば、どこからともなく湧いてくる。桃煉はその蔦が一体何の蔦で、このちりちりと若宮のように鳴る鈴の音が何なのか、全く持って知らない。
桃煉の片割れである若宮は、桃煉のように蔦を操ることこそできなくとも、その身から常に鈴のような軽やかな音が鳴っている。小さなそれは響くものではなく、しかし、一度耳にすればなんとなしに聞き入ってしまうような美しい音であった。
「若様の音が聴きたい」と、桃煉は眠れない夜に常として思う。だからこそ、この蔦を呼んで、その葉が鳴らす鈴の音を聴かせてもらっているのだ。桃煉が欲するその若宮の音は、この宮では「命の音」と呼ばれていることも、桃煉の力がなにを意味するのかも、この宮で桃煉だけが無知でいる。
或る日、桃煉は寂しさを募らせて、こっそり夜半に部屋を出た。御簾をあげて見る月は冷たくも美しく、桃煉の心を癒してくれる。桃煉はなんとなく、蓮と人を渡す赤い橋の真ん中に立った。橋の向こうに人影が揺れて、桃煉は何の気なしにそちらを見る。
「おや」
桃煉の姿にそう呟いて、夜風が揺らす葉をかき分けてやってきたのは、人派の主であった。
彼の濡羽色の短い黒髪は宵闇に溶けており、赤い目もいまは濃い灰色がかって見える。しかしその白い肌が特別浮いて見えて、桃煉は主の見目を「美しい妖のよう」だと思った。
「主様。こんな夜更けに」
「こちらへおいで、桃煉。夜更けにその橋を渡ること、僕は許されていなくてね。君の方から来てくれると嬉しい」
主の誘いに頷き、桃煉は寝間着の裾を引きずって橋を渡る。渡り切ろうとしたところで、主は桃煉を手で制した。
「そこまで。……渡ってしまっては、いけない」
「主様、どうして桃煉の名を知っているの?」
桃煉の不躾な問いに、主が僅かに目を丸くしたのが、闇夜に慣れ始めた目で微かに分かった。主は顎に手をやり「ううん」と唸って、柔らかく笑う。
「若宮が君の話をよくするからかな。それと……君は、春に似ている」
「春」と聞きなれたその名前を桃煉は口真似る。桃煉はもしかしてと「母様を知っているの」と主に再度訊ねたが、主はその問いに、口元に笑みを浮かべただけで答えなかった。
桃煉の母は、「春」という名であった。桃色の髪だから春なのよ、と笑った母の顔に影が落ちるのを、桃煉は幼少から見慣れていたのだった。桃煉も若宮も、髪は黒であり、父も黒髪であったから、母の桃色は村でも一等に目立っていたのだ。
「純粋は、時として罪を呼ぶ」
詠うような朗々とした声で、主は言う。
声を落として「若宮は、早く君を籠に入れておかないといけないのに。一体なにをしているのだか……」と、扇子で口元を隠した主が恐ろしいほどに美しく見えて、桃煉は魅入ってしまった。だが、そんな桃煉に、主はすぐに背を向ける。
奥からやってきた二人組の男が、主に話しかけているのを見ながら、桃煉のほうもそれからすぐに、蓮の方へと橋を引き返したのだった。
4
桃煉は、宮式の勉強を行ううちに、この宮には代々、双子の頭とひとりの主がいることを知った。双子は蓮派の頂点に立ち、ひとりの主は人派の長になる定めであるらしく、蓮の頂点には鈴の音が鳴る男子を、人の長には赤い目の麗しい男子を、というのが、この宮で一番の決まり事であるようだ。
「ということは、若様は鈴の音が鳴るから宮の頂点に立ったのね」
「桃煉様も、いまのうちにしっかり勉強に励んで作法を学んでおかねば、きっと恥をかきますよ」
ふと、桃煉がその目を木の実のようにして「桃煉は若様のお傍にいける?」と屈託なく訊ねれば、教育係は困ったように表情を強張らせ「中宮様になれるかは、桃煉様次第ですわ」と濁す。
「中宮様になれたら、きっととっても幸せだろうなあ」と夢を見る桃煉に、教育係は小さくため息をつく。宮に参上したばかりのひとりの娘が、中宮になれることなど、一体全体、どんな奇跡だというのだろうか。
「さあ、お勉強しましょう、桃煉様。若宮もそれをお望みですよ」
「ねえ、
教育係――芙蓉は桃煉が全く勉強にやる気を持たないことに、こっそりとため息をつきながらも「そうですね」とすこしばかり思案している様子である。少々の間を置いて、再び芙蓉は口を開くと「若宮の御血縁なのですから、桃煉様は貴人の御身分となりましょう」
「貴人……」と繰り返す桃煉は、朝から開いている教本に描かれた、蔦を操るのだという双子の片割れを見つめている。
きっと芙蓉に、桃煉自身が蔦を操れるということを教えたのならば、桃煉の身分がひっくり返るだろうということは、桃煉も薄々と感じているのである。
それでもそれをしないのは、ひとえに「どういう風に」ひっくり返るのかが分からない故の恐怖感からであった。
「ねえ、芙蓉」と桃煉は今日も教育係に対して意を決し、こちらを見た芙蓉の瞳に意をそがれてしまって、その赤い唇を閉じるのだった。
「若様に会いたいだけなのにな」
呟いて「なのに、こんなに遠い」と桃煉は寝台に寝転がる。華美な装飾の寝台は固く板張りであり、寝台傍の丸い赤枠の窓からは、霧のかかる宮内が、朧げに見えている。
真紅の部屋を見回して、桃煉は仰向けに寝そべったまま目を閉じた。芙蓉が「桃煉様」と桃煉を諫めたときには、桃煉はもはや眠りの世界に誘われていたのだった。
夕方になっても、宮には人が行き来している。往来の大部分は各々の貴人の傍付きたちであり、桃煉に付く芙蓉やそのほかの侍女たちも、こうして夕方の宮を行き交ううちの一人であった。
桃煉は、そんな宮の喧騒から蚊帳の外であり、いまだに朝からやっている教本の、双子の頁を開いたままで指先が止まってしまっている。教本の内容がつまらないからというよりは、桃煉のそれはどうしようもない虚しさからであった。
「かたや若様は、この教本通りに宮様だというのに、その片割れである私は、ただの貴人のひとりだという」と思えば、桃煉はだんだんと項垂れる格好になってしまう。自分の生まれが貴人たるものであるのかよりも、桃煉にとって「片割れが宮様である」ことと比べて、自分の現状が「そうではない」ことが、悲しくて仕方がないのであった。
「これでは一体、いつ、若様のお顔を見れるのかもわからない」
桃煉はひとりごち、ため息をついた。桃煉にとって一等に気になるのはそのことであり、だからこそ、若宮と身分が釣り合わないことも、桃煉の頭を悩ませてしまうのだった。
夕刻を過ぎ、夜になれば、尊殿宮はその冷たさを増すのが常である。桃煉の室の目先には庭園があり、ずっと奥にひっそりと、人派と蓮派を分け隔てる赤い橋が見えるのだ。茂みを超えていけばたどり着けるその橋を渡るのを、蓮派の貴人たちはあまり良しとしない。
この宮には、謎が多く、ちっとも姿を見せようとしない若宮のことも、桃煉にとっては不思議のひとつであった。若宮には、一端の貴人である桃煉のことなど一々と耳に入らないことは分かっていても、それでも桃煉は「若宮の実妹」であって、あの教本からいけば「片割れ」の「給仕」であるのだ。そんな妹が宮にいることを、若宮が知らないなんて、と桃煉は室に設えられた窓から外を見ながら膝を抱く。
「桃煉はかなしい」
「若様、どうして会いに来てくださらないの」と呟いて、桃煉はひっそりと泣いていた。この宮に友のひとり、会える身内のひとりもいない現状は、まだ十七を数えたばかりの娘には酷でしかなく、それをやっと桃煉自身もひしひしと感じ始めていたのだった。
5
「若様が来てくれないのなら、桃煉から会いに行きたい」と桃煉が言い出したとき、芙蓉の顔にありありと浮かんだ感情は「遂に言い出したか」とでも言いたそうな呆れであった。
そんな芙蓉に桃煉が「芙蓉、そんな顔をしないで。桃煉、待つのは嫌いなの」と言い募っても、芙蓉は強張った表情で首を振るばかりである。
「どうして」と桃煉が泣きついてもなにをしても、芙蓉は決して是とは言わなかった。いよいよ桃煉が本格的に泣き出しても、芙蓉は頑として態度を変えようとしない。桃煉が「どうして、酷い」と芙蓉をなじって初めて、芙蓉もその理由を桃煉に告げた――「若宮と桃煉様の御身分の差を、お教えしなかったこの芙蓉が悪いのでしょうね……」
「身分の差」と繰り返す桃煉に、芙蓉は膝を揃えて向き直り「桃煉様。本来であれば、桃煉様は若宮に会いたいということも憚らねばならぬ御身分です。貴人の血筋であっても、貴女様には後ろ盾なく、しかも宮内に顔見知りもいない有様で、どう中宮になろうというおつもりか。かといって勉学に励む様子もなく、することといえば駄々をこねるだけ。これでは時間を無駄に使って、いよいよ歳を取った頃にこの芙蓉のいうことがまことであったのだとまた泣くだけです。いいですか、桃煉様。貴女様がこの宮で生き残り、また駆け上がるためには、強くあらねばならぬのです。それなのに貴女様ときたら。若宮の傍に座りたいというのであれば、それ相応の努力をしなさい。権力こそがすべてだと知るのが先ではありませんか」
「権力」と繰り返す桃煉に、芙蓉は肩を怒らせて切々と説く。
「そうです。中宮になるというのは成り上がるということ、強さと美しさを兼ね揃えねば成し得ないのです。桃煉様が再三言っておられる、若宮の傍に侍るということが、女の栄華を極めたいといっているも同義だと、どうして言われるまでお気づきにならないのです」
芙蓉の勢いに飲まれて、桃煉は身を小さくしてしまう。そんな桃煉の様子に気が付いた芙蓉は「まったく」と呟いて「中宮となる努力をなさい。それこそが若宮と会う近道ですよ」と裾を翻し、桃煉の室から出て行ってしまったのだった。
それから幾日ののち、彼女が部屋で絵を描いていると、見知った顔の男二人が室にやってきた。
男のうち、一人はその顔に軽薄な笑みを浮かべて、桃煉に手を振り、気安く「桃煉。久しぶり」と声を掛けてくる。
桃煉はなにも言わずとも御簾を上げた芙蓉や侍女たちに違和感を覚え、どこで会ったのだろうとその男たちをしばし観察してから、やっと合点した。若宮が宮に上がるより以前に、村に居た金持ちの道楽息子の
「鈴虫、常闇さん。宮に上がっていたの」
桃煉が立ち上がって人懐こく男たちに近寄ると、芙蓉が「はしたない」と咳ばらいをした。そんな桃煉と芙蓉を見ていた常闇が目を丸くしており、鈴虫のほうはけらけらと笑っている。
常闇が桃煉の前に一歩踏み出して、その切り揃えられた黒髪を揺らして桃煉を見下ろす。背の高い元門番は、いまとなっては門番の影は一切なく、貴人の息子であるかのように見える――「桃煉様、お久しぶりにございます」
「常闇さん、きっと私の方が、常闇さんより身分が下だから……そんな話し方はやめて」と桃煉が弱ってしまうと、常闇は「いえ」と一度空咳をしてから「若宮のお達しですので。貴女様にくだけた話し方などすれば、私の首が飛びます」
「くわばらくわばら……」と冗談めかして呟いた鈴虫のほうをきょとんとした顔で見る常闇に、桃煉も「この二人は変わらないのだな」と、やっと宮で息をついた心持である。
鈴虫が「桃煉、若宮には会ったか」と尋ねてきたので「若様に? 会えるはずがないでしょう」と桃煉は驚いてしまった。その桃煉の反応に、なぜか尋ねた鈴虫のほうも驚いたらしく、常闇と目配せして「……若宮に会っていない? それは……」
「会う日程は、確かになかったですな。しかし、あの方のことだから、きっともう忍んで会っているのだろうと思っていたのですが」
常闇の言葉をきいて、鈴虫が目を細める。
「はあ、常闇さん、珍しい。あんたがまさか、そういう意地の悪いことを」
「意地が悪い?」と困惑している常闇に、鈴虫は「桃煉と若宮が仲が良い兄妹だってこと、あんたなら知っていると思ったのに。どうせ若宮にあまりにも女っ気がないから、桃煉との逢瀬を邪魔建てしたのだろうが、そうは問屋が卸さないぞ」
「待て、待て。一体なにを言っているんだ。俺は若宮の私事には、なにも関わっていない」
ふたりの会話の意味を分りかねた桃煉が首を傾げているのを見て、まず常闇が「ああ、そうでしたね、桃煉様」と桃煉に声をかけ「私とこの鈴虫は、若宮の側近として宮使いしております。若宮からは、貴女様のことも、若宮ご自身のことのように宜しくと仰せられておりまして」と言ったので、桃煉の方は益々に
「若様の傍付き? 若様が、桃煉のことも宜しくと?」
「そうですよ。若宮は、貴女様が宮入りしたこと、ご存知であります。貴女様が困っているときには手を差し伸べる様に言われているのですよ」
「……若様、桃煉のことを知っているの?」
繰り返し訊ね返した桃煉の翡翠の目に、みるみる涙が浮かぶ。常闇は酷く困惑した様子で「桃煉様?」と桃煉を呼び、その横の鈴虫は「あれあれ」と首を傾げて桃煉を覗き込んだ。
「若宮、これはいけない……」と呟いた鈴虫を無視して、常闇が困った様子で芙蓉に目配せしたので、芙蓉がようやくに桃煉の後ろから出てきて「桃煉様、どうなさいました」と柔らかく声を掛ける。
「酷い。若様、桃煉のことを知っていたのに、顔を見せにもこないのね」
そうしくしく泣く桃煉の名を、渦中の人物が呼んだのは、そのときであった――「誰が顔を見にも来ないって」
桃煉は顔を上げて、咄嗟に声を失った。若椿――桃煉がずっと会いたかった若宮――が、桃煉のすぐそばに立っているのである。
「若宮」と常闇と鈴虫が声を揃えて姿勢を正したのを「良い」と若宮が片手をあげて制する。桃煉はいまだ声を失っており、間抜けな顔をした妹を見て若宮は冷笑を浮かべた。彼の赤い目が愉快そうに歪むのを見て、桃煉はやっと呼吸の仕方を思い出し「若様?」と彼に本人かどうか尋ねることができたのだった。
「そうだよ、桃煉。折角お前に会いに来たのに、まさかなじられるとはね」
「だって、だって若様。会いに来てくれるなんて一言も……それに、桃煉が宮にきて、もう何か月経ったと」
桃煉がやっとのことで若宮に詰め寄っても、若宮の方はうるさそうに眉を顰めるばかり、次いで「僕が暇をしているわけがないんだから、これでも早く出てきた方……」と言い訳のように言葉を濁している。
十七になった若宮は、村で若椿だった頃の面影を残し、しかし立派な青年となって桃煉の目の前に立っていた。君主の証拠であるような拵えの絹の服に身を包み、その長い黒髪は豊かに背でなびいている。赤い瞳が歪む様は玉を目に据えた人形のようであった。
「……若様」と桃煉は若宮を改めて呼び、立ち上がる。妹の緑の目が涙で揺れるのを見て、若宮は満足げに妹向かって両腕を広げた。
「おいで」と若宮が言うより早く、桃煉は若宮の胸に飛び込んだのだった。
「それは、芙蓉のいうことが正しいね」と、五年ぶりに一緒の風呂に浸かりながら、湯舟に浮く花弁を掬って若宮は言う。桃煉はそんな若宮に「どうして。若様に会えたのに」と頬を膨らませた。
若宮はくすりと笑って、桃煉の血色の良くなった細い肩に載る花弁を拾い上げて、先ほど自分が掬った花弁と合わせて湯舟に落とす。
「お前はそうやって芙蓉にも、どうして、どうしてばかり言っているの?」
桃煉は、若宮の声が冷え切った響きを持つことに気が付いて、びくりと肩をすくめ「若様、そんな言い方」と口をすぼめる。若宮は桃煉をちらりと見て「桃煉、少しは自分で考えるんだね。僕の傍に居たいのなら、無知で純朴は困る。ただの足枷になるような中宮はいらない」
桃煉が「若様」と瞳に涙を浮かべても、若宮にはどこ吹く風である。
「すぐにそうやって、泣きそうになるところも直しな。この宮はお前が思うほど生ぬるくはない。宮の者に取って食われるなら、僕の目から見えないところで勝手にしてくれたら良いよ。藻掻きたいのなら、藻掻けるだけの力をつけるんだね」
若宮の言葉に、桃煉は怒りと悲しみで真っ赤になって、派手な音を立て湯舟から立ち上がった。湯舟から見上げる若宮の赤い目は細くなり、まるで獲物をなぶる獣のようである。
「上がる! 常闇さん、桃煉の服をください!」
桃煉が咄嗟に男の常闇を呼んだことに、若宮は嫌そうに「ちょっと、芙蓉を呼びなよ」と桃煉の後ろから声を掛けたが、常闇が慌てて桃煉の衣服を持って顔を出したのを見て、若宮も「仕方ないからお前で良いよ。早く桃煉を着替えさせて」と嫌々に指図したのだった。
桃煉は、若宮や芙蓉のいうことがもっともで、自分が子どものような駄々ばかりこねていることも分かっていた。しかしそれでも、宮に上がって半年の桃煉には、宮のことなどなにもわからないのが当たり前であり、わからないなりに考えれば考えるほどに、若宮の傍に居られない現状に「どうして」「なぜ」ばかりが降り積もるのだ。
やっと若宮に会えて、昔のように接して貰えても、桃煉は今度のことで「若宮はもう、以前の兄ではない」ということに気が付き始めていた。
人の子の五年は長い月日で、その五年を宮で過ごした若宮は、桃煉の思うよりもずっと宮に染まり、宮様として君臨する人物として成長しているのだ。五年もの間、当たり前に村娘として過ごしていた自分とは雲泥の差であるのは、少し考えてみればわかるような簡単なことであった。
桃煉は濡れた髪で「若様の馬鹿」と屈みこんでいた。夕刻になりはじめた空はもの悲しく、桃煉にはそれすら苛立ちの一因になってしまい、久しく、桃煉は声を上げて泣いたのだった。
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