第九章 宮の主


「春。此処にいた」

 鯉池の傍に屈みこんでいた春を、律が覗き込む。春は律を見て、「なにか御用ですか?」と機械的にたずねた。そんな春の横に座って、律は、「これを、春。蓮派の双子からだよ」

 律がそう呼ぶのは、十中八九、連香のことだ。律は春を通して連香とも親交があるらしく、それも律にとっては「彼に興味があるんだ」ということであって、連香からすれば「面白いよね」ということだった。

 律が連香を好意的に思っているかどうかが、春には今一よく掴みかねていて、同時に、連香が律をよく思っているのかどうかも、春にはよくわからない。どうも敵対心のようなものは全くないようだけれど、だからと言って互いとも好きであるようにも見えなかった。

 それでも律は連香を見れば率先して寄っていき、会話を楽しんでいるようだ。春はといえば、そんな二人のことを、「連香様はやはり、人好きのする方なのだな」と思っているだけだった。

 対する連泉は、連香の傍に寄ってくる彼を威嚇することこそないが、いつもはたから眺めているだけで、二人の会話に入ろうとする様子もない。

 その連泉の態度が、春の仕えていた先の主へのものと同じだと、春はこっそり思っている。

「連香様から?」

 「珍しい……」と思いながら、律が持ってきたという文を、春は受け取る。連香とは親しくしているけれど、彼から文を貰うのは春としても初めてのことであった。

 春は律が去ってから、ゆっくりその手紙を開く。それには、「ここにきて」という短い言葉と、地図が書かれているだけである。春は首を傾げながら、「連香様が初めて手紙を渡すくらいだから」、とその場所へ行ってみることにした。

 賑やかな蓮派の廊下を、春は地図の通りに進んでいく。蓮派にくるのは、主の一件のあった後には、連香に誘われたとき以外にはめっきりなくなり、今回が久方ぶりだった。春は辺りを見渡し、果たしてその室を見つけて足を止めた。そこはなぜか見たことのある室で、勿論主の件の室とは違ったけれど、なにか嫌な雰囲気のある場所だった。

 ――春はその奥のものを見て、はっと息を止める。

 そこにあったのは、無数に咲き誇る蓮の花だ。赤い蓮が、水面でもないのに、部屋一面に咲いている。その中心に屈みこんでいる親しい背中と、その隣に立つ人影に、春は声をかける。「連香様? 連泉様?」

 屈みこみ蓮に触れていた人物は、春の声にこちらを振り向きもしない。しかしその隣の人物は春を見て、「おや」とでも言いそうに小首を傾げた。「きたな」、と言って、春に一歩近づく。春はなぜか、その動作に底知れないものを感じて、我知らず一歩退いた。近寄ってきた人物は、連泉だったのだ。「連泉様、あの……」

「――春。ここにお前がきたということは、つまりそういうことでいいんだな?」

 ほとんど笑わなかったはずの連泉が、春に近寄りながら口元を歪める。春は退く足を止め、連泉をまっすぐ見た。それから奥の人物を見る。

 ――あの人は、連香様のように見えるのだけれど……

 ――なにか……「違う」?

 春の足に、なにかが絡まる。それに足を取られ、春は「きゃっ」と短い悲鳴をあげて思いきり尻もちをついた。

「ようこそ、春」

 するりと奥の人物が立ちあがり、春に微笑む。その顔を見て、春は一瞬で背筋が凍った。

「ここは、大樹の部屋。この尊殿宮の主の部屋だ」

 春を振り向いた人物は、そう厳かに告げる。その朗々たる声はまさしく連香のものなのに、その瞳は翠ではなく、赤であった。


「宮の……主……?」

 春が赤い目の彼の言葉を繰り返すと、彼は口角を上げる。「そう。呑み込みが良いね」

 「あなたは誰? 連香様はどこに……」と春は無意識のうちに彼に訊ねる。その春の問いかけに、彼は満足げに鼻を鳴らした。「おや? 僕が連香と違うのがわかるの?」

「さすが、連香が気に入るだけあるなあ。連香は、ここだよ」

 そう彼は、自分の胸に手を当てる。「僕の名は蓮煉れんれん。連香の中にある、大樹の種の人格だ」

「大樹の……?」

 よくのみこめなくとも、春は蓮煉と名乗る彼の言葉を、必死で咀嚼しようとしているようだった。その彼女の反応を、「愛いね」と言って、蓮煉は春の顔を覗き込んで嘲笑う。「僕の名を連泉以外の者に名乗ったのは、もしかして初めてかな?」

 蓮煉が連泉に問うと、連泉は頷いた。「初めてでしょう。貴方にしては珍しい気まぐれですね」

 蓮煉と連泉の間に挟まる形で座り込むことを余儀なくされている春は、自分の足元でいまだになにかがうごめいているのを、やっとそれが何であるのか確認して息を呑んだ。鈴のような音が鳴っているそれは――「……蔦?」

 春の言葉に、「それが何かわかるのか」と連泉が面白そうに言う。春はそれに恐る恐る触れた。――それはまさしく蔦であり、その体に小さな、葉のようなものがたくさん実っている。この葉がちりちりと鳴るのだと気が付いたとき、無数の蓮の花から一斉に、しゃりんと音が鳴った。

 春が驚き目を見開くのを見て、蓮煉が腹を抱える。「はは! ご名答! 連泉、君の正体も明かしておこうか」

 機嫌よく連泉の腕を引き寄せ、蓮煉は連泉を指さす。「春。こいつはね、生まれたときから僕の従者であり、僕の食事を準備する給仕なんだ」

 嫌そうに目を細める連泉と、上機嫌に笑う蓮煉を見比べて、春は、意味が分からない、と眉を寄せる。「給仕?」と春が訊ね返すと、蓮煉はますます大声で笑った。「そうだよ、給仕だ」

 「ねえ、春」と蓮煉は春に顔を寄せる。春が咄嗟に目を逸らすと、面白くなさそうに顔を歪め、蓮煉は春の顎を掴んで無理やり自分に向かせた。「随分つれない……ねえ春、君は連香の鈴の音を心が休まる音だと言っていたね。あれは僕の音、命の音なんだよ。その僕に、その態度はあんまりではないかな? 連香にいつもしているように、もう少し、媚びて見せれば良いものを」

 その蓮煉の声が、冷え切ったものであることに、春の背筋が凍った。「なんだろう」と春は思う。自分がいま相まみえているものが、一体なにであるのか、全く理解できないけれど、それがなにか――「人ではないもの」であることだけは、春もだんだんわかり始めていた。

 その春の心の中を、蓮煉は察しているらしい。彼は春ににっこり笑うと、その顎を離し、立ち上がり一歩退いて、隣に立つ連泉に声をかけた。「さあ、連泉、やってしまって。はやく食べたくてうずうずしていたんだ」

 連泉がその命令に頷き、春に手を伸ばす。その裾から蔦が自分向かって伸びてくるのを見て、春は逃げようと腰をあげようとして、腰が抜けていることに気が付いた。自分の首にまっすぐ向かってくる蔦に、硬く目を瞑って、顔を背ける。

 ――そのときだった。ちりんと、耳元で鈴が鳴り、懐かしい、もうよく見知った体温が、春に覆いかぶさる。彼はいつもの声色で、「春さん」と春を呼んだ。

「……れ……」

 彼は春をその胸に抱いて、片方の手で、春に伸びた連泉の蔦をその腕に巻き付けていた。春は混乱してしまっているなりに、それが誰であるのかを知る。「れん、こうさ……」

 連香の翡翠に戻った瞳が、赤を滲ませる。彼は苦痛に耐えるように歯を食いしばり、「騙し討ちのような真似をしたね、ごめんね、蓮煉」と目を瞑って呟く。彼が目を開くと、濁りのない翡翠の双眸に、春の泣きそうな顔が映った。「ごめんね、春さん」

「春さん。僕ね、春さんが好きなんだ」

 連香の突然の言葉に、春は目を瞬く。その春の反応に微笑む余裕もないらしく、連香はじんわりと額に脂汗をかいていた。

 「え?」と春が問い返すと、連香はそこでやっと、少しだけ笑い声を漏らす。「さよならだね、春さん。ふふ、僕からさよならを言うのは、何度目なんだろう。でも、これが本当に、さよならだ」

「君をここに呼んだのは、僕の願いをかなえてもらうため。……こうしないと、蓮煉を罠に嵌めることができなかった。巻き込んでしまって、ごめんね、春さん」

 連泉の蔦が、連香の声に反応したように連香の腕から離れていく。連香は連泉に顔を背けたまま、春を掻き抱いた。するりと懐からそれを取り出す。

 それは、美しい蓮の彫がされた短刀だった。春はそれを見て、心臓が焦りのようなものでどくどくと早く打つ。「連香様?」と彼女が嫌な予感に彼を呼んでも、彼は微笑むだけだ。「春さんが、僕を殺して」

「っ!?」

 春が驚きに言葉を失くす。しかし、その言葉は、なぜか事態がよく呑み込めていない春にも、予想ができていた気がした。嫌な予感が形になったことを知った春の手を、連香は無理やり短刀に伸ばして、その手が震えていることも無視する。

 「ごめんね……」と呟いて、連香は自分の手に春の手を、短刀の上に重ねさせたまま、力を込めて、自身の心臓をひと突きした。

「あっ……! ああっ! ああああ!」

 春の絶叫が、室に木霊する。連香が倒れていくのを見ているかのように、部屋中の蓮の花がしゃんしゃんと大きく鳴った。ちりんと音を立てて、春に覆いかぶさるように倒れ込んだ連香の体から、連泉が春をおもむろに引き離した。春はますます声を上げる。断末魔のような声だった。「い、いやだ! いやだ、離してっ! 連香様!」

 春の目の前に、花弁が舞い始める。それを見て、連泉はもがく春を抱きかかえ、連香と室から離れるように走り出した。

 「離して! 連香様!」と連香に向かって必死に手を伸ばす春を嘲笑うように、連香の体を依り代にして、蓮の花が彼の亡骸に数多の花を咲かしていく。

「連香様! 連香様……いやああああ……」

 春の声は、連泉に抱きかかえられているためになすすべなく、連香から離れていく。室の扉を閉めることも忘れて、春を抱いたまま連泉は室から飛び出した。


春さん

突然手紙を書く、僕をお許しください

春さん、とても驚いたでしょう

春さんには、つらい思いをさせてしまった


ここまで何人も食べてきた僕を、春さんに殺してもらうなんて、僕は本当に勝手で我儘だ

だから、最後に、手紙を書きました

この手紙を春さんが読んでくれている頃、僕はもう口がきけないだろうから

さよなら ありがとう


連泉にも、とても迷惑をかけています

最後に、もうひとつ、お願いしていいかな?

もしよければ、連泉と、一緒にいてあげてほしいんだ

彼はとてもやさしいから、僕の食事のために、人を何人も殺しました

僕らは、誰にも許されない

でも、僕は、連泉を残して逝くことになる

僕は、遅かれ早かれ、大樹になるから

そのために人を食べて、養分にする定めだったから

蓮煉、いや、僕の中にある大樹の種は、きっと僕が生きながらえるだけ、もっともっと、沢山の人を食べるだろう

そして連泉が、さらに罪を重ねてしまうのだろう


だから、春さんには、僕たちを止めてほしかった

ごめんね。勝手な僕を、春さんも憎んでね

春さんを巻き込んでしまったけれど、僕は本当に、春さんのことを……いや、こんなことを言うのは、春さんをますます縛り付けてしまうね


連泉がこれ以上、苦しい生を送らなくて済むように、僕の勝手で、連泉を宮から出します

そのとき、春さんもついていってほしいんだ

ふたりで、この世界を、僕のぶんまで……

本当に勝手な僕を、お許しください

連香


「……これは?」

 連泉に無理やり連れてこられた、双子の部屋で、連泉から手渡された文を読んで、春は呆然と連泉に訊ねる。連泉は座りこんだ春の目の前に片膝を立てて座り、「連香からの手紙だ。お前宛のものだよ」

 春の頬を、涙が滑り落ちる。「連泉様は、すべて知っているんですよね? この手紙の内容も……連香様のことも……」

「知っている」

「私は……いまだによくわからなくて……」

 そう俯いて泣く春に、連泉はぽつりぽつりと静かに語る。

 ――曰く、連香はその身に大樹の、あの蓮の花の種を宿していて、その花を咲かすために、養分として人を食らう定めだったと。

 ――それを連香は仕方ないことだと理解していて、しかし、そんな自分のことをひどく嫌っていた。

 ――自分は罪に塗れているのだから、いつか自分が花に飲まれて死ぬことすら、それで良いのだと言っていたのだ。

 ――連香と連泉の目的は、蓮煉を殺すことで、そうするためには、春を巻き込んででも、隙をつくらなければならなかった。だからこそ、連香と連泉は、あたかも春を蓮煉の贄にするかのように振舞っていたのだという。

「この宮は、蓮煉の為に在る。あの蓮の化け物を、生かすために尊殿宮は作られた。俺が彼の双子として生を受けたのも、彼に生贄を準備するためだ。蔦を操る能力を持った、俺も化け物だ。勿論、連香もな。あいつには何の力もなかったが、あいつもその身に蓮煉という化け物を宿す、化け物だった」

「……連香様は、人です」

 春の空ろな言葉に、連泉は知らず畳に落としていた視線を、春に向ける。連泉の翡翠の瞳を見て、連香と同じだ、と春は一筋の涙を流した。彼女は続ける。「貴方だって、人でしょう」

「お前がそう思いたいなら」

 そう言って、連泉が微笑んだのを最後に、春は顔を伏せ大声で泣いた。涙が、声が枯れるほどに泣いても、春はずっと泣き続けた。

 その傍に、連泉はずっと座っていて、その姿すら連香と重なって見え、春は心が引き裂かれるようだった。

「春。連香は、本気でお前を好きだった。だからこんな遺書を残したんだ。連香は、今まで、女に興味を持つことはあっても、お前ほどに執着した女性は、ただ一人もいなかったんだ。こんなことを言っても仕方がないけれどな」

 連泉の言葉に、春は顔を上げる。涙で濡れた瞳をまっすぐ見て、連泉は悲しげに笑った。

「俺たちのことに、巻き込んでしまって、本当にすまなかった。……でも、そうでもしないと、お前を護れなかったのも、本当なんだ。連香がお前を本気で好きだったから、俺も主人を――蓮煉を裏切ることを選んだ」

 連泉の声はとても静かだったが、その奥に、連香を失ったことへの寂しさと悲しみが含まれている。双子として生を受け、生まれてからずっと傍にいた唯一無二の片割れを失くすということが、一体どういうことなのか。

「……後悔、しないのですか?」

 春が訊ねると、連泉は目を細めた。彼が春に対して、こんなにも優しい表情と声で話したことは、いままで一度もなかった。「していない。俺は、連香を開放してやれたことに、満足している」

 ――こんな風になって初めて、やっと彼とこんな風に話すことができるなんて……。

 それでも、「満足している」というのは、半分が本当で、もう半分が嘘であることを、春も見抜いている。彼の瞳に浮かぶ感情は、満足という言葉はあまりにそぐわない。もっと薄暗くて、もっと、それこそ――「後悔している」ように、春には見えた。

 しかし、それを指摘したところで、なにも変わりはしない。連香を失ったということは、春だけでなく、この片割れにも、深い傷跡を残したのだ。

「……春になったら、旅に出ましょう、連泉様。私と一緒に、宮の外を見ませんか」

 春は、連泉にそう言って微笑んだ。連泉も白い歯を見せる。「ああ」

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