第八章 蓮と人


 「今日は主様の晴れの日ですね」と貴人が言っているのを隣できき、春は瞬きをする。「晴れの日?」と春はその言葉を飲み込めず、主が一瞬強張った顔をしたことに、春は微かに違和感を覚えていた。

 「ありがとう」といつものようににこやかに返し、主は春と東のほうを振り向いて「いこう」と促した。春は頷き、違和感を振り払って、この一年と少しという宮での生活のなかでも、初めて足を踏み入れるその室へと向かった。

 東と主が、春になにも伝えないまま、なにかの準備をしているのは、春もなんとなく察していた。それがなにか重要なことなのは解っていても、それを春が訊ねなかったのは、主にとって春は、東ほどの信頼を得ていないのだろう、と漠然と思っていたからだ。

 とはいっても、勿論春は、主に全く信頼されていないとは微塵も思ってはいない。それでも東と主が過ごしてきた年月と、春が主と過ごした年月は雲泥の差で、だからこそ、それを春も分かっていたつもりだった。信頼の差が幾ほどあっても、主にとって春はどうだって良い存在である、ということはないのだと、春も自負していたのだ。

 ――それは正しくそうであったのだが、春に一つ間違えがあったとすれば、なにをしているのか詳しく訊ねなかったことであった。

 しかしそれをしていても、結果は変わらず、いや、もっとすべてが失われていたかもしれない。

 果たしてその室にたどり着き、春はその他の部屋とほとんど変わらない蓮派らしい豪奢な扉を仰ぎ見た。――蓮派の中に主や東と共に入ったのは、そういえば初めてではないか、と春はそれに気が付いて、不思議な心持がした。

 この間の主の二十歳の式典は、蓮でも人でもない場所で行われたのだ。だからまさしく春が主に連れ立たれ蓮に入ったのは初めてで、そしてそれが主との最後になった。

 室には、主だけが通され、春と東は扉の前に残される形になった。主は室に入る前、東を見、次に春を見て微笑んだ。「東、春を頼んだからね」と主が東に告げた言葉に、春は首を傾げる。

「なにが聴こえても、なにが起きても、お二方は此処に居られますよう。これは大切な儀式なのです」

 どこからかやってきた蓮の侍女が、東と春にそう厳かに伝えた。東はなにも反応せず扉を見つめており、春はよくわからないまま頷いた。


 室に入って、室内の薄暗さに目が慣れてくると、主はその奥に誰かいることを認めた。この部屋に誰もいないのであれば、自分が此処にきた意味がなくなるが、主は人がいることにうすら寒さを覚える。

 ――いくら覚悟をしたといっても、こういうときはこういう気持ちになるものなのだろうな、と主はひとり、自分を嗤う。奥からこちらにやってくる人物に、主は首を傾げるような仕草をして、そして朗らかに言った。

「蓮と人とは、数奇なものだね」

 「僕は」と、なにも語ろうとしない相手に向かって、主は続ける。「こうなることを知っていながら、この宮に十年繋がれてきた」

 「――華麗に散ろうか。それが僕の願いなんだ」、と主は笑う。奥の人物は、その言葉に口元をおさえ、喉を鳴らして笑った。彼がたまにつけている耳飾りがちりちりと揺れる。

「安心しろ。あいつが世話になったお前を、痛めつけることはしない」

 そう呟いて目を細めた、見知った彼の袖口でうごめくものを、主はじっと見つめていた。

 「連泉」と主は彼を呼ぶ。彼はぴたりと動きを止めた。それが彼の名の答えで、主は薄っすら目を細める。「春が世話になったね」

「あの子は、脆い子だ。でも、生きていかなければならない子だ」

 「だから、これからも、よろしく頼むね」と主は微笑む。謳うような声を、連泉はどう聞いているのだろう。薄暗闇の向こうで、連泉――この部屋の主の片割れが、片腕をそっと上げる。袖口でうごめくものが、主に這い寄ってくる。

 「最期に、大樹を見たかったな」と主はぼんやり思う。頸を絞められ苦しくて恐ろしいはずなのに、主は、この宮にくれば見られるのだと、幼いとき父に言われた大樹のことを、走馬灯のように思い出していた。

 ――尊殿宮に入れば、この世を護る大樹が見られる。

 ――だから、頑張って務めを果たすんだ。

 「でも、父さん」と主は思う。涙が流れたのは、苦しいからだ。「でも、大樹は結局見られなかったよ。僕は無残に死ぬみたいだ」と考えても、それに大した感慨もない。

 懐かしい、温かな記憶に、妹の姿も見える。青い髪をした、美しい妹は、それなりに自分にもなついていたように思う。自分がこの宮の「主」になったからこそ、妹もその恩恵のように尼寺の長になったのだ。

 その妹が大事にしていた曙という少女を、自分の侍女に据えたのは、妹の代わりのようなものだったのだと、やっと主は気が付く。

 ――心残りがあるとすれば、なんだろう。

 一瞬の、最期の時が、永遠のように長く感じる。連泉は主を虐げて殺そうとはしておらず、だから本当に、この長い時は「一瞬」なのだろうなと主は冷静に考えている。

 「春……」と主は最期に彼女を呼ぶ。遠慮がちに笑う春と、不愛想に自分の横に立つ東の姿を思い出していた。「ごめんね」と、声の出ない唇が、小さく震えた。


 がたんと大きな音が、扉の向こうからきこえた途端に、春の心臓が大きく鳴った。突如、大きな不安が春を襲う。「東さん」と東を呼べば、東は目を固く瞑り扉に寄り掛かっていた。片手は刀の鯉口を切っており、力が入っているのか、その手にいつもより筋が浮きだっている。

「主様は、中でなにをされているのでしょう」

 訊ねる春の声は震えていて、東はその声に意識を戻されたかのように、ぼうっと春を見た。黒い瞳に浮かぶものに、春はますます不安を駆り立てられる。見たことがないほどに、東の瞳は暗く濁っていた。

 再び部屋の中から、なにかが倒れた重たい音がした。春が咄嗟に「主様ではないか」と扉に駆け寄ろうと一歩出ると、東が手を伸ばして春を止める。「よせ」

「東さん、なにか……なにかおかしいです……!」

「お前の出る幕はない」

 「これは、儀式だ」と東は呟く。その言葉が、東自身に言い聞かせているようだと、春が思ったのは何故だろう。


 からん、と、力を失くした主の腕から、美しい細工の腕輪が落ちる。食べやすいように無残に千切ったため、腕輪には赤い血がついていた。壁一面、床一面に飛び散った血を見上げて、連泉は血飛沫のとんだ頬をこする。

 「出来上がりましたよ」と連泉が、主の亡骸を、主の着ていた服で包んで奥へ進めば、奥に座って一部始終を見ていたらしい、連泉と同じ姿の少年が手を叩いていた。「うん、良い最期だったね」

「僕のための式典に、よくきてくれたねって、お礼を言おうと思っていたんだけど……」

 彼の言葉に、連泉は耳を傾けるだけで返事をせず、彼の足元に亡骸を置いた。彼はその服を剥がして中身を取り出すと、薄暗い部屋に差す、外からの一筋の光に、紅い眼球を透かして見た。「二十歳の誕生式典……うん、人派の考えそうな名目だ」

「品評会のほうが良いって、僕は前から言っているのだけれど」

 そう呟いて、彼はその目玉を飴玉のように口に含んだ。


 それから半刻ほどして、室内がしんと静まり返った頃、「お入りください」と扉の横にいた蓮の侍女が東と春に告げた。東が頷き扉を開けた横で、春は室内に視線を滑らせる。そこには誰もおらず、しかしその壁や床一面に、赤黒い血痕が残されていた。無言で室内に入る東に、春は着いていきたいのに、春の足が震えてしまって、いうことをきかない。

 「あ、ずまさ」と震える声で、春は室内を見渡した。大量の赤い血の跡、誰もいない部屋……

 東は床で光るなにかを手に取り、「春。いくぞ」と春のもとにゆっくり戻ってきて、春の背を軽く押した。その指先が震えていることに、春は気が付くことができなかった。

 東とふたりで歩くことなど、いままでほとんどなかった春は、「東さん」と前を歩く東をか細い声で呼んだ。東が振り向く。

「主様は……どこへ……」

 春の問いに、答える代わりに東は春に、なにかを握っている手を伸ばした。春が目を瞬くと、東はその手の中のものを開いてみせる。

 「あ」と春は小さく悲鳴に似た声を上げる。口元を押さえ――春が漠然と抱いていた不安と予感が、形になったことを、彼女は知った。

 「それは、お前が持っていろ」と呟いた東の手から、春はそれを受け取る。

 それは、血痕がついた、主がよく身につけていたはずの腕輪だった。


 なにが起こっているのか、よくわからないままでも、春はこの宮に主がいなくなったことを感じ始めていた。春が腕輪の血を見ている間に、主の部屋の荷物は綺麗に片づけられ、東すら部屋に籠りきりになっていた。

 この宮に、「主」という二十歳になったばかりの青年など、最初からいなかったかのように、この宮にも、新たな人派の主だとかいう、十になったばかりの見目麗しい少年がやってきた。

 その少年の傍付きにはたくさんの侍女や衛士があてがわれているという。その姿を部屋の窓から見るたび、春は不思議な気持ちになるのだ。

 ――主様は、どこに行ってしまったのだろう?

 春は腕輪の血痕を指でなぞりながら、そんなことをぼんやり思う。もしかして、と春は、新たな主だとかいう少年の後ろに、笑いながら主が付き添っているのではと、窓から身を乗り出したこともあった。

 新たな主は、黒い短髪の少年で、その目は紅い。その赤さが主のもののようで、春は、この宮があの赤い目の者を、好んで人派の主として飾っていることを知った。

「春さん」

 春が部屋に籠って数週間経ち、懐かしい声がいつものように春を部屋の外から呼んだ。春は膝を抱いた格好のまま、その声が通り過ぎるのを待っている。

「春さん……」

 こん、と連香が、室の外から春を呼び、戸を遠慮がちに叩いているのだ。「春さん。開けて良い?」

 連香は、主がいなくなり、春が自室にこもるようになって一週間過ぎたころから、足繁く春の部屋に通うようになっていた。

 いつもこうやって、部屋の外から春に優しく呼びかけるのだ。しかし春は、彼女が見る夢のせいで彼を受け入れられず、その鈴の音すら畏れていた。

 春が無言のままでいるのに、しびれを切らしたのか、連香は今日、いつもと違って、意を決したように言う。「開けるよ」

 ――ちりん、と鈴が鳴る。

「春さん。ご飯は食べられている?ちゃんと寝ている?」

「連香様」

 春は視線を上げ、自分のもとに寄ってきて膝をついた連香を見る。彼の鈴の音に、春は頭が痛くなる。

 ――それもこれも、あの夢のせい……。

「主様が、いらっしゃらないのです。いつの間にか、他の主がきて……主様は、どこに行かれたのでしょう。私を置いていってしまうような、方ではないのに」

 春の空ろな言葉に、連香は顔を強張らせる。「春さん」

「私を置いていってしまったのでしょうか。もしかして、東さんも部屋にいるのではなく、宮を出てしまったのでは」

「春さん」

 稍々迷うような素振を見せたあと、連香がそっと春に言う。「わかって、いるんだよね?」

 連香の指が、主の指輪の血痕をなぞる。それを見て、春は連香の翡翠の瞳に視線を合わせた。じっと目を見詰め、それから――春の目に、みるみる涙が溜まっていく。

 ――主様、と呼ぶと、彼はいつも目を優しく細めて、そっと笑って振り向いてくれた。

 「わかっています」と春は呟く。連香は跪いて春の肩に手を置いた格好のまま、身じろぎせずに春を見ている。春は俯き、抱いた膝を崩した。「わかってるんです」という春の声は、ひどくうつろだ。「主様は、生きていますよね?」

 春の問いかけに、連香は彼女を呼ぶことしかできない。「春さん」

「生きていますよね」

 そう言って、泣きながら笑う春の体を、連香は胸に引き寄せる。

「仕方がなかったんだよ」

 「春さんはなにも悪くない。なにも悪くないよ」と、連香は言い聞かせるように春に言う。

 連香の鈴の音をどれほど嫌悪しても、結局春は、いつも癒されてしまうのだ。彼が動くたび聴こえるその音に、ぼろぼろと涙がこぼれて、春は鼻を啜った。

 耳を覆ってしまっても、いつまでも鈴の音は付いてくる。

 主の死ぬ瞬間の夢を、春はもう幾度も見た。腕輪が赤く染まる瞬間を見たわけでもないのに、夢は日々形を変えて、主を幾度も、幾度も殺す。どうしてなのか、その夢にはいつも、連香の鈴の音が付いて回っていた。

 頭が鈍く痛む。泣きすぎて腫れてしまっているだろう春の目も、奥から重たく痛みを宿していた。


 ――こんこんと雪が降る、酷く寒い日だった。

 指先がかじかみ、春はふと窓の外を見る。外は吹雪になっていて、「連香様は今日、こられなさそうだ」とぼんやり春は考えていた。宮が静かなのは、いつも噂に興じている貴族ですら、皆部屋に籠るために、侍女たちが行きかうのすらまばらになるからだ。

 春が、腕輪の黒く変色した血に触れているときだった。にわかに部屋の外が騒がしいことに気が付き、春はそっと窓を開けた。向かいの廊下からの喧騒であるそれは、侍女たちが慌ただしく走り回っている音だった。その声に耳を傾けるうちに、春は見知った名をきいた。「東様が――」

 東、という名をきいて、春は反射で立ち上がる。東さんが――東さんがどうしたというのだろう?

 彼の名を叫ぶ侍女たちなど、春は一度も見たことがない。しかも沢山の侍女たちや、中には医官もいるようで、春は嫌な予感を覚え、慌てて自室を飛び出した。裸足のままで、部屋の中でも凍えていたのに、廊下――外はもっと寒い。足がじんと痛むほど冷たい床を、東の部屋に向かって走っていく。

 肩で息をしながら春が東の自室にたどり着くと、その春の姿を見た医官の一人が、春を、なにも言わずに室に入れてくれた。春は室の中の光景に、心臓が一瞬止まったような気さえするほどに驚いた。

「あ、ずまさ……」

 壁と床には血飛沫が飛び、東の腹が裂けている。中にいた医官は春の姿に立ち上がり、「自害なされたようです」と、冷酷に告げた。

 震える足で東の遺体へと寄り、春は膝をつく。彼は目を固く瞑っており、正座した格好で頭を伏せていた。「東さん」と春は呼ぶ。「冗談だ」とでも言って、顔を上げてくれないかと、場違いな考えが春の脳裏をかすめたが、彼がそんなことをする人物ではないことは、いまの宮ではきっと、春が一番よく知っている。

 春の絶叫が、静かな宮に響き渡る。野次馬の侍女たちや、医官たちも、咽び泣く春を、東から引きはがそうとはしなかった。


 東の遺体は、宮の外に土葬となった。二日後にやってきた、彼の妹と名乗る少女と共に、東の体は宮を出た。彼の妹はあやという名の美しい少女で、その色の白さと立派な黒髪が、あまりにも東によく似ていた。

 東が絢に一通も返事の手紙を出さなかったという話は真であったらしく、絢は、東の同僚であった春のことや、彼がこうなった理由でもある主を知らないようだった。

 ――東が自殺を選んだ理由は、主の死の後追いだろう、と宮の全員が知っており、また春も、そうだろうと思っている。

 東は遺書のひとつも残してはおらず、ただ生活するための最低限以外なにもない殺風景な東の自室に、主を護るために腰に帯びていた二本の刀だけが転がっており、そしてその刀の一本で自身を斬ったようだった。

「兄がお世話になりました」

 絢は気丈な娘で、春にそういって頭を下げ、東を連れて宮をでるまで、一度も恨み言や、涙すらも見せなかった。

 ――この宮は、まさしく獄であり、牢である。

 ――私も、この宮で骨を埋めるのだろうか?

 東が言っていたとおりに、東はこの宮で死んだ。しかし、ひとつだけ違ったのは、彼の遺体は宮の外に、死んで初めて外に出ることを許されたということだ。彼の妹との再会を、彼は死して、やっと……。

 「お前は、この宮で骨を埋めずに済めば良いな」と呟いた、東の声が耳元で再び聴こえた気がした。「でも、東さん」と春は思う。

 私もきっと、貴方のようになるのだろう。主様も、貴方もいなくなった宮で、私はどうやって生きれば良いのだろう。

 春は覚束ない足で、やっと自室に帰ると、そこで散々に泣いた。気分が悪くなるほどに泣いて、頭が痛くなった頃に、春はそのまま眠っていたようだった。夜半の刻になって、誰かが戸を叩いている。

 連香様だろうか、と思ったのは、なぜだろう。

 春はだからこそ、その戸を叩く者に、「はい」と返事をした。戸を叩く人物は、いつもの優しい声で春に声をかける。「春さん」

 春は重たい体を引きずって、戸に近づく。春が開けようとした気配を察して、彼は「いいんだ。春さんはそのまま、そこにいて」と言った。連香は戸の向こうに背をつけて座っているらしく、春は内側から戸に手のひらをつけて、「連香様?」と彼を呼んだ。

「ごめんね、こんなに遅くに。彼のこと、僕、今、きいて、慌てて春さんのところにきてしまって」

 「いえ」と春は連香の謝罪のような、言い訳の言葉に首を振る。彼が黙すると、場はしんと静まって、春は何度も戸を開こうと思ったのに、なぜかそれをしてはいけない気がしていた。

 連香が、数分の間のあと、静かに言う。「ごめんね。春さん」

「僕と一緒に消えてしまおうか」

 連香の声は、真剣であり、そしてどこか儚く消えてしまいそうな、それこそ、この声こそが春の夢なのではないかと思うようなものだった。だからこそ、春は返答ができずに、「え?」と戸惑ってしまう。

「なんでもない」

 「おやすみ、ちゃんと寝ないとだめだからね」と笑い声を落として、彼は鈴を鳴らしながら去っていく。後に残された春は、どうして自分が戸を開くことができなかったのか、その理由が分かる気がしていた。


「先の主はどうして消えたの?」

 蹴鞠をしていた当代の主が、春のもとに駆け寄って訊ねる。春はちょうど彼のいる庭が見える、縁側に腰を下ろしていたのだった。「侍女様の桃色の髪を珍しがっているのよ」とほかの侍女が言っているのを、遠くにいるような心持でききながら、春は緩やかにいまの主に視線を合わせる。「さあ……私にはわかりません」

 「春という名は、先代がつけたのでしょう? 春は先代の侍女ではなかったの」と彼は無垢な調子で訊ねる。春は引きつる顔で微笑んだ。

「主様は、以前はなんというお名前だったのですか?」

「僕?」

 春に唐突な質問をされて、今の主のほうが戸惑ったようだった。しかし彼はぱっと花のように笑う。黒い髪が風になびき、赤い瞳が細く弧を描いていた。「僕は、律と呼ばれていた」

「律様」

「そう。律様。でも、内緒だからね? ここでは、その名はもう捨てるよう言われているんだ」

 「律様」と春は口の中で再度呟いて、そして笑った。その名の響きの美しさにつられたのだろうか、荒れ果てた心が、やっと水を与えられたかのように感じられる。

 ――しかし、きっと彼も、十年後には主様のようになるのだろう。

 ――主様。貴方の本当のお名前は、なんだったのですか?

 「私はそんなことすら、知らない」と思った瞬間に、春の心はぽきりと音を立てて折れてしまう。涙が次から次に落ちていき、目の前の律が驚いた顔をした。「春?」と訊ねる彼が肩に乗せた手を振り払えないまま、春は顔を覆って泣いた。

 青空が眩しい、雪晴れの日のことだった。


 春が主の死の真相を訊いたのは、それから数日あとのことだった。

 律が春の元にくるたび、彼が少しずつ、「春にだけ」と言って教えてくれたのだ。子どもである彼は彼らしい考えで、なにも知らずにただ主を失った春を憐れんでいたらしい。

 ――曰く、主はこの宮の贄になったのだと。

 ――そのために、人派の主は十で宮入りして、二十でその役目を終える。

 「だから、僕も十年後に死ぬんだ」と言って、律は顔を強張らせる。春が「怖いですか」と無粋な問いをしても、律は生真面目に頷いた。

「死が怖くない人なんていない。でも、いつかは死ぬんだよね、みんな」

 「それならちょっと安心だ。だって、僕だけではないんだから。僕はその分、この宮で鮮やかに咲くよ」と律は笑う。強い子だな、と春も微笑んだ。

 ――この宮で、鮮やかに……

「春さん」

 連香の声を久方ぶりに聴いて、春はそちらを振り向いた。連香は律と話している春の背を見ていたらしく、遠慮がちに寄ってくる。律は蓮の頂点である連香に、すこし緊張しているらしく、強張った表情で連香に頭を下げた。「主。初めて会うね」と連香がにこやかに言う。

 そんな連香と、親しく視線を交わした春の様子を、疑問に思ったらしく、「蓮の双子だよね? 春、蓮の者と親しいの?」と素直に律は春に訊ねる。春は頷いた。「はい。連香様は……」

「主、春をよろしく頼むね」

「勿論。僕の一番親しい友達が、春なんだから」

 律の返事が、なんとなしに連香には面白いものであったらしい。「それは、それは、心強い」と軽やかな声で笑って、連香は「春さん」と今度は春に声をかけた。「夏島に会いにおいで。最近、あいつが寂しがっているから」

 そういって、遠慮がちに連香は微笑む。春も微笑んだ。それが、春にとって、久方ぶりの心からの笑みのような気がした。

 「やはり私は、連香様がいないとだめなんだ」と春は心底思う。それはもう依存のようにすらなっていて、春をそこまで弱くさせたのは、主や東の死に他ならなかった。

 だからこそ、連香もそれを受け止めるのだ。春が心を壊してしまったのなら、今だけでも自分が支えなければと、連香は春を思うが故にそう感じていた。


「鈴の音……」

 連香と春が立ち去ったあと、律は呟いた。その言葉に、春ではない別の、律の侍女が近寄り、律に耳打ちする。「あれは美しいだけの、物の怪の音ですよ。命の音というのです、主様。彼に近寄ってはなりません」

「どうして? だって、春は……」

 律が侍女の言葉にそう問い返すと、侍女は嗤う。「侍女様は、自分が物の怪の傍にいるのだということを知らないのです。ですから主様も、あの侍女様に近づくのはまだしも、あの横の物の怪には近づかないようになさってください」

「ねえ、もしかして、彼が先代を食べたの?」

 律の問いに、侍女は戸惑っているように稍々間を置いて、小さな声で呟いた。「我らはみな、彼の贄なのです」

「彼の贄……」

「この宮は、物の怪の温床なのです」

 その言葉に、律は連香の背を見る。ちりんちりんと、彼が近寄ると鳴っていた音を、春はなんと思っているのだろう。

 ――彼が、春の主を食べたと知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。

 「それだけは、絶対に伝えてはならないのだろうな」と、律は幼いなりに考える。

 春が、彼に信頼を置いているのは、はたから一度見ただけでも充分にわかることで、先代の主やその衛士を亡くしたばかりの彼女の傍にいる者が、一体何であるのかなど、知らせただけで彼女はきっと壊れてしまう。

 それこそ、立ち直ることができないほどに。

「物の怪の宮……」

 ――尊殿宮は、怪異の宮。

 春のいたところで、きらりとなにかが光った。なんだろうと律はそれを拾い上げる。それは黒いなにかがついた、そうでなければとても美しいであろう腕輪であり、「春のものだろうか」と律は思う。

 律の黒髪を、爽やかな風が撫でていく。それすらなにか薄ら寒く思えて、律は足早に腕輪を春の部屋に届け、自分も自室に戻った。

 ぞわぞわと背筋を這う悪寒は、侍女たちの笑い声のせいか、それとも。

 ――この宮は、まさしく地獄だ。

 律は、東という元衛士と、一度だけ会ったことがあった。それは彼が死ぬ直前で、律と会って話したあとに彼は自害した。

 そのときに、彼は「この宮は地獄だ」と言っていたのだ。その意味を律は知らずにいたのだが、いまになってやっと、その意味を理解できるような気がしていた。

 それでも律は、この宮で、できることなら花のように咲いていたいと思う。それこそが律の強さで、律の過ちであったとしても。

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