第七章 二十歳
1
「主様。こちらの衣装とこちら、どちらにしますか?」
春はそう主に問いかけ、畳の上に錦の布を引いて、艶やかな衣装を広げていた。その衣装たちを見下ろしながら、主は考え込んでいる。「どうしようか、ううん、やっぱり気が乗らないね」
「主様、こればかりは仕方がありません。今回は、主様の二十歳の誕生式典なんですから」
「そう、うん、そうなんだけれどね……」
――主の誕生日が目前に迫り、人派は些か、浮足立っていた。
二十歳の誕生式典というのは、春の言う通り、主のための式典であり、十年に一度――人派の主は十歳で宮入りするため、十年に一度という周期で行われるのだ――蓮と人が対立をやめて一所に集まるという催しだった。
それは、蓮にとっても大きなイベントであるらしく、蓮のほうもわずかばかりだが賑やかになっていて、連香と連泉の二人も式典にくることになっているらしかった。
春はそのため、ここ数日もまた、連香と会う時間がなかなか取れずにいた。しかし、気にしていられないほどに、春も連香も、式典の準備に忙しくしているのだった。
春はこっそり、式典に黒髪の鬘を用意している。一人で廊下を歩いていたときに、貴人の一人に桃色の髪を隠せと言われたからだ。
貴人たちは春の髪色のことを、いままでずっと無視してきたのに、ただ春を困惑させるために、突然難癖をつけたらしく、春もそれが、自分を困らせるためだけの幼稚な発言であるだけだと知っていても、貴人たちの言い分を無視するわけにもいかず、渋々黒髪を準備したのだった。
主と東が「どうして黒髪の鬘を?」と春に訊いても、春は苦笑を浮かべるだけでなにも答えない。そのため、春がそれをつけるのは、主も、彼女が式典に相応しく洒落込むためであると考えているようだった。
夕刻に、自室に戻った春は、その黒い髪を見て深いため息を吐いた。自分の桃色の髪は、恥ずかしいものだったのだろうか。あの爺たちは、どうしてこんなに自分に厳しいのだろう、と考えれば、連香と仲の良い自分が疎ましいのだろう、という考えに落ち着くのだ。
――しかし、だから離れる、というのは、違う、と春は今ならば思う。
自分はそうして、何度も連香と離れようとした。自分の立場が悪くなることを恐れてなのに、幾度も連香に「貴方の立場が悪くなる」と言った。それでも春と離れないと彼が言ってくれたからこそ、春はやっと、彼を信じられるようになったのだった。
連香に対して、自分ができることは何だろう、と春はいつも思っている。しかし春は、いつだってその答えが分からないでいた。
――それにしても、式典の日、私は誰に着付けの手伝いを頼めばいいのだろう……。
春が思い当たる人物など、東くらいしかいないが、春が彼に頼んでも、返事は「嫌だ」だと分かり切っている。人派の侍女に知り合いはいても仲が良いものがいない、蓮に頼むなんてできるはずもないという春にとって、その悩みはここ数日、ずっと春を苦しめていた。
やはり、自分でやるしかないのだろうかと思う。しかし。
――私の化粧では、あまりにも……。
常であればどうでも良いと一蹴できるようなものなのに、春がそう悩むのは、「髪色をどうにかしろ」なんて突拍子のないことを言うくらいのあの貴人たちのこと、いつもの化粧ではなにを言われるか分かったものではない、というのが理由だった。
春としてみれば仕方のないことではあるが、その仕方のないことである桃色の髪だって難癖をつけた爺たちだ。春が杞憂するのも何ともしようがない。
――東さんに、化粧だけでも頼んでみようか。
着付けまで頼むのはさすがにできないが、化粧だけでもと春が思ったのは、主のもとに春が侍るようになるまでは、東が主の身の回りの世話をしていたと聞いているからだった。主は春と違い男性だが、その髪結いや着付けをしていた東ならば、と春は一縷の希望にかけたのだった。
「あの……東さん」と春が東に話しかけると、東はいつも通りの無表情でこちらを見る。「なんだ」とだけ短く返した彼に、春は恐る恐る、「あの、お頼みしたいことがあるのです」
「珍しいね、春が東に頼み事なんて」と主が笑う。春はどぎまぎとしながら、「……あの、式典の日用の化粧の仕方とか……ご教授いただけませんか」
「化粧?」
――やはり、男性にこんなことを頼むのは……。
鋭く返した東の声に、春は怯む。しかし東は主をちらと見て、意外にも小さく頷いた。「まあ、良い。妹にやっていたのと同じで良いんだな?」
東の意外な言葉に、春は目を丸くする。口からでたのは、まず思った疑問だった。「――妹?」
「昔の話だ」
「東には、妹がいるんだよ。僕と同じでね」
「主様にも、いらっしゃるのですか?」と春が訊ねると、主はくすりと笑った。「春もよく知っていると思う。だから君はここにきたんだ」
その言葉の意味を、春が分からずにいるままではあったが、東が――意図的にかもしれない――話を変えてしまう。「化粧をしてやれば良いんだろう。まともな出来を期待するなよ」
「は……はい! お願いします」
はっと我に返り、春は東に深々と頭を下げる。鼻から息をひとつ吐いた東を、主が朗らかに笑っていた。
2
「東さん、その、この間のお話しなのですが」
春が口火を切ると、東は「なんだ」といつも通りぶっきらぼうに答えた。
服を着替えた春は自室に東を呼び、化粧を手伝ってもらっていた。
髪を結うのは自分でやるからと言ったものの、春の言う髪を結う、は鬘をかぶれるようにまとめるくらいのものである。しかし東は男性であるから、春がそれだけでもすると線を引いたのを、当たり前のことだと彼は受け止めているようだった。
春の室にきた東は、まず春の化粧道具を受け取って、白粉やなんやらを取り出した。春に白粉を塗ってやって、目元に朱色を差す。あまり派手すぎないように、とは、春本人が言わずとも、分かっているらしい。
「妹、というのは……妹さんに、お化粧をしてあげていたのですか?」
春の問いに、東はふと考えるような素振を見せた後、「親が他界したからな。妹はまだ幼くて、なにをするにも後ろから付いてきていた」
東の声は低く落ち着いていて、春の耳に心地よく響く。彼がこんなになにかを、それも自分のことを話すのは、春にとっては初めてのことであった。「俺もまあ、可愛がっていたのだろうな。だから宮入りをして、衛士になった。妹にまともな暮らしをさせられるだけの、金が欲しかったんだ」
「それでも、宮入りをしたら最後だったな。入ってからいまになるまで、十数年経ったが、一度もあの家には帰ることができていないし、妹との手紙も途絶えてしまった。……俺が返事を出さなかったのもあるだろうが」
春は、もしかして東も、自分と似ているような境遇だったのだろうかと考えていた。天涯孤独というわけではないけれど、親を亡くし、宮に上がってから、一度も家に帰れず、また宮を出ることすらできていない。
――この宮はまさしく獄であって、牢である。
「お前は、この宮に骨を埋めずに済めば良いな」
「……私も、きっとここで死にます」
春が呟くと、東の手がぴたりと止まる。「できたぞ」
「それならば、一応見栄えはする。お前が気にしているような、主の恥にもなるまい」と言ったあとに、東は付け足す。「爺たちの言葉を気にするのは仕方がないだろうが、そのくだらない鬘をあの双子は何というんだろうな」
その東の言葉に、春が「え」と戸惑っている間に、東は立ち上がり室を出ようとしていた。その背を追って、春は問う。「東さん、貴人に私が言われたこと、その」
東はちらりと春を振り向き、「噂くらい、耳にしている」
「主はご存知ないが」と最後に言って、東は部屋を出て行った。あとに残された春は、やるせないような、寄る辺のない気持ちを持て余してしまった。
式典の当日、春、と主が柔らかな声色で春を呼んだ。春は「はい」と短く答えて主の後ろについて歩き出す。この日のために、とはいえ嫌々用意した黒の鬘が、背中に纏わりついてなんとなしに慣れず、春は何度も髪に触れそうになってはいけないと指を引っ込めていた。
そんな春の様子に気付いていた主が笑う。「春、綺麗になったね」
「あ、ありがとうございます」
吃ってしまい、春は僅かに頬を赤らめた。東がした化粧はそれなりの出来であり、春の服装もいつもより聊か華美なものだった。美しい刺繍が――ちりばめられた、とまではいかずとも――された、絹の鮮やかな服に身を包み、黒い髪を背になびかせる春は、たしかに主の言う通りに美しい。
主も東も、例にもれず式典用の衣装を着ており、特に主は眉目秀麗であるだけあって、人形のように格別美しくなっていた。主の横に侍る東も、先述したように式典用の、凝った彫刻がされている鎧を身につけているため、春はますます、これから行われる式典に緊張してしまう。
腹が痛むくらいに緊張している春は、この式典が夜まで行われるということすら、少しだけ嫌でもあって、しかし逃げ癖のある春がこの催事に出るのは、恩のある主に恥をかかせないように、ということと、もっと単純に、そんな主の祝いの席が、春にとっても嬉しいことであるのに変わりはないからだった。
式が行われているのは、宮の中心、人も蓮も集まりやすい、一際大きな室と庭園だ。主と双子たちは宮の核であるから、室の上座に通されることになっており、東と春も護衛と侍女であるため主の近く、自然双子の傍にも寄ることになる。庭園にはそれぞれの派の貴族たちが集まっており、なかなかない宮での祝い事に、騒がしく浮き足立っていた。
人だけでなく、蓮の貴人たちも集まる室内では、人と蓮で明確に右と左に分かれて座っている貴人たちによって、ひどく静かに感じられる。勿論、中には談笑している者もいるのだけれど、そうやって笑いあっているのも同じ派閥内で、人も蓮も、互いを値踏みしているかのような目線を送りあっていた。
主が上座に通され、春もそのあとをついていく形で、主のすぐ後ろに立つ。その隣に双子たちも隣席していて、真面目な顔をして座っている連香が、自分の傍にも結果的に寄ることになった春をちらりと見た。
春さん、と呼ばなかったのは、連香の気遣いであった。彼は彼なりに、人派の貴人たちの前で親しくするのは、春が嫌がるだろうと思ったらしく、それでも目だけで微笑んで、すぐに連泉のほうを見る。小さくなにか、なんでもないことを連泉と話して、彼は上機嫌に笑っていた。
春が彼から目を逸らし室内を改めて観察すると、冷え切った空気とは違い、室内は一見豪華絢爛に飾られているようだった。室に入ったすぐは、春も極度に緊張していたため、見るだけの余裕がなかったのだ。連香の顔を見てわずかに落ち着きを取り戻し、春は背筋を伸ばした。
鮮やかな内装は、どこか蓮を連想させる。そのせいだろうか、この式典は、もしかして蓮の為のものなのでは、と春は一瞬考えて、いやそんなはずがないと首を振る。「主様の二十歳の式典なのだから」と思っても、それならなぜ主の好みに仕立てていないのだろう。
会が進み夜になり、室から貴人たちがみんな出て行った頃になっても、結局連香は春に話しかけることすらなかった。春も主に許しを貰い、風に当たるため庭園に出て、そこで髪が風に靡いてから、春はやっと自身の黒い鬘を思い出した。これを見られたのだったな、と連香の顔を思い出す。
彼は気が付いただろうか、それはそうだろうなと思うのに、全く何の反応も見せなかった連香へ、羞恥のようなものも少し覚えてしまう。
――めかし込んで自分の髪色を隠すような女を、連香様はどう思っただろう?
春はその髪を梳かし、指に絡まる鬘に嫌気がさした。それでもいまこの場で外すことなど出来はしないし、それをすればますます笑いものになるのではという嫌な想像をしてしまう。
「似合わない格好をして……」
自分で、自分を痛めつけることを呟いてしまう。春は嘆息し、肩に手を置いた。なんだかとても肩が凝ったな、と思うのも、仕方がないことだと春自身でも思う。
そろそろ戻らないと、と主のいる先ほどの室のほうに視線をやろうとしたとき、春の視界にふっと、室とは別の方向へと去っていく連香の後ろ姿が見えた。
3
連香の後を追ってしまったのは、何故なのだろう。予感のようなものがあったのだろうか。
「連香様」
連香が、随分奥まった、人気のないほうへ行き、足を止めたところで、春は彼の名を呼んだ。「春さん?」と連香が驚いた顔でこちらを振り向く。よく見ると彼は珍しく装飾品をつけていて、服もいつもより格段豪華な、しかしいつものような朱色のものだった。ちりんと鈴の音が鳴る。
「どうしたの、疲れたの? こんなところに……」
連香が春の近くに寄ってくる。彼はちょっと照れたように笑って、「春さん。ここ、どこかわかる?」
「夏島の庭ですよね。夏島はもう寝ているのでは」
そう、春も辺りを見渡して問う。夏島の庭、と春に言われて、連香は小首を傾げるような動作をした。春の言う通り、ここは夏島のいる庭で、連香のその動きも、疑問に思ったようなものではなく、はにかむような意味合いだった。「そう、そう……うん」
「ああ、だめだな。お酒なんか飲んだから……」
「なんだか顔が熱い」と連香は笑う。「お酒を?」と春が訊ねると、「うん、祝い事だからね」と彼は頬を染めてうなじを掻いていた。「春さん、少し休んでいかない? 僕、ああいう場はあまり得意じゃなくて」
連香は、何の裏もなくそう言ったようだった。それが彼らしい言葉で、春はつい微笑んでしまう。「はい」と言って、春からも連香の傍に寄った。そういえば、と、春はこんなに辺りが暗くなる時分に、彼と二人で居るのが不思議に思えた。
「春さん、その髪、どうしたの? すごく似合うけど……」
連香が訊ねにくそうに問うと、春ははっと鬘を思い出し苦笑した。「あ、これは」と、言葉を濁してしまう。
「うん。髪が長いのも、すごく似合う。でも、僕は、いつもの春さんの髪の色のほうが好きだな」
連香の屈託ない言葉に、春は目を逸らす。「やっぱり、変ですよね」と返してしまったのは、この髪色を選んだ自分のことが、耻しいからであった。自分から好んでつけたのであれば、こんなに恥ずかしくはなかっただろうと春は思う。しかしこの髪色は――、人派の貴人たちに嫌味を言われて、それで……。
「変じゃないけど、春さんらしくないなって……ごめん、僕こそ失礼なことを」
「失礼なんて……言い訳ですが、貴人たちに言われてしまったのです。私の髪色は恥ずかしいから、蓮に出すなと」
――それは、春が投げられた実際の言葉と、ほとんど違わない言い方であった。貴人に、「お前の髪色は恥ずかしいものだから、蓮に出すな。我らまで笑いものだ」と、春ははっきりそう言われたのだ。だからこそ黒髪を選んだが、しかし、「今更ではないか」、「そんなことで蓮は笑い物になどしない」、「私を嗤いたいのは貴方たちでしょう」と思いながら、それでも傷つき、春はこの場にいたのだった。だからこそ、連香の言葉は、一概には春を辱めるようで、しかし同時に春を肯定しているように、春には感じられた。
「酷いことを……」と連香は呟いて、春に体ごと向き直る。春の黒髪に両手で触れて、そっと髪留めを外し、鬘を取ってしまう。鬘をつけるためにまとめていた春の髪に触れて、「うん」と彼は笑った。
「やっぱり、春さんはそっちのほうが綺麗だよ」
そう言った彼の笑顔に、春は愛しくて悲しくて堪らなくなる。
「――連香様」
だからだろうか。春は気が付くと、彼の名を呼んで、縋るような、心もとない声で呟いていた。「すきです」
連香が、その目を丸くする。春は泣きだしそうになりながら、勢いのまま言い募った。「お慕いしています。何度も私から離れようとした身で、なにを言っているんだと思われるかもしれません。でも、私は……」
春が息を吸い、「私は、貴方を」と言った瞬間、連香は春を強く抱きしめた。ちりんと一際大きく鈴が鳴る。春さん、と春は名を呼ばれると思ったのに、彼は春の名を呼ばずにその唇を奪った。ちりんと鳴って離れていく目を、春は見ていた。薄暗闇に目が慣れて、翡翠色が見える。それに、春は安堵する。「私、連香様の音が好きです。その鈴の音を聴いていると、安心するのです」
春の言葉に、連香の目が細められる。彼が泣いているように見えたのは、ほんの一瞬のことだった。「春さん」
「僕に、春さんをください。……一晩だけ」
そう言って照れたように笑った彼を拒むことなど、春は思いつきもしなかった。
「はい」と春が頷くと、連香は微かに、ふふ、と笑った。あまりにも幸福なその顔に、春は見惚れる。連香は春を再び強く抱きしめて、その額に軽く接吻した。
――後悔しないだろうか、という問いは、春のなかに全く存在しない。しかし連香はいまだなにかを躊躇っているように見えて、それがなぜか春は耐え切れず、連香の胸に顔を埋める。それが春のできる、最大限の意思表示だった。
「春さん」と名を呼ばれるたび、ひどく春の胸は高鳴るのだ。春はやっと、自分の名を好きになれた気がした。曙より、それより以前の自分の名よりも、「春」が一番好きだ、と思う。それを呼ぶのが連香だからこそ、自分がそう思うのだと、春の胸に、痛いほど沁みていた。
連香の鈴の音も、その声も、体温も、なにもかもが好きなのだと。
言いたい言葉がそれでも言えず、何度も飲み込んで、それでも春のその言葉にならないものたちを、連香は敏く感じ取っているようだった。その互いの体温が昂ぶっているのを、連香も、春でさえ、心から嬉しく思う。
それが、最初で最後の一夜だった。
4
――朝だ、と春は思う。彼の腕の中で一晩を過ごし、よく室内を見ると、そこにいつもの双子の服だろう、よく見知ったものがかけられていることに、春はやっと気が付いた。
――もしや、夏島の庭は……。
夏島の庭から、あの夜、縁側になだれ込みそのまま室に入り、一晩を過ごした春は、やっと夏島のいる庭というのが誰の庭であったのかを知った。それはまさしく連香と連泉の庭であって、そこにあった縁側も、その先の室もすべて彼らのものだったのだ。
春が起きたのを知っているかのように、からりと襖が開く。そこから顔をのぞかせたのは双子の片割れで、春の様子を見て鼻から息をひとつ吐き、「風呂はあっちだ。俺たちのものを使うと良い。それとも、連香と二人で入るか?」
「二人?」と鸚鵡返しして、春ははっと、連泉が、彼らしくなく品のない冗句を言ったことに気が付いて頬を真っ赤に染める。「一人で入ります……!」
慌てて服を掴んで着ている途中の春を、起きていたらしい連香がしのび笑っている。「春さん、風呂には連泉に連れて行ってもらってね。そこの戸を開いたらすぐだから」
彼が指さした場所は、室から繋がっている木戸の向こう側であるらしい。春はそそくさと逃げるようにその向こうに消えて、がたがたと忙しなくその鍵をかけているようだった。連香が幸せそうに笑う横で、連泉が呟く。「可哀そうなことを。自分本位だな、お前は」
連泉の言葉に、無言で頷いた連香は、熱から醒めた目を細めた。「本当に、自分にうんざりする。だけど……」
「僕が望んだことだから、後悔はしないよ」
「それが自分本位なんだ。だがな」
しかし連泉は、連香に笑ってみせた。やっと幸せを甘受している片割れへの、最高の賛辞のように。「お前がそうあれて、俺はよかったと思うよ」
連泉の言葉に、連香は目を瞬く。「ありがとう、連泉」と笑い返せば、連泉はまぶしいものを見るかのように目を細めた。
「礼は、春に言え。……そんなものでなく」
連泉が、連香の枕の下に隠してあるそれを、顎で軽く指す。連香は、「それ」を春に渡す日がくることを、日々怯えていた。それでもそんなものを用意したのは、連香が春へできる、最大のものだったからだ。
「言葉で伝えるのなら、声で聴かせられるうちにしろ」
連泉の言葉に、連香は泣きそうな顔をする。それでも彼は、連泉に微笑んでみせた。幸せを感じるために、彼は様々なものを、犠牲にしている。
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