第六章 死と贄
1
「ちょっと聞いたんだけど、蓮派の貴人が失踪したようだね」
主が呟くと、春が「えっ?」と主を見た。主は春のほうを見ずに、ぼんやりした様子で廊下、春の前を歩いている。春の横を歩いていた東が、主に低い声で言った。「……ああ。今日の集まりで言っていましたね」
人派の集まりは、春が連香たち蓮派の双子と親しいことを気味悪がった貴人たちのこともあり、春はあまり室に入らないようになっていた。主は「いいよ、春、入りな」というのだけれど、貴人たちの冷たい視線を怖がる春が、己から入りたがらないというのもあるのだった。
廊下はしんと静まっており、今日は侍女たちも鳴りを潜めている。薄暗い室内は蓮派の明るい、煌々と灯がつけられたそれとは違い、春はそれもいささか苦手だった。春が蓮と人を比べるようになったのは、勿論最近のことだ。よく行き来するようになって初めて見えてきたのは、蓮と人は、その派閥の頭や主たちの趣味によるのか、蓮のほうが一際絢爛で、人のほうがより慎ましやかだということだった。
「蓮派の貴人が、またですか? 今度は一体、どうして」
「それが、理由がわからないらしくて。爺たちは蓮のいつものやつだって、嗤っていたけれど」
「明日は我が身」と、主は呟く。春が主の目を見ると、その紅い目が細くなって、妖しい美しさを湛えていた。東が、珍しく叱るような口調で、「主」と呼べば、主は口元を歪め、「冗談」
――連香様は、大丈夫だろうか……。
連香ならば、今回のこともなにか聞き及んではいるだろう。彼は蓮派の頭であり、蓮の貴人たちを束ねているような存在である。しかし、彼も、主のようにお飾りに近いものであるのかもしれない、というのは、春の頭について回ることのひとつであった。
連香自身が、あまり蓮派の内部について話さないのも、春が連香たちの蓮派内での立場を疑問に思う理由のひとつだ。だが、連香は春に敢えてそういったことを話さないだけなのだということも、春はわかっている。
主と東は、春がそうやって思案に暮れる間も、蓮派の貴人の失踪について話していた。それによれば、その消滅した蓮派の貴人は悪目立ちする性質のものだったらしく、人派の爺たちによると「どこかの幹部に目をつけられて、飛ばされでもしたか、気が狂ったか」という話らしい。
どこかの幹部、と言われて、春は咄嗟に連泉の顔が浮かんだが、すぐに首を振った。彼がそんなことをする理由が春には見当たらないし、あったとしても、それは連香になにかあったときだろう。
――連香様に、なにかあったとき?
春の胸に、また不安が募る。そんなはずはない、と思っても、彼らがこの二、三日、春の前に姿を現さないのも本当だったのだ。それは彼らにしては珍しいことで、しかしときどき、そういう日があるのも事実だった。だから春も、いままで別段気にもしていなかったのだが、こういうことが起こると、途端に心配になってしまう。
「春?」と先行く主と東が春を振り返る。春は我に返り、慌ててふたりの後を追いかけた。
春は連香の身を案じて、休憩になるとすぐに、蓮派へと走った。連香はどこにいるのだろう、といつものことなのに、彼がどこにいるのかわからないことに心の臓が痛む。果たしてその後姿を蓮派の庭園で見かけ、春は走り寄った。「連香様!」
彼が振り向く前に、春は彼の袖を掴む。そのときに、ふと違和感を覚えたが、春はその違和感を振りきった。連香は彼に珍しく、春を振り向かないまま、「春さん?」と名を呼ぶ。
「連香様、大丈夫ですか? お加減が悪いとか……その」
「加減? どうして」
「あ、いえ……、どうしてでしょう。私、その、蓮の貴人がまた消えたときいて、連香様になにかあったのではと……勝手に勘ぐって」
「なにもなかったのですね」と春が袖を掴む指を離し、連香の顔を仰ぐと、春は彼の顔を見て、はっと気が付いた。髪の結い方も、服装も――彼のそれなのに。「れんせ……」
春の口をふさぐように、彼が春の顔を自身の胸に引き寄せる。「春さん」と呼んだ声に、今度は春の背が凍り付いた。恐怖をあおるような声色ではなかったのに、「違う」と気が付いただけで、春はもうすでに、彼の背中を見たときに感じた安堵すら、どこかへ消え去ってしまっていた。
彼――連香の姿を真似た、連泉が春の耳元でささやく。「春。妙な勘ぐりは身を滅ぼす」
春の背に、悪寒が走る。は、と春は浅い呼吸を繰り返していた。「僕はなにもないよ。春さん」と連香の声で連泉は言うと、春を軽く押して胸から引きはがした。
「蓮は危ないから、気を付けた方が良い」
そういって笑った連香が、彼でないことを、春以外の誰も知り得ないことを、春は気が付いてしまった。それを「異様」だと思っても、きっと春がそう触れ回ることなど、「彼ら」が許さない。
「連香様に、なにかあった?……」
春の胸を、焦りのようなものが締め付ける。こんなに胸が騒ぐのは何故だろう。いつもと違うなにかに気が付いても、春ではそれが何への胸騒ぎなのかを知ることはできなかった。
2
「! 連香様」
その日の夜半に、なかなか寝付けず渡り廊下を歩いていたらしい麗佳が、連香の姿を見つけて彼に駆け寄った。しかし連香は確かに一瞬こちらを振り返ったのに、麗佳がいなかったかのように、全く反応を見せず、蓮の者でもあまり寄るものではないと言われる部屋へと入っていった。
麗佳は首を傾げ、そっとそのあとをついていく。
「連香様?」と室の戸を開け、なかを覗き込めば、そこにあったそれに、彼女はぞっと背筋を凍らせた。すぐにそれから目をそらし、辺りを確かめる。中には連香ともうひとり別の人物が居り、それを彼女は当たり前に連泉だろうと結論付ける。「あら、連泉様もいらっしゃるの?」
「麗佳?」と奥の人物が訊ねる。麗佳はそれに、ふと違和感を持った。いま入っていったのが連香なら、中にいたようである奥の人物は連泉のはずで、そう思うのも、彼らの背格好があまりにも似通っていたからだ。事実、奥の人物が発した声も、確かに双子のものだったように思う。
――しかし、それならば、この違和感はなんだろう……?
麗佳は稍々考えて、ああと得心した。連泉であれば、麗佳の名前を憶えているはずがないのだ。彼が連香のことしか興味がないのは傍から見ていてもわかることで、だから当たり前に自分の名前にも興味がないのを仕方ないことだと思っていた。
――ならば、奥にいる人物は……。
その人物をよく見ると、連香のものでも、連泉のものでもない金の服に身を包み、その髪は結われず肩に落ちていた。しかしなぜか、麗佳はそれを連泉というより、連香のようだと思う。だが連香は部屋に今しがた入った側であるはずで、それならば……この、奥の人物は……
「歓迎しようか。贄が向こうからやってきたからね」
そう奥の人物に受けた指図を、連香だと麗佳が思っていた人物があっさり頷いて了承する。「はい」
その声の出し方に、麗佳は、自身が連香だと思っていた人物が誰であるかに気が付いた。なにが起きているのかわからない恐怖で、麗佳の声が震える。「貴方は……連泉様?」
ぞわり、と連香――いや、連泉の袖からなにかが這い出で、麗佳の足を撫でた。「っきゃ」と麗佳が鋭く声を上げると、ぐいと喉元をなにかが絞める。麗佳は苦しさに声を漏らした。「かはっ……!」
連香の服を着た連泉が、麗佳のほうにゆっくり寄ってくる。こつ、こつ、と靴音が鳴るたびに、麗佳は青ざめていった。
「――さて。貴人の娘。気分はどうだ?」
首を圧迫されて声が出ない様子で、麗佳はもがいているのに、連泉はそれが見えていないような態度で、呑気に訊ねた。いや、彼は彼女の現状を知っているからこそ、冷ややかな目で彼女を見下ろしているのだ。
麗佳は膝を折って、屈みこむ。呼吸ができず、視界が暗くなっていく。そのとき、ぱっと首を絞めていたなにかが麗佳の首を離した。
麗佳が激しくせき込むのを見下ろしながら、連泉は、「お前はたしか、連香にも、俺にも身分を弁えない口を聴いていたな。……せっかくだから、最高の誉れで死ぬと良い」
「俺が食ってやろう。いつか、そう望んでいたからな」と囁いて、連泉は微笑んだ。彼が微笑んだのを見たのは、麗佳にとって初めてで、麗佳は、それを畏しいほど美しいと思った。
しかし、それも一瞬で、麗佳はその連泉を鼻で嘲笑う。麗佳にしてみれば、必死に自尊に縋った結果だった。「貴方が私を食べるの? 命の音も鳴らない貴方が」
その言葉に、連泉の片眉がぴくりと跳ねる。「許されないわ。もしかして、……貴方なのかしら、蓮の貴人たちを消していたのは」
「へえ、頭の回転が些かだけ速いようだ。流石貴人の娘。当たらずとも遠からず」と連泉が可笑しくて耐えられない風に笑う。麗佳はその頬に唾を吐き掛けた。
「……良い度胸だな。本当に、己の身分を判っていないようだ」
連泉が頬を袖で拭いている横に、ひょっこりと、奥にいた人物が顔を出した。「ふふ、連泉、やられちゃったねえ」と彼が心底愉快だと哂う。
その彼の顔が、連泉と同じであることに気が付き、麗佳は咄嗟に彼を「連香様」と呼んだ。彼が幼い仕草で首を傾げる。「なあに?」と言った彼を、連泉が一瞬流し見、すぐにその視線は麗佳に移される。「命の音のこと、知ったような口を聴いていたが、あれが何なのか、お前は知っているのか?」
「何とは? 選ばれた音でしょう。選ばれなかった貴方にはない音よ」
「頭の回転が速いと思ったが、やはり愚図は愚図か」
連泉の言葉に、麗佳は反射的に怒りで顔を赤らめる。その麗佳を見ながら、連香だと彼女が呼んだ人物が、口角を上げた。
これ以上は何の意味もない平行線だと思ったのか、麗佳は彼――連香だと麗佳が思う人物――に、決死の思いで懇願する。「連香様、助けて下さ……――」
「お腹すいたな、連泉。やっちゃっていいよ」
麗佳の言葉を無情にも遮り、彼は言う。ちりんと彼から涼やかな音が鳴った。麗佳たち、蓮派の貴人が「命の音」と呼ぶ、連香しか持ち得ない音だ。彼が動くたび、笑うたび、鳴る鈴の音……
ぐったりと身を投げ出した女の体を、連泉が担いで奥へと進む。女の頸を縛ったものは、いまは連泉の裾を踊るように渦巻いている。「見事、見事」ともう一人は手を叩いて嗤っていた。
その彼の様子に、「趣味が悪いな、貴方は」と連泉は眉を寄せた。「そう?」と彼が目を丸くして、幼い表情をする。その顔に、連泉は小さく舌打ちし、女の体を肩から地面に下ろした。
彼はその女に近づいて、目線を合わせるように屈みこむ。鈴の音が鳴った。「うん、贄は美しいほうが良い……」
連泉にとって、彼の言葉はいちいち気に食わない。そんな連泉の様子を知りながら、上機嫌な彼は言う。「そういえば、あの子は君が違うと気が付いたようだね」
「……春ですか」と連泉が顔を背けると、彼は笑い声を零した。連泉が連香の姿を真似ていたところを見つけた、彼女――春は、見事に一瞬顔を見ただけで、連香ではなく連泉であることに気が付いたのだ。
それは簡単なことのようで、蓮の誰もが、簡単には為しえなかったことであった。
「そうそう、春。面白いね、あの子は。今度、此方にも呼んでみよう」
「春を食うのですか?」と連泉が訊ねると、彼は微笑んだ。連泉が麗佳に見せた笑みと同じ、畏しいほど麗しい笑みだった。
3
それから一週間ほど経って、春の前に連香と連泉が現れた。いつもの様子で、主と東もいるところに入っていき、連香が春を借りても良いかと訊ねる。主はいつものように快諾したが、しかし春は、本当に彼は連香なのかと少し疑ってもいた。
「連香様」と、恐る恐る春が小さく呼ぶと、春の声に連香は「うん?」といつもの様子で微笑む。連香が首を傾げた拍子に、ちりん、と鈴の音が鳴った。ああ、これこそ、他の誰にも代えられない、連香の証だ、と春はその音に安心する。
「連香様、お加減は大丈夫ですか?」
「うん? うん、大丈夫だよ。どうかした?」
そう言って、連香は優しく目を細める。その傍で、連泉がくすりと笑った。はてと連香と春が同時に連泉を見る。「いや」と連泉は首を振り、「答えてやれ、連香。こいつはお前の体の具合を相当心配している」
「どうして……ああ、ここ一週間ほど、顔を出せなかったから? ごめんね、春さん。ちょっと忙しかったんだ」
そう言って、連香が春の肩に手をそっと乗せた。春はその体温に、無意識のうちにほっと胸を撫でおろした。「よかった」と笑ったのは、春の心からのことだった。
「今日は、その、夏島を見に行きたいのです」と春が遠慮がちに目を伏せると、連泉が連香より早く反応を示した。
「夏島……あの鳥か? 連香、あれを見せたのか」
なぜか信じられないとでもいう様子を見せた連泉に、春が小首を傾げる。その二人を交互に見て、連香は照れたように笑った。
連香が連泉に顔を寄せ、耳元で呟く。「なにも言わないでね、連泉」
「なんだ? 夏島は誰の庭にいるのか、とかか――」
連泉の言葉を遮り、連香が顔を赤くする。「連泉!」と叱るように彼が呼んでも、連泉にはどこ吹く風であった。「春、今度じっくり連香に訊くと良い」
春は「?」と不思議そうに目を丸くした。
春は、連香と連泉がこの間姿を取り換えていたのは、なにかしらの事情があったのだろうと結論付けていた。連泉が面白半分であんなことをするとは思えないし、そう春が考えるのは自然なことだ。
それでも、春はそれに、違和感もわずかに覚えている。しかしそれを訊ねることは、なぜかできなかった。けれど、それはきっと、無暗になにもかもを訊ねたならば、この心地の良い時間が壊れてしまうことを、春が意識の外で知っていたからだろう。
連香の鈴の音が、彼が動くたび、笑うたびに鳴る。
春はそれを、心地が良い音だと思う。
――蓮はそれを、「命の音」と呼ぶ。しかし春は、その音が何であるのか、麗佳より解っていない上に、その音の名前すらよく知らないでいる。それでも蓮の貴人たちよりも、双子のずっと傍にいることを許されているのだ。
その待遇を幸福だと呼ぶのなら、まさしく春こそこの宮で一番幸を甘受している存在で、そして春はそれを幸福と呼ぶことを、信じて疑わずにいる。それがどれほど不安定なものなのか、春はわかっていないのだ。
蓮へと向かいながら、連香が戯れに、「連泉、いつか春さんに、笛を聴かせてあげて」と言うと、連泉はすぐさま、「お前が琴を弾けばいい」
「僕の琴が下手だと言ったのは連泉なのに」
「あれは誰が聴いても下手だから、安心しろ」
その二人の会話に、春は朗らかに笑う。縁側に差し掛かった時、蓮の豪華な庭園が春の目に入る。「ここは、きれいですね」と春が思ったことをつい呟くと、連香と連泉が春を見た。連香が「そうだね」と微笑み、連泉が何も言わずにそっぽを向く。
ちりん、と鈴の音が、連香の歩く速度で小さく鳴っている。この音を聴いていると、蓮にきた気がするのだ、と春は思う。しかしそれをいま告げるのは、なにかを失いそうな、しかし同時になにか、考えもつかないものを得てしまいそうな気がして、春はそれきり口を閉ざし、前を行く双子の軽口を聴きながら、その雰囲気を、なにひとつ察していない振りをしている。
蓮派の侍女たちの声が、ひそひそと聴こえてくる。それらすべては春のことを噂する声ではなく、春はそれも久方ぶりのことに感じて胸を撫でおろした。この場の雰囲気は好きだ、と春が連香を見ると、連香がその視線を感じ、春のほうを振り返って笑う。「春さん」
「琴と笛、どちらが良い?」
「琴だと答えろ、春。そちらのほうが笑えるぞ」
「連泉!」と連香が頬を膨らませるのを、連泉は隣で笑っている。なぜか今日は、双子たちが一際明るい気がして、春はそれを不自然に思っていた。
――なんだろう。無理に明るく振舞っているような……。
この間の、連泉が連香の格好をしていたあの一件が、春の中で尾を引いているから、そう思うのだろうか……。
連香も連泉も、なにかを春に隠しているような気がしても、それを訊くすべを春は持たない。
夏島が連香の指の上を器用に跳ねるのを見て、春は笑う。連香が夏島を撫でるのを真似して春が夏島を撫でると、夏島は飛んで木々の間に逃げてしまった。連泉が無言で縁側に座り、そんな二人と一匹を眺めている。
「連泉、笛を弾いてよ」と連香が頼んだが、連泉は「いやだ」と即答した。
「減るものじゃないでしょう」
「減る。お前が琴を弾け」
そう連泉に返され、連香は、あっと目を丸くする。「そうか。そうしよう。春さん、待っていて。琴を取ってくる」
「琴がこの部屋にあるのですか?」
「うん、まあね……」
春の問いに、連香は図星のように一瞬固まって、それから頷く。それを見ていた連泉は、耐え切れず噴き出し、「春。この部屋はな」
「連泉」と連泉を呼び、連香が顔を赤らめる。そのふたりを見ながら、春はなにもわからないままに笑みを溢していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます