第五章 恋慕
1
――春さん、と呼ぶと、彼女はいつもこちらを見て、気弱な笑みを浮かべてくれる。
連香はそれを、とても尊いものだと思う。彼の周りの人々はみな、顔には笑みを浮かべていても、その面の下になにが隠れているのかわからない。嘲笑、冷淡、侮蔑――そういったものを欠片も抱いていないような顔をして、連香の周りの貴人たちはいつも、他人を捻りつぶそうとしているのだ。
その捻り潰される側に連香自身が入っていないのは、彼の生まれのおかげであり、だからこそ彼は、春が潰される側に回っていたことがひどく許せなかった。
それでもその彼の感情が、結局彼女が自分から――それが一時であったとはいえ――離れる理由になってしまったのだから、彼はもうその怒りを表に出してはならないと思っている。
春は、美麗だとか艶やかだとかの言葉が似合う女性ではない。
連香の周りにいた女性たちが美しい者ばかりだったから、彼は殊更に春に惹かれたのかもしれない。
可憐なもの、守ってあげたくなるもの……。それが春であって、連香の周りのほかの女性たちは、むしろ彼に、彼女たち自身を守らせようと強要してくるところがあった。彼女たち自身がそう言葉にださなくても、「私を守って」「私の位をあげて」と心の中で思っているのは明白で、でも彼はそれを、当たり前のことだと思っていたのだ。だから、最初は彼も春をそういった女性のひとりだと思っていた。しかし。
春は彼に近づいて、自分を持ち上げようとするより、彼が傷つかないことを第一に思っている節があった。いつも、春は彼が近寄っても、喜ぶどころか申し訳なさそうに微笑んで、そして最終的に離れようとしてしまう。貴方が傷つくのではないかと言って。
その春の行為が、自己防衛であったとしても、連香を護ろうとしていることも事実だと、連香は分かっていた。だからこそ何度でも追いかけて、抱きしめて、縋ってしまうのだ。僕は大丈夫だから、傍にいてほしいと言って。
それが迷惑なのではないか、という不安からか――連香は春が自分から離れていく、数度目の悪夢を見た。
彼女の名を叫んで目が覚める。隣で寝ている連泉が、本当はその連香の様子に目が覚めてしまっているのに、敢えて目を瞑っていることも知っている。「ごめんね、連泉」と連香が呟いた。
「……また春の夢か」
やはり、連泉は起きていたらしい。彼はぱちりと目を開けて、連香のほうを見た。暗闇の中では、その翡翠の瞳の色までは見えない。
「今度はどんな夢を見たんだ」
「いつもどおりだよ……春さんが離れていくんだ。僕が走っても、走っても追いつけなくて、春さんは屈みこんで泣き出して、そのまま砂になって消えてった」
「離れていくのはお前のほうだろう」
その双子の兄の言葉に、連香はいよいよ八の字に眉を下げる。
「春はずっと、お前の傍にいるよ」
「……不思議だね。連泉に言われると、本当にそうだって気がする」
連香が言うと、連泉は彼に珍しく微笑んだ。
「おやすみ」と言って目を閉じた連泉に、連香も再び寝ようと目蓋を閉じる。
「贈り物をしたいんだよね」
早朝に、連香はそんなことを言い出した。朝の光が眩しい庭園を窓から見ていた連泉が、連香に視線を合わせることもなく訊ねる。「なにを」
誰にと訊ねないところが、さすが片割れだと連香はこっそり思う。それを読んだかのように連泉が振り向いた。連香は彼と視線を合わせ、「それが、決まらないんだ。なにか装飾品が良いなとは思うんだけど」
「ほら、春さんって、たまに耳飾りとか簪とかつけているし」
「あまり派手なのは嫌がりそうだけどな」
派手なの、と連泉が欠伸をしながら揶揄したのものが、連香の趣味のことだと気づいて、連香はすこし赤くなる。「僕ってそんなに派手?」と素直にきくと、「深紅を好んで着るあたり、派手だろ」と連泉が真顔でいう。
「簪、指輪、首飾り……」
「首飾りはやめておけ。誰に首輪と言われるかわからない」
連泉の言葉に「確かに」と連香は頷く。「蓮派の首輪をつけている」と言いそうな者たちは、春の周囲に沢山いるのだ。本当はそんな彼女の周囲に二言三言言いたいことがあるけれど――と思案しても、そんなことをすればきっとまた、春は連香から離れて行こうとするだろう。
春は、もう何度連香から離れていくと言っただろう。そのすべて、春が心底連香を嫌っているからではなかったからこそ、連香もいままで縋りつけたが、次もそうであるとは限らない。あまりにずるずる、くっついていたいと強情を張るのは、春の迷惑になるだけだということも、連香は知っていた。自分がここまで情けなかったなんてなあ、と思えば、贈り物を贈ることすらただ重たいだけのような気がしてくる。
「……やめようかな」と連香が呟くと、連泉は連香を見た。何の感情もないような目なのに、その奥の感情が読み取れる気がするのは、連香が連泉の双子の弟だからだろうか。
自分たちのことを双子だといえば、どこからともなく、周囲から、お互いは特別な存在でしょうと言われる。連香もそれに異存なく、また連泉も特別反論もないようである。しかし、ひとついうとすれば、連香と連泉のそれは「特別」以上のものであった。連香は決して連泉を裏切らず、そして連泉は絶対に連香が穢れることを許さない。
連泉は、自分のことを連香の従者だと思っているような節がある。
それがなぜなのか、連香は分かっている。生まれたときから決まっていたようなものであり、「そういう宿命だ」という理由だけで成り立っている。しかし彼らは双子であって、平等に揶揄いあって笑いあってもいるのだ。
「やめるのは良い。でも、飾りのひとつくらい、遠慮などせずとも良いだろ」
連泉の言葉に、連香は泣きそうな顔をする。「重たくない……?」
「本人が重たいと思うのなら重たいかもな。春に、僕を一生背負ってくれとでも言う気だったのか?」
「それは絶対に駄目でしょう」
「だめかどうかなんだな」と連泉は呆れ返る。その連泉の言葉が図星だったのか、連香は強張った笑みを浮かべた。
2
「春さん」
連香に名を呼ばれ、春は微笑んで振り返る。この甘く幸せな時間がずっと続けば良いと願うたび、春は長花のことを思い出す。長花もこんな風に、自分と親しく幸福を分け合っていてくれたのに、その挙句……。長花になにか落ち度があったわけでも、彼女が春を裏切ったわけでもないが、朧月の存在は春にとっていまだにずきずきと痛む傷だった。
それでも、と春は思う。連香に出会って、そのそばに侍るようになって……春はたしかにいまが幸せだった。長花といたときと同じような、いや、それよりもっと甘ったるいものを、自分は連香に与えられ、甘受しているのだ、と。
「連香様。どうされました?」
春が首を傾げて訊ね返すと、連香は横目で主を見る。主はその視線に気が付いて、「良いよ、休憩にはいって、春」と春に声をかけて東とともに廊下の向こうに去っていった。
連香に誘われ、春は彼と二人で蓮派の敷地内を散策する。連香は今日、珍しく連泉を連れておらず、それに気が付いていたのに、春はなぜかそれを彼に訊くことができないでいた。
愚にもつかない話を春に楽しそうにきかせている連香のほうにも、どこか緊張したような様子があった。もしかしてなにか良くない話があるのだろうか、とだんだんと春の体が強張っていく。いよいよ春が足を止めて「連香様」と呼ぶと、彼もまた足を止めて春を見た。
「なにか、大事なおはなしが……?」
「――えっ」
春が核心をつくと、連香はそう言葉を詰まらせ、みるみるうちに赤くなる。その様子に、春は首を傾げた。連香はそんな春に、手を上げたり下ろしたりして焦っている。連香が俯いて、「えっと」、と視線を彷徨わせた後、「あの……春さん。装飾品はなにがすき?」
「装飾品?」
「あっ、装飾品、というか……ほら、髪飾りとか、耳飾りとか。よくつけているから、好きなのかなって」
「え……!」
連香にそんなところを見られていたとは思わず、春はみるみるうちに連香よろしく茹蛸になってしまう。そんな春をまじまじと見る余裕もなく、連香は目をそらして再び俯いていた。春が慌てて見当違いの謝罪をする。「すみません! お目を汚してしまい……こんなものをつけているの、恥ずかしいですよね……」
「えっ、違うんだ! ただ、すごく似合っているなって思っただけで」
「……へ」
それはそれで恥ずかしくて、赤くなったまま、春まで連香のように俯いてしまった。春の視線が自分から逸れたことに気が付いて、連香はちらりと春を見る。春の指にきらりと、細い金属製の指輪がついているのを見て、「指輪も好きなの? 春さん」
「あ……これは寺から送られてきたんです。主様の傍に侍るのだから、すこし立派なものをつけなさいと」
恥ずかしそうに、春はその指輪を手で覆って隠してしまった。それは連香から見ればとても安価のものであって、「立派」と言って彼女の出身の寺が送ってきたにしては、と思ったようだ。しかし、彼は優しく微笑んで言う。「そうなんだ」
「その指輪、すごく気持ちが込められているんだね」
その指輪に、品質などでは語れないようなものが詰まっているということが、連香には理解できるのだろう。それでも春が隠してしまうのは、春にとってその指輪は長花を象徴するもののひとつであって、それと、自分があの尼寺から離れたことを表しているようで、連香に見せてそれを彼が察してしまったら、と思うからだった。
もちろん、連香はそんなことまで察したりできないし、尼寺から離れた春の寂しさは彼に全く関係ないことも、春にはわかっている。それでも後ろめたく感じてしまうのだ。
それなのに春がその指輪をつけるのは、持っている装飾品の数があまりないことと、尼寺の者が選んだという事実が、それでも春にとって嬉しいものであったからであった。
「ねえ、春さん」
連香が春を呼ぶと、春はそっと顔を上げた。その困った表情に、連香もちょっと申し訳なさそうに笑う。「春さんは、その……贈物とか、嬉しいほう?」
「……? 嬉しいです。尼寺にいるときは、小僧たちや仲間から時々頂くこともありました」
「最近は?」
「最近はあまり……いえ、全くです。私は、ここではほとんど一人きりだったので」
そう苦笑する春は、連香の穏やかな声と鈴の音をきくうちに、だんだんと平常を取り戻していた。連香の鈴の音はふしぎだ、と春は思う。淀みのないその音は、ちりんちりんと美しく鳴って、いつも連香の傍にある。
「そうか」と笑った連香がなにを企んでいるのかを、春はあり得ないと一蹴していた故に気がつかないでいた。
3
「春さんに指輪を贈るの、どう思う?」
「重たい」
ずばりと連泉に切り捨てられ、連香はあからさまに肩を落とした。「ただの指輪ならまだ良いけどな」と連泉は続ける。「お前の場合、良い宝石がじゃらじゃらついたものとか用意しかねないだろ。春がつけて浮かないものにしたいとか考えなさそうだし」
「春さんにつけて浮く宝石なんてあるのかな」
連香の言葉に、連泉は呆れたとばかりに深いため息を吐く。「珊瑚や金剛石なんかつけさせてみろ、瞬く間に餌食だ」
餌食か、と連香は考え込む。手放しで認めるのはなんとなしに癪ではあるが、そういう煌びやかなものを春が急に身につけたら、周囲がどういう反応をするのか、いくら案じても案じすぎることはないだろうと、連香も思ってはいるのだ。
「人派の侍女たちに言われそうだけど……でもそんなの気にしていたら、なにも」
「お前の良いところなんだろうけどな、春にとってそれは害になりかねない」
「害……」と連香はますます落ち込む。連泉はそんな連香に、「……まあ、そういう考え方を叩きこんでやるのも、春には必要そうな気もするけどな」
「そういえば、今更だけどさ、連泉が春さんの名前を覚えているの、意外だね? いままで人の名前なんてそんなに憶えてなかったのに」
「お前が毎日毎日何百回も繰り返せば、そりゃあ覚えもする」
連泉がそう、唇を尖らせ嫌な顔をすれば、連香はきょとんと眼を丸くする。
そんな双子の部屋の襖を、馴染みの、蓮派の侍女がそっと開いた。連香が「あ、きたきた」と手招きする。侍女は頭を下げ、連香の傍に様々な大きさの箱を積み重ねていく。「これは?」と連泉が訊ねれば、侍女は恭しく、「連香様に頼まれたもので、女人への贈り物だとか」、と答えた。
「春へ、か」
「そうそう。とりあえずいろいろなものをね、持ってきてもらった」
連香と連泉は、蓮派の頂点であり、それはつまりこの世の頂点と同じような立場である。ゆえに自分で赴いて品を探すことはほぼなく、だからこそ連香はいつものように様々な宝石商から献上させたようだった。これを春が知ったら、と連泉はちらりと思ったが、それを連香に告げれば罪悪感に思い悩み始むだけだろうなと口を噤む。
「ねえ、ちゃんと一緒に選んでよ」
半刻ほど時間が経って、連香はそう困り果てて根を上げた。もはや我関せずと部屋の隅に寝そべっている連泉を振り返り、連香は頬を膨らませる。そんな連香に、連泉は、「自分で選べ」
「選びきれないんだ」
そういって俯き、連香は疲れてため息をつく。部屋を埋め尽くす数多の箱の半分以上を開けたというのに、連香の気に入るものはあっても、なんとなしに引っかかることがあり、それを連泉に訊ねると連泉がそれを指摘して、という繰り返しで、なかなか眼鏡に適うものが見つからないのだった。
もう諦めようかとしたそのとき、ふと最後だと思って開けた箱の中のものに連香は目を留めた。「ねえ、連泉」と彼はちょっと浮いた声で連泉を呼び、連泉は連香の声がいままでの疲れを滲ませていたものと変わったことに、伏せていた顔を上げる。
「首飾りも指輪もだめだということは……これとかどうかな」
連香は連泉にその箱の中を見せる。それには、きらきらと薄紅に輝く鮮やかな造りの桜を模したものに、赤い吊り下げ紐がぶら下がっている、造りの細やかな簪が入っていた。「へえ、いいんじゃないか」
桜を選ぶところが、彼女の名前と髪色を気に入っている連香らしいな、と連泉は思う。連香はそんな彼の心中を知らないまま、数度ひとり頷いて、「うん。これなら似合うんじゃないかな……」
「あんまり派手じゃなく、でもすごく綺麗。春さんみたいだ」
その連香の言い方に、連泉はため息を吐いて「御馳走様だな、それは」と呟いた。
4
連香にしては珍しく前日に、会おうと前もって言われていた春は、小さな鏡台に並べた装飾品たちに視線を落とし、指差ししながらどれをつけようか悩んでいた。
連香と会うのはいつものことのようなものであるし、外に出ていくわけでもないのだから、特別に洒落込む必要はない……と思ってはいても、やはり浮足だってしまうのは仕方ない。そういえば、前もって会おうといわれたのは初めてだな、と春はひとつの簪を手に取って思った。だからこんなに自分は落ち着きない気持ちでいるのだろう、と結論付ける。
その簪は、連香の前ではつけたことがなかったものだった。とても安価なものであることと、その簪を手に入れた経緯が春の心をざわつかせるということが、その簪を春があまりつけない理由であった。それでも、とそれを髪に挿して鏡を覗き込む。
――なにもつけないでいても良いのだろうし、それか、いつものものでだって、良いのだろうとは思うのだけれど……
それは春も充分にわかっているのだ。連香が春のつける飾りを見ていたとは言っても、別にかならずなにかつけないといけないわけではないし、いつもつけている質素なものでも別段良いのだろう。それでも春がこの派手な簪を手に取ってしまうのはなぜなのか、春は自分のことがわからないでいる。
その簪は、赤い球に藤の花の細工が添えられているもので、飾り紐もつけられた、美しいが造りの甘いものだった。町の露店で買ったものであるのだから仕方ないが、それを選んだ人物の趣味が現れていて、春が選ばないような華やかさがある。今日はこの華やかなものをつけたいのだけれど、と春は髪に挿したそれに軽く触れた。
「おはよう、春さん」
「おはようございます、連香様」
蓮派にきた春を迎えた連香は、いつものとおり、甘い声で春の名を呼ぶ。彼に名を呼ばれると、背骨が溶けてしまいそうなほどに、春は幸福を感じるのだ。これはなんだろう、と春はいつも思っている。春が誰にも持ったことのない感情を、春は彼に対して、たしかに抱いているのだ。一番重要なそのことはわかっているのに、この感情を何と呼べばいいのか、春はわからないでいる。
「春さん、鳥はすき?」
「鳥、ですか?」
「人懐こい文鳥がいてね、こっちなんだ」と連香は春の手を引く。春はなされるがまま、連香いわく人に慣れた文鳥がいる庭とやらに連れられて行く。そこは春が見てきた蓮派の庭園のなかで一番こぢんまりとしていて、しかしどこか主の部屋の庭と似通っていた。
「おいで、
庭にいた一匹の文鳥に、連香がそう声をかけると、文鳥は親しげに連香の手に乗る。「夏島というのですか?」と春が訊くと、連香は照れたように笑った。「勝手に名前をつけてしまったんだよね。いい名前でしょう?」
「はい。とても」
そういって春が心から笑うと、連香は優しく目を細めた。夏島の頭を指で撫で、春の手に乗せる。爪がちくちくと刺さる感触が目新しくて、春は小さく声を上げて笑った。
春が揺れるたび、簪の藤が揺れる。それを目に留めた連香が、春の簪に触れるように手を伸ばした。その手が触れる前に、春のほうが連香のしぐさに気付いて彼に顔を向ける。連香ははっとして、慌てて無意識に伸びたその手をひっこめた。夏島が羽根を広げて飛んでいく。それを見送って、連香はゆるりと春に視線を合わせた。
「……春さん、その簪は、誰かにもらったものなの?」
「え? あ……、これはその、長花様に貰ったんです」
なぜか聞きにくそうに尋ねた連香の様子に気が付かないまま、春はそう照れて笑う。触れられたくないことであったのに、連香の訊ね方のせいか、なぜか春は、気が付くとその問いを突っぱねることができずそう素直に答えていた。連香が「長花?」と問い返す。
「私の、その……この宮に来る前の主人というのでしょうか。尼寺で一番偉い方で、私は彼女に拾われるようにして、彼女の侍女になりました」
春がそう説明すると、それで連香は長花という人物について理解したらしい。「そうなんだ」と彼は短く返して、言葉を続ける。「拾われたっていうのは?」
連香の問いは、彼にしてみれば未知の世界の、物語の中のことのようであるその言葉に気を引かれただけの、他愛のないものだったのだろう。それでも春はちょっと言葉を詰まらせる。「あ……私は、その、幼い時に両の親を亡くしたのです。それから親戚のうちに引き渡されたのですが、そこでも結局疎ましがられて、尼寺に孝行に出されることになって。でも、始めのうちは、長花様の傍付きなどではなかったのです。ある日、尼寺で小僧をしていた私を、長花様が気に入ってくださって、それから傍に上がるようになって……。だから、拾われたとほぼ同義だと、私が勝手に思っているのです」
春の過去を連香に話すのは初めてで、春は、内心、虞を抱きながら、連香にその話をしたのだ。自分の過去は恥ずべきもので、かわいそうな子以外の何物でもないのだ、と春はいまでも、心底そう思っている。
――あの子は、可哀そう。
――そう、「春」は可哀そう。
「長花に、もらったの?」
連香は、少し間を置いて、そっと春にそう訊ねる。連香が春の過去についてなにも言わなかったことに、春は僅かに傷ついたが、連香からしてみると、春になにか言えるだけのものが――生まれに恵まれた彼にその立場が――ない、と彼自身の身分と過去を、本人が恥ずかしく思ったからであった。無論、連香も、春だって、その過去や出生に如何わしいものなどなにもない。それでも違いすぎる相手を見て、彼女らは己のことが心疚しくて仕方がない。
「そうです……その、一度だけ、夜の間に忍んで町にでたことがあったのです。長花様とふたりきりで……そのときに、長花様がこれは記念だといって、露店でこの簪を買ってくださったのです」
その春の話をききながら、連香が懐に手をいれて、こっそり隠している箱を握りしめているのを、勿論春は知らない。だからこそ、春は俯いて、堰を切ったように長花の思い出を連香に話してしまっていた。
自分が尼寺にいるときに、彼女にどれだけ救われたのか。彼女がどのようにして、自分を支えていてくれたのか。「救われた」「支えてもらった」という言葉は春の喉に詰まってついぞ口を継いで出てはこなかったものの、敏い連香はそれを感じ取っていたらしい。彼は春が話している間中、相槌を打ちながら、どこか寂しそうな顔をしていた。
そんな連香に視線を合わせられずにいるまま、春はあの日、長花と決別したときに、突然春の前に現れた朧月という少女の幸せそうな声を思い出していた。連香に長花との思い出を話せば話すほど、その朧月の声が、耳にこびりつくように、鮮やかに思い出されてしまう。「長花様」と呼ぶ甘美な声……。
やがて、顔を覆って肩を震わせ出した春に、驚いて連香が声をかける。「春さん?」
「あ……すみませ……、なんでもな……」
そういって笑おうとするのに、顔を覆っていた手は完全には離れず、そのまま口を隠す。一度大きく震えて、春の頬を、そのまま涙が滑り落ちていく。「春さん」、と連香が真剣な声色で彼女を呼んだ。
「ご、めんなさ……」
「……長花と、なにかあったの? ごめん、そんなことも知らずに、僕」
連香は、春のつらい部分に触れてしまったのだと気が付いたらしい。その表情は見ることができずとも、その詫びた声で簡単にわかる。春は微笑んで「良いのです」と言おうとしたのに、その言葉がでてこない。
「なにも……ないのです。ただ、長花様に会いに尼寺に帰ったら、……ほかの従者がいたのです。それが、どうしても許せなくて……私は……この宮で、つらいときはいつも長花様を思い出していました。長花様もそうだと、私は勝手に思っていたのです。この春を忘れないでいてくれていると……なのに……私の代わりはもう、あの尼寺にも、長花様にもあって……それが、私は……」
――はじめて春は、この、自分の中で一番汚い気持ちをほかのだれかに吐露した。それは口に出せば「そんなこと」と一蹴されるような、くだらないものでしかないのだと、春も分かっていたからこそ、いままで誰にも言えなかったのだ。連香も、きっとこんなことを言う自分に呆れているだろうと思えば、ますます彼の顔を見ることができなくなる。
「春さんは、本当に長花を慕っていたんだね」
しかし、連香は、春を責めることは一切なかった。むしろそういって、春の肩を抱いてくれる。連香がそっと、春の名を優しく呼ぶ。「長花のことが、春さんはそれだけ好きで、心の支えにしていたんだね……」
――私は、この人の傍でなら……。
春はひとしきり連香の肩に頭を寄せて泣いた後、ふとそう思う。彼の横顔を見て、湧いてくるこの感情の名に、春はやっと気が付いた。もしかしたら、春自身、ずっとこの名に気が付いていたのかもしれない、と思うほどにはっきり、それはその名にぴったり沿う。
「ねえ、春さん。これ、なんだけど」
空が橙に染まった頃、連香が、人派に帰ろうとしている春に声をかけ、そう懐からそっと美しい箱を取り出した。春はそれを受け取り、まじまじと見る。首を傾げて「これは?」と訊ねれば、連香はすこし悲しそうに笑った。「それ、春さんに似合うと思って。いつかなにか贈りたいなと思っていたんだ」
「開けてみて」と言われて、春はそっと箱を開ける。箱の中身を見て、春は顔をあげた。心底吃驚した顔だった。「これ」
「春さんの名前に合わせて、それを選んだんだけど……長花のように、それが重荷になるなら、捨てても構わない。だけど、一度だけでも、つけてみてくれたら嬉しいな」
そう言って笑った連香に、春は泣きすぎて枯れきったと思っていたはずの涙が、再び溢れそうになった。しんしんと耳が痛むほどの、切ないような感情を覚える。
――しあわせに、なれる気がする。
長花の簪を外し、春はそれをその箱に仕舞う。連香のくれた桜の簪を髪に挿し、春は微笑んだ。「似合いますか」
その笑顔は、この宮にきてから春が忘れていたほどに、何の影もない表情で、連香はなぜか泣きそうな顔をする。稍々間を置いて、連香もやっと微笑み返した。その顔もまた、春のそれのように、幸せで溶けてしまいそうな、だからこそつらい顔だった。
「うん。すごく似合っている」
そういって、連香は春の顔の横に手を伸ばし、簪の桜の花弁に触れた。薄紅の、薄い硝子細工の花弁は散ることなく、夕日にきらきらと輝いている。
そのとき、もう何度も抱きしめられたのに、春は生まれて初めて連香に触れられた気がして、その頬を朱色に染めた。感情の名を知るというのはこういうことなのだ、と心臓の音が速まる。
連香の手が、そっと離れていく。ちりんと鳴った音が、名残惜しく聴こえたのは、どちらの心の音だったのだろうか。
それはまさしく、「恋」だった。
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