第四章 嫉妬
1
春さん、と連香が優しい声音で春を呼ぶ。春は声のほうを振り返り、連香様、と笑った。「連香様。おはようございます」
「あれ、またきたんだね」
「おはよう、主」
鈴の音を鳴らしながら連香が春のもとに駆けよるのは、必然的に春が仕えている主の傍によることにもなる。主と連香の朗らかな様子に嫌な顔をする連泉と、そんな連泉に眉根を寄せる東に挟まれた格好で、主が連香ににっこりと微笑む。「春に会いに来たの?」
「そうだよ。春さんを借りても?」
「それはちょっとこまるなあ、いまからこちらも執務なんだ」
主と連香は、互いの派閥の頭であるから、こうしてふたりで親しく会話をすることは、貴人たちにもあまり良い顔をされていない。それでもふたりがそうして話すのは、ひとえに春の立場を慮ってのことだった。春は「人派」であり、「人派の主」の侍女であるのだ、と連香はちゃんと知っているからこそ、主と接触して春の時間を貰っており、主も、春が自分の侍女であると思っているが故に、こうして真正面から関係を大切にしようとする連香と春の二人に、彼なりの気を遣っているのだ。
春を借りることを断られて、連香はちょっと首を傾げる。連香の瞳にうっすら寂しそうな影が映ったことに、春は、連香様、と連香の名を呼んで、その温かな手にそっと触れた。「少しだけ、お待ちください。休憩の時間になれば、すぐに会いに行きます」
春の言葉に、連香は拗ねたように唇を尖らせる。
「春さんが、そういうなら……」
「――よくよく縁がないな、お前は」
連泉が連香に対して、そうからかうように呟けば、連香は「連泉!」と声を荒げる。春が苦笑しながら去っていったあと、連香は連泉を睨み、低い声で言った。「連泉は意地が悪い、もう、本当に信じられないよ」
ずんずんと廊下を荒っぽく進む連香から、ちりちりと涼やかな音が鳴っている。その音を聴きつけた侍女たちがこっそり彼らを見ているのを流し見ながら、連泉は、「そう怒るなよ。俺はこれでも安心しているんだ」
「安心? どうして?」
「どうせお前のことだから、部屋に春を呼んで俺に琴か笛を弾けとでもいうつもりだったんだろ」
「えっ? どうしてわかったの?」
連香が心底驚けば、連泉は息を吐く。「わかるに決まっているだろう。お前は本当に分かりやすいから」
「ううん、ばれていたのか……」
顎に手をやり、考え込む連香に、連泉はその頭を叩く。「わっ」と連香が声を上げた。
「春。一旦、ここまでにしよう」
数刻後、あらかたの執務が片付いて、主は春にそう声をかけた。春はその言葉に、疲れ切っていた表情をぱっと明らめる。「はい! 主様、申し訳ありません、すこし外に出ても良いでしょうか」
「良いよ。いっておいで」
そういって笑う主に、春は頭を下げる。慌てて出ていく春の背を見ながら、主は東に呟いた。「良いね、友達というものは」
「……それ以上のものがあるような気がしますが」
「それ以上の?」
東の言葉に、主は鸚鵡返して首を傾げる。いえ、と首を振って、東は、主に「お休みになられなくても?」と訊ね返した。
春は、連香を探すため蓮派に足を踏み入れていた。彼が自分を呼びに来たのは朝だったのに、と恨めしく縁側の廊下から真昼の太陽を横目で見る。早足で歩いていても、蓮派の空気や雰囲気を感じる。自分の所属している人派より、蓮のほうがなじみのあるように思うのはどうしてなのだろう。連香が自分に優しくしてくれるからだろうか。
――ここには、私を悪くいうひとがいないからか。
人派の侍女たちは、春の出生をよく知っているせいか、春を貶める者が多い。多いというより、それは春がこの宮にきてからいつの間にか、どこからともなく始まって、次第にほとんどの侍女たちの肴となっていたのだ。それを春は、異常なことだったのだとやっと気が付きはじめていた。
侍女たちが春を貶したとき、連香があんなにも怒ったのは、それがおかしな、とても失礼で、到底許されるものではないからだったのだ――
春は蓮派にくるたび、それをひしひしと思い知る。自分はそれを、この宮では普通のことだと思っていた。それが「私の扱われ方」なのだと。しかし蓮派の侍女たちは春を見ても陰で笑ったりせず、身分が、髪の色がという貴人もいない。
「連香様がね、さっき私に笑ってくれて……」
「連香様は、本当にお優しい……」
そして、春は蓮派にくるたびに、いかに連香が誰にでも優しく、誰にでも好かれる人物なのかということを知る。それを好ましく思うよりも先に、春はそれをすこしだけ寂しいと感じてしまう。それがなぜなのかはわからない。しかし、そんな自分を、浅ましく未熟だ、と春は思うのだ。
「……あら、春様」
早足で歩く春が通る廊下のそばの部屋から、麗佳が春を呼び止めた。春はそこでやっと麗佳に気が付き、彼女のほうを向いて頭を下げる。「あ……! 麗佳様、こんにちは」
「春様、どうなさったのかしら? そんなに急いで」
「いえ、連香様とお話ししようと……」
「連香様?」
ぴくり、と麗佳の眉が跳ねる。彼女は話していた侍女に軽く片手をあげ、靴音を鳴らして春に近づく。「連香様に何のご用事かしら」
麗佳のその冷たい声色で、春は自分の失言に気が付いた。蓮派の空気に飲まれて、麗佳が自分の敵だということを春は失念していたのだ。いえ、と春は苦笑して、「……ちょっと……」
うまい言い訳が出てこず、春の背中に冷や汗が流れる。麗佳は春に顔を寄せた。白粉のにおいがして、春は麗佳が自分とおなじ「女」なのだ、ということに、なんとなく嫌悪のようなものを感じた。麗佳の厚化粧の裏に、連香の影を感じるのはなぜなのだろう。
「春様、春様はどこの貴人の御息女なのかしら?」
「えっ……」
ひゅ、と春の呼吸が一瞬止まる。麗佳は蛇のような目で春を見つめ、その目を細めてわざとらしく小首を傾げる。
「もしや、人派の主様の侍女ともあろうものが」
――身分の卑しい女だなんてこと。
つ、と春の首筋に、麗佳は指を立てる。背筋の凍るような笑みを浮かべ、彼女は春の首を刎ねるようにぴんと指を跳ねた。反射的に春が一歩後ろに退き、首筋を守るように手で隠す。その春のざまを見て、麗佳は場違いな笑い声を上げた。「冗談ですわ」
「それでは春様」
軽く手を振り、麗佳はその場を離れていく。ばくばくと鳴る心臓を押さえても、春は流れる冷や汗を止めることができなかった。
2
「春さん」
「連香様……! お待たせしてしまって申し訳ありません」
人派の、春が以前よく暇をつぶしていた鯉池のふちに座っていた連香が、自分に走り寄ってきた春に笑って、こちらだよと手を振る。春は「探しました」と呟いて、呼吸と一緒に上がる肩の力を、ほっ、と抜いた。
「こちらにいらっしゃったのですね」
「うん。前みたいに、蓮派のどこかにいたりしたら、もっと春さんが探しちゃうことになるんじゃないかなって思って……でも、やっぱり最初から場所を決めておかないとね」
「いえ、いつ休めるかもわかりませんし、連香様もお忙しいのですから、連香様の都合の良い場所にいてくださって良いのです」
そういって、にっこり微笑む春を見て、連香は目を細める。その表情の優しさに、春は安堵した。先ほどの麗佳の様子を思い出し、再び背筋が凍りそうなのを、頭を振って追い出す。「春さん?」と連香が自分を呼ぶ。春は、いえ、と言葉を濁し、「そういえば、連泉さまはいらっしゃらないのですね」
「ああ、連泉は……俺は良いって言っていたから。当てられるのは御免だ、とかなんとか言っていたよ」
「当てられるのは御免?……」
「何のことか、よくわからないよね」
連香がそう頬を膨らませると、春はちょっと考えた後、よくわからないままに、まあいいか、と癖のように首を傾げた。彼女の耳たぶで光ったさりげない耳飾りに、連香がちょっと微笑む。
春は、全く飾り気がないわけではなく、年頃の少女らしく飾り物は人並みに好きだった。連泉がつける、耳に穴をあけるものと違う、耳たぶを挟む耳飾りや、指輪、髪飾りなどを特に好んでいるのだ。
それらはすべて、主や連香たち双子がつけるものほど華美ではなく、どちらかといえば質素なものであり、目立たないために、こうして光を反射しなければ気が付かない程度のものであった。
春を見つめる連香の視線に気がつき、春が連香を見やると、彼は笑う。「ごめん、なんでもないよ」
「いえ。連香様、鯉の餌を持ってきますね。少々お待ちください」
「うん。ありがとう、春さん」
そういって、春は自室に戻る。鯉の餌を取りに行くというふりをして、彼から離れたのは、春の気遣いでもあって、もうひとつ、春の脳裏に、麗佳の言葉がちらつくのもあった。「どこの貴人の娘なのか」、「卑しい身分の娘が、主の侍女だなんて」。
その言葉の意味するものが、主の侍女である春を貶す、人派の侍女たちとおなじものだとは、春も思わない。麗佳は蓮派で、人派の主の侍女がどうなど、気にするとは思えないのだ。それならばなぜ麗佳は、春に対してそんなことを言ったのか。その理由は、春にとってもすぐに察しのつくものであった。
――麗佳様は、私と連香様の関係を揶揄したのだろう。
つまり麗佳は、春は連香に相応しくない、と言外に言ったのだ。その冷たい視線や声色で、それは痛いほどに伝わってきた。ああ、だから――と、春はやっと「それ」に気が付いた。つまり、麗佳の厚化粧に連香の影を感じたのも、白粉の匂いが嫌だったのも――それが麗佳と連香をつなぐからだったのだ。
――麗佳様は、連香様を慕っている。
それに気が付いたとき、春ははっきりと憎悪のようなものを覚えた。それと同時に、敗北感のような、どうしようもない絶望も。連香に相応しくない自分などより、何倍も相応しい麗佳が、彼に恋慕を抱いている……。
春は鯉の餌の入った小袋を握りつぶした。この苛立ちと寂しさは、一体何なのだろう。連香に――あんなに人当たりの良い、優しく身分もある人物に、相応しい人がいるのは当たり前ではないか、と春は自分に言い聞かせる。そんなこと、随分前からわかっていたはずで、春自身も、麗佳と初めて会ったあの日には、すでに知っていたような気もする。それを今更……。
――どうしてこんなに、もやもやとした気持ちになるのだろう。
春は自分の考えていることを、うまく掴み取ることができずにいるのだった。なにか、思いもよらないような感情を、自分が連香に抱いているような気がして落ち着かない。単に麗佳のことが気に食わないのだろうか、と思ってみても、そうだと思う反面、腑に落ちないでもいた。
「連香様、お待たせしてしまって申し訳ありません」
鯉の餌を持って、連香のもとに戻り、春は連香と先ほどのように普段通り話をする。連香は春に麗佳のことを素振りも見せず、それがいつも通りの、当たり前のことなのに、春は連香があまりに白々しいような気がしていた。もやもやとした気持ちを抱えたまま、笑う春を――連香が、ふと気遣わしげな目をする。
それに気付き、春ははっと笑うのをやめた。連香は首を傾げ、「春さん、気分が悪い?」
「えっ……いえ、そんなことは」
「体調が悪いのかな、なんだかきつそうな顔をしているけど……」
するりと、連香が春の額に手を滑らせた。自分の額にも同じように手のひらを当て、熱を測ってううんと唸る。「熱はない、かな」
春がつい無言になり、重たい沈黙が落ちた。稍々間があって、連香は心配そうな声で言う。「なにか、僕が悪いことをしてしまった?」
「そうだったらちゃんと言ってね、春さん。その、……友達は、嫌なことは嫌って言うような仲でしょう」
「嫌なことなんて……!」
勢いよく、春は連香に顔を寄せる。その拍子に、鯉の餌袋が地面に落ちて中身が散らばった。餌をやるために屈んでいた格好のまま、春が足を踏みしめ、砂利が鳴る。
連香はその春の勢いに逃げるでも、退くでもなく、ただ眺めていて、それが春を心から受け入れている証拠だということに、いまの春は気が付けない。
「嫌なことなど、なにもないのです。そうじゃなくて、私は」
春は言葉に詰まりながら、「その。連香様と麗佳様は、どういう関係……」
「――麗佳さん?」
連香が、春の口から出てくるにはあまりに意外なその名に驚く。連香は少し考えた後、首を傾げ、「どうして麗佳さんのことなんて」
「いえ、忘れてください。なんでもないのです」
連香が不思議そうな表情をしていることに、春はますます耳まで真っ赤に染めた。自分はなにを言っているのだろうと思っても、発した言葉は取り消せない。連香はちょっとの間を置いてから、ゆっくり口を開いた。「麗佳さんは、僕たちに懇意にしてくれている貴人の娘なんだ。それだけだよ。どうして?」
「連香様と麗佳様の仲がいいとか、そういったことは」
きょとんと目を丸くして、連香がいよいよ固まる。彼の反応に春は、慌てて両手で顔を覆い、立てた膝に隠してしまった。「なんでもないんです……すみません、無礼なことを」
「ううん。良いんだ」
「連香様は、ご友人が多いのですね。私はその、そういったものが、あまりなかったので」
「そうだね、人並み程度にはいると思う。でも、僕は」
連香が言いかけた言葉の先がなぜか怖くなって、春は勢いよく立ちあがった。連香が再度首を傾げる。「春さん?」
「そろそろ、戻らないと」
「ああ、そうだね。僕もそろそろ仕事に取り掛からないと」
「やるべきことはやらないといけないものなあ」と自分に向かって呟き、春へ笑いかける連香を見ながら、春は泣きそうな笑みを浮かべた。自分の横を過ぎて、手を小さく振りながら春に背を向けた連香の、彼が常に纏う鈴の音に、春は耳を傾ける。鳴るそれは春を癒すどころか、ますます胸の苦しさを強くするだけであった。
「でも、僕は、春さんが一番大切なんだ」
伝え損ねた言葉の先を呟いて、連香は息を吐く。春にこの気持ちを伝えて、春がそれを受け入れてくれる日はくるのだろうか、と考えれば、重たいため息が再び口から洩れる。
連香は、春が身につける飾り物を見るのが、ここ最近の好きなことのひとつとなっていた。いままでは女性が身につけているものなど何だってよいと思っていたし、春が装飾品を好むとも思っていなかった。遠目から見るだけでは、そういった細かなところまで気が付かないのは仕方がないことであったのだ。
――それでも。恋しい女性がそれを好むというのなら、なにかしてあげたいと思うのも、さがだろう、と連香は思うのだ。
「でも、春さんには、重たいよね」
――僕たちは、ただの友人なんだから。
連香が春にそういった気持ちをいくら抱いていようとも、春にとってそれが重たいものであるのは、連香にとっても分かり切っている。自分は蓮で、春は人なのだ。蓮と人は交わるものではなく、また交わるべきではない。それを誰より知っているからこそ、連香は、春にこれ以上、自分を刻むのはいけないことなのだ、と感じていた。
――それでも恋しいと思うのは、自分で染めたいと思うのは……
「こんなに汚いものが、恋なのか」
いままで抱いたものは、悉くただの友情であったのだな、と連香は、いままで周囲にいた仲の良い少女たちの顔を思い返して苦く笑う。自分はとてもそういったものに寛容で、そういう人物もとても多いように思っていたけれど、春ほどに、誰かひとりに執着したのは初めてだった。連泉へのそれに似て、しかしそれよりもっときれいで、濁っていて――相反したこんなものが「恋」なのだ、と、連香は息を吐く。
「僕はやっぱり、向いてないんだなあ……」
溢した言葉は、なによりもの本音であった。
3
「やっぱり、連香様と麗佳様はとてもお似合いですわ」
「麗佳様のお召し物、見ました? すごく綺麗な仕立てで……あれが似合うのは、あの方しかいらっしゃらないでしょうね。ほかの子が着ても駄目よ」
笑い声が聴こえてくる。春はそれをききながら、深い息を吐きたくなるのを必死に堪えていた。いつも連香からきてもらってばかりであったから、たまにはこちらから出向こうと蓮派を散策していたのだけれど、どこへいっても連香と麗佳の噂ばかり耳にする気がしていた。
どうもここの侍女たちは、連香と麗佳の関係をほほえましく思っている者が多いらしい。春のことは「連香の友達」だと割り切っているからこそ、ここの侍女たちは春のことなど眼中にないということに気がつき、春はなぜだかそれにため息を吐きそうだった。いや、勿論春は連香の友人であり、それ以上ではない。わかっていることであるし、それ以上を望んでいるわけでもない――のに、その事実がなぜか春の気を重くさせる。
「あら、春様」
ふと、耳慣れた声が落ちる。春はそちらを振り向いて、その人物に頭を下げた。「麗佳様」
いま一番会いたくない人物だ、と頭の隅でちらりと春は思う。麗佳は上機嫌そうに微笑んでおり、しかし春にそそぐ視線は冷たかった。「連香様にご用事?」
「そうです」
――春がそうはっきり告げたのは、なぜだろう。なんとなしだったけれど、春のその声と視線には、いままでの怯えの中に、麗佳が春に持つ感情と同じものを浮かべていた。それに気が付いた麗佳が、わずかに目を細める。その表情に、春はうっすらと麗佳を蛇のようだと思った。
――麗佳様が蛇なら、私は蛙だ。
どちらが負けであるかなど、確かめる必要もないほど明確だ、と春は思う。だからこそ春はそれ以上なにも言わずに頭を再度下げ、さっと麗佳のそばを通り抜けた。春が自分の真横を通った瞬間、麗佳は呟く。「連香様に、自分が似合うとでも思っている?」
足を止め、春は麗佳を振り返る。麗佳は春をまっすぐ見つめており、微笑みすらなくした、無の表情で二の句を継いだ。
「連香様は蓮の、この宮の頂点よ。そんなお方に貧相な貴女など、周りがなんというかしら。みながみな、お優しい貴女の周りのように喜んで受け入れてくれるとでも?」
麗佳は微笑み、聞き惚れるような美しい声で言う。「人派は本当に、愚かだわ……」
――その通りだ。きっと誰も、蓮派の人たちも、人派だって、きっと誰一人、私を認めてはくれないだろう。
――それでも……
主の言葉を思い出す。自分を叱咤した、東の言葉も、とても優しいものだったのだ。
――それでも、やはり私は、麗佳様になにかをいうことができない、と春は思う。
麗佳が言っていることは、この宮で一番正しいのだろう。主や東の言葉は貴人よりも上の身分だからこそ言えるものであって、それを貴人より下の自分に当てはめる、春こそが愚かだったのだ。
それでも、一緒に居たいというだけで、ここまで一緒にいれたこと。それこそが奇跡だったのだ、と、春は麗佳と対峙しながら、冷静に考えていた。
だからこそ、春はなにも言わない。麗佳に向き直って辞儀をし、春はその場から立ち去った。連香に会いに行こうと思って蓮派にきたはずだったのに、もう春は、連香に会う気持ちが持てなかった。
「麗佳様は本当に素敵」
「連香様とお似合いですわ。婚儀はいつかしら」
気が早いわよ! と、ほかの声が割り込んで、高らかに笑うのが聴こえてくる。春は息を吐いた。麗佳はいつもこんな声をきいていたのだろうか。そうだったら、まるで自分とは正反対で、春は敗北感で笑えてきた。主に相応しくないと陰口をたたかれてばかりだった自分のことが、いままでのどんな時より、今この時がいっそう惨めだった。悲しいと言っても仕方がない。過去も、現状も、春には変えることができないし、それができたところで、麗佳ほどに連香に自分が相応しくなれるとも思えない。仕方ないのだ、と思うことが、一等、自分自身を楽にする方法だった。
「連香様は、本当に優しい」
そう呟いた春の声は、分からずやの子どもに言い聞かせるような冷たい声色だった。連香のことを、優しいだなんて、これっぽっちも思っていないような。それが連香への、一番してはいけない八つ当たりだと知っているからこそ、春はますます自分が情けなくて仕方がない。
「どうして私だったんだろう……」
堪えきれずにため息が漏れて、春はその場に屈みこんだ。連香様、と名を呼んでも、彼はこの場にいないのだ。あの鈴の音も、いまはちっとも鳴らない。
「連香様、私は……」
――あなたと一緒にいたいのです。
――だけど、私はあなたに相応しくないの。
そう考えれば考えるほど、春の頭は思考を手放していく。春は立ち上がり、人派のほうへと歩き出した。蓮派にいて連香と麗佳の噂話を聴き続けるのは、いまの春には到底耐えられるものではなかった。
4
一日の雑務を終え自室に帰ってきた春は、すっかり暗くなった空を眺めていた。もうあとは寝るだけであるような時間で、湯あみのあとの濡れた髪を拭きながら、春はため息を吐いた。
――連香様は、どうして私なんかと友達でいてくれるのだろう。
そんなことを考えることこそが春の弱さそのもので、春はそういった思考からいまだ抜け出すことができなかった。特に今日は、と春は立てた膝に顔をうずめる。麗佳のきらびやかな身分は春にはないものであり、しかし連香の傍にいるためには本当であれば一番必要な事柄であった。蓮派の貴人の娘、しかも彼女の親は連香に懇意にしている、つまり、とても身分の高い者であるらしいことも、春には自分が惨めで仕方がない。
春は、自分がこの宮にいて、主の侍女をしていることも、蓮派の双子に顔を覚えてもらえて、しかも傍にいることを許されている身分となっていることも、いまだになぜ自分がと思ってしまう。
その思考は彼女にとって当たり前のことで、しっかりとした身分もなく、ただ尼寺に引き取られただけの
「麗佳様になりたい……」
ぽつりとこぼした言葉のみじめさに、春は自分の気が沈んでいくのがわかった。麗佳になりたい。麗佳のような身分が欲しい。この宮で、身分は切って切り離せないものなのだと、もう春は嫌というほど身に染みている。
――私は、連香様に相応しくないのだ。
――離れなくてはならない。連香様の傍に、自分はいてはいけない。
そう考えるだけで、心が挫けてしまう。泣きたくて仕方がないような気持ちなのに、春は自分がこのことで泣くだけの資格もないような気がしていた。
春の胸には、むなしい気持ちだけが渦巻いている。
――これはきっと、ただの自己防衛なのだろう。連香様が私に、僕に君は相応しくない、と言ったわけでもなんでもないのに。
――私は、きっと……ただ怖いのだ。こんなに違う人の傍にいることが……
「私は、連香様に相応しくない」
――こんなに汚くて弱い人間が、あんなに綺麗な人の傍にいてはいけない。
そう思うことが、どんなに情けないことなのか、と春は自分を責める。離れることが怖いのに、傍にいることのほうが、春にはもっと怖いのだ。
次の日、春は主に断りをいれて、連香と二人きりの時間を作った。春の憂い顔に気が付いていた連香は、春が作った二人の時間に警戒しているようだった。なにか自分が悪いことをしたのか、と彼が気を揉んでいることは春にもわかる。だからこそ、はやく言わなければと春は口を開いた。喉が乾いていた。
「……連香様。あの」
「うん。どうしたの、春さん」
そういって、努めていつも通りに微笑もうとする彼を、春は心底美しいと思う。だからこそ、自分のことが嫌いな春は、彼の傍に居られないのだ。
「連香様、あの……私、連香様とは……」
「ともだちで、いることができません」と言葉にするのは、春の胸を切り裂くような痛みを持つ行為である。それを言葉にしたとき、連香は微笑みこそ崩していたけれど、激昂はせず、懸命にというより、あまりの感情の波に、逆にしんと静まっていた。春は足の震えに耐えながら、必死の思いで連香の静かな翠の目を見つめている。
「春さん」、と連香は冷たい声で春の名を呼ぶ。
「そんな顔で言わないで」
「……え?」
連香の言葉に、春は呆気に取られる。連香は春の涙を掬うように、春の目元に指を滑らせたが、勿論、春は涙を流してなどおらず、それでも連香には、春が泣いているように見えたらしかった。「僕を嫌ったのなら、もっと本気で言ってよ。じゃないと、僕は諦めがつかない」
「連香様」
「春さん、僕を嫌いなのだとはっきり言って。そうしたら、僕は春さんに二度と近づかない。なにもかも忘れる」
――嫌い?
ぱく、と春は口を開けて閉じる。そのたった三文字が、春の口から出てこない。春は連香を嫌ってなどいないのだから、それは至極当然のことだった。連香は静かな目で春を見つめながら、春の口からその言葉が出てくるのを待っている。
「……あ」
震えた、情けない声が、春の唇からこぼれる。春は口を押えた。かくりと膝から折れてしまいそうになるほどに、足が震える。溢れてきた涙に、春は自分に心底うんざりした。
連香はそんな春を見捨てるどころか、春を抱きしめた。ちりんと鈴の音が鳴り、あの日、友人になったあのときと同じ香の香りがする。ごめんね、と連香が呟いたことに、春は心から安心した。それはとても愚かなことだと、春自身が一番よく知っているのに。
――狡いと分かっていながら、私は連香様に選択して貰うことで、自分が傍にいる理由を見つけようとしていたのだ――
春が流した涙は、そんな自分への情けなさや、それでも自分を許してくれる連香への申し訳なさなどが混ざった、混沌とした気持ちの現れで、そんな春を受け入れる連香の思いが嬉しいと思う自身の素直な気持ちさえ、春には汚れているもののように思えた。
連香は、その春の涙の理由もわかっていて、それでも彼女を甘受している。それは彼が聖人だからではなく、ただ、彼が春を狂しいほどに慕っているからであることを、春は知らない。
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