第三章 ともだち


「春様」

 甘い声に名を呼ばれ、春は怪訝そうにその声のほうを振り向いた。そこには、黒い髪を丸めて結わった、色の白い可憐な少女が立っている。

 春は彼女をちらりと見て、すぐに目をそらした。それから庭園のまぶしい緑を見つめる。

 この庭の美しさと、この奥のちいさな池で泳ぐ鯉だけは、春を癒すものだ。それに目をそらしたのは、これから春がこの可愛らしい少女になにを言われるのか、そんなことを悲観的に予想したために、無意識のうちに逃避したからだ。春がそう逃げてしまうのも、ここの侍女たち――この少女が侍女かどうかはわからなかったが、春に声をかける女など侍女くらいしかいない――の、春への意地の悪さを考えれば仕方がない。

「春様。こちらをお向きください」

「……何の御用でしょうか」

 一歩、紅い靴を履いた小さな足を前に出して、彼女は春に指図する。春は不機嫌をできるだけ隠して、しかしとても冷たい声で彼女に要件を問うた。彼女はそんな春に目を細めてそっと微笑む。

「なんだか拍子抜けですわ。相手は人派の頂点の侍女と訊いて、どんな娘なのかと思っていましたのに」

「……」

 彼女はそう、小さな自分のあごに白魚の指をあてて言う。春はまた目をそらし、それから彼女が春に近寄った一歩と、もう二歩離れた。そのままこの場を離れようと、彼女に完全に背を向ける。そんな春に彼女はにやりと意地悪く笑って、それからなにかに気が付きぱっと顔を明らめる。「――連香様!」

 ――……「連香様」?

 春が、彼女が発した名前を不思議に思い、前からくる人物をふと確かめると、それは確かに蓮派の双子たち――連香と連泉であるようだった。連香のほうは名を不意に呼ばれ一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔に変わりこちらに手を振る。その横で連泉はいつもの仏頂面をしていた。

「連香様、どちらにいかれるの?」

 彼女は手を振り返して、そう甘えた声で言いながら連香のもとへ小走りで寄る。しかし連香は彼女が近寄ってきたときに初めて彼女に気が付いたように目を丸くし、それからふいと彼女をよけて春のもとへおずおずと近寄ってきた。春は連香に対しても一歩退く。

「春さん。きょ、今日はとても天気が良いね」

「――連香様! 私に手を振ってくれたのに、そんな小娘相手になさるの?」

麗佳れいかさん。僕はあなたに手を振ったんじゃ……」

 麗佳、と彼女を呼んだ連香は、自分の腕にまとわりつく麗佳を困った顔で見つめ返した。春はちょっと連香に礼儀上にだけ頭を下げ、すぐに背を向けて進もうとしていたのとは逆方向に歩きだす。「あっ! 春さ……」

「連香様。私とお話ししましょう?」

「ごめんね、麗佳さん」

 いよいよ詰め寄ってくる麗佳の体を無理やり離し、連香は小さくなっていく春の背を追いかけて縁側を軽く走り出した。置いて行かれた麗佳をちらと一瞥して、連泉が小さく鼻で笑う。「残念だったな」

「連香様!」

 連香を追いかけようとした麗佳の腕を引き、連泉は麗佳をそばの壁に押し付け、近距離で上から見下ろした。ふと連泉の影が、麗佳の上に落ちる。麗佳は連泉を見上げきっと眉尻を上げて連泉をにらんだ。

 心底馬鹿にしたような顔で、連泉は口角を上げる。

「あんたが貴人の娘じゃなかったら、痛めつけて殺してやるんだけどな」

「……」

 低く、這うような声で連泉が麗佳の目を見つめて言うと、麗佳のほうはその言葉におびえるどころか、先ほど連泉がやったように、鼻から息を吐いて笑う。

「あら、どうして貴方が私を殺すのよ」

「目障りだからだよ」

「殺したってそのあとどうするの? 貴方が食べるとでも?」

「……」

 麗佳の言葉に、今度は連泉が黙る。はあと息を吐き、連泉は麗佳の体が密着しているそばの壁を蹴り上げた。だんっ、という激しい音に、麗佳は少し体を竦ませる。連泉を仰いだ。

「食ってやろうか?」

 そう言って、連泉は冷たく微笑む。そんな連泉に、麗佳は、「……貴方に目障りだと言われる筋合いなんてない」

 そう呟き、どんと連泉の体に思い切り体当たりして、麗佳はやっと連泉の影から逃げ出した。それからきっと連泉をにらみつけ、すぐに背を向けて、歩幅を広げずに連泉から遠ざかる。

 麗佳の背が曲がり角の向こうに消えるのを見て、連泉は息を吐きその壁に背を預けてもたれかかった。


「……春さん……!」

 連香は、春の背を追いかけていまだ小走りで廊下を進んでいる。春はぐにゃぐにゃとわかる範囲で宮の中を歩いて、なんとか連香を巻こうとしているのだが、連香も春とおなじく、いやそれ以上の年月をこの宮で過ごしているためか、まったく巻かれてくれはしない。はあと春も意地になるのが馬鹿らしくなり、それならはやく彼の要件を済ませてしまおうと、やっと足を止めて連香に向き直った。連香は春がこちらを向いてくれたことに驚いたのか、一瞬目を丸くして、それからふと頬を緩める。

「何ですか? 主様への大事なご用件ならば、東さんにお伝えください」

「ちがうよ。春さんに、その……」

 春の冷たい視線に耐えられないのか、連香は目線をそっと床板にそらす。春はまっすぐ連香を見ていた。ちりんちりんと、彼が春の後ろをついてくる間中、ずっとあの鈴の音が鳴っていた。あんなにいやだいやだと、春が避けていたこのひと月あまりを忘れてしまいそうになるほど美しく清涼な音だ。

「……なんですか?」

「あ、あやまり……たくて。……ごめんなさい」

 やっとの思いでそう言って、連香は深々と春に頭を垂れる。春は彼がなにに謝っているのか、知らない振りをしたいのに、連香の泣きそうな震える声を聴いて、仕方なく、太い息を吐いた。それから一歩だけ、春のほうから連香に近づく。

「なんであんなことしたんですか?」

 春の冷たい問いに、連香はぱっと顔を上げ、それからゆるゆると視線をそらした。答えられないのだろうか、とやはり連香は自分を馬鹿にしたのだと春は眉間にそっとしわを作る。

 ――……やっぱり、蓮派は蓮派なんだ。

 人派であり、その頭の侍女である春にとって、蓮派の人物、しかもその頂点である連香が、春を馬鹿にする理由など「私が主様の侍女だから」で足りる。それを考えて、春は連香のしおらしい態度にいら立ちすら覚えた。しかし連香はそんな春の思いを知らず、そっと口を開く。「……言えない、んだけど」

「でも、いやがらせとか、笑いものにしたいとかじゃないんだ。そうじゃなくて……きっと、僕が」

 小さくそう、震えながら言うと、連香は口をつぐんだ。数十秒の間を空けて、意志を固めたかのように、やっと春の赤茶の瞳をまっすぐ見た。「……僕が、春さんと話したかったから……僕は」

「僕は、春さんに、僕の隣で笑ってほしいんだ」

 連香の思いがけない言葉に、春のほうが言葉に詰まってしまう。春は息苦しくなった肺でやっと息を吸い、「は、……?」

「あの、あのね、僕、……春さん。春さんと、ともだちになりたいんだ」

 そう言った翡翠の眼が、濁りひとつなくあまりにも美しくて、春は体の奥底が絞まるような、いままで感じたことのない感覚を抱いた。なぜだか、涙があふれそうになる。

 ――春は、かわいそう。

「それは……私が、かわいそうだから……」

 ――叔母さん……

 ――春は、かわいそう。かわいそう……

「ちがう!」

 春の顔色と、その言葉に、連香はその春の言葉が春の必死な防御だと気が付いて、大きな声で言う。春は信じられないものを見るような目で連香を見ている。連香はふたたび息を吸った。

「僕が、春さんを好きだからだ!」

 ぱっと、連香は勢い余って春の手をその両手で握る。ぎゅっと、すこし痛いくらいに力を入れ、「僕は、春さんと友達になりたいんだ」

「ともだち……」

 そう呟いた春の胸に広がった感情の名を、春はまだ知らない。


「春さんは、鯉が好きだね」

 柔らかな声に、春は不意に気をとられた。その声のほうを見ると、連香がちょっと照れたように笑いながら、春のそばに屈みこもうとしているところだった。ぴしゃり、池の鯉がその尾で水を跳ねる。

「今日は、餌がないんです。いつも忘れてしまうの」

 そう呟いて、春は池のそばに座り込んだ体制のまま、その池を再び覗き込む。あれから、春の後をついてきて、連香は何度もこの池の鯉たちを一緒に眺めるようになっていた。

 そんな連香のことを、春が嫌がらなくなったのはつい最近からだった。最初は春も連香を疎ましがっていたが、そばに座り込んで他愛のないことを話すうち、連香には悪意というものが全くなさそうだということに春は気が付いた。春に対して連香は、緊張することはあっても、馬鹿にするだとか、身分を下に見るだとかをしなかった。

 本来であれば、蓮派とはいえ連香は春の「上」なのだから、「春さん」という呼び方も、呼び捨てで自然だ。しかし連香は、春を呼び捨てにすることも、その名を忘れて適当な呼び名で呼ぶこともしなかった。

 春さん、ととても大切なものを口にしているかのように、やわらかでとけるような笑みを浮かべながら春を呼ぶのだ。そんな風に名を呼ばれたことは、春には長花に「曙」と呼ばれたときしかなかった。

 しかし、なぜだろう。長花と連香は、春の中で同一にはならなかったし、春は無意識下で連香と長花に抱く感情が別のものであることを知っていた。もちろん無意識であるから、春は自分がそんな風に、連香に親愛を抱いているなど気付きもしていない。いまだに頭の中では、連香は自分とは別の世界のものだ。

「へへ、見て」

 春の言葉を訊き、連香がそう笑って懐から小さな錦の袋を取り出す。立派なそれを掌の上で広げて、連香は春の手にその中身をぱらりとこぼした。「餌だよ。もらってきていたんだ」

「あ……りがとう、ございます」

「いえいえ」

 連香の目が見られないまま、春はちょっと顔を赤くし、口の中で礼を言う。そんな春を気にもせず、連香もいつもの春の真似をして、餌を池に撒いた。赤い斑、金色、真っ赤なもの、黒色。立派な鯉たちが競うように餌にたかる姿を、連香はなんとなく楽しそうに見つめている。

「……ここからじゃ、聴こえないんだけどね」

「はい?」

 連香が呟いた言葉に、春は反応する。そのときやっと、春は連香の緑の目を見た。

 連香の視線は池のなかに落とされている。「連泉が弾く楽器は、なかなか綺麗なんだよ。僕はそうはいかないんだけど。えへへ、僕のほうが楽器を弾くのは好きなんだけどね」

「春さんは、聴いたことないよね? 今度僕らの室においで」

「それは……素敵ですけど」

 そう言って、春はその先の言葉を飲み込む。連香の言葉に何の他意もないことは、春はもうよく知っていた。連香はこうやって、連泉の話をよくする。双子の兄であり、連香が一番大切にしているらしい存在だから、春もそうやって連泉の話をされることは嫌ではなかった。

 しかし、室に来いと言われると困ってしまう。連香は蓮派の頂点であり、自分は人派の主の侍女だ。身分の差ももちろんだが、そもそも相反している。連香がこうやって春のそばに近寄ってくることも、人派の貴人たちはよく思っていないのだ。

 「蓮とつるむのは楽しいか、上の身分のものであれば誰でもよいのだな」とあの爺たちの一人が、一人で歩いていた春を引き留め揶揄して笑ったことがあった。春はそういわれてひどく傷ついたが、それを主や東に相談することはもちろんできなかった。連香にも、一言も言っていない。

 そういわれたことで連香を嫌いになったり、こうして池のそばで並んで座ることを厭ったりすることはしたくなかったし、しようとも思わなかったが、そういわれたという事実が、春はとても恥ずかしかった。自分が悪いのだと、そんな気持ちにさせるような痛みを胸に宿していた。

「……あの、連香様」

「なに? 春さん」

 ――そんな風に、名を呼ばないで。

 連香は、溶けるように、その鈴の音のように軽やかに春を呼ぶ。春さん。その名を口にするのが、幸せであるかのように。そうやって名を呼ばれるたび、春は悲しいような感情を抱いた。この感情を正しく表現できれば、それは「切ない」だ。砂糖菓子のような切なさを、春は連香に抱いている。

「私は、連香様と……その、一緒にいて、良いのでしょうか」

「……え?」

 その春の弱い言葉を訊いた連香が、なぜかぱっと頬を赤くする。その反応に驚いたのは春のほうだ。連香は一瞬赤い顔をしてしまったことにますます耳まで赤くして、「あ! いや、違うんだ!」

「い、いや、ちょっといきなりだったから……」

「はあ」

 春はわけがわからないままそういぶかしげな声を出す。連香は春から目をそらし、いやいや違うよね、わかっているんだけど、とよくわからないことを呟いている。「……えっと、それは、どういう意味なのかな」

「連香様は、蓮派の貴人です。そんな人が、私のような人派のそばにいて、その……嫌な思いをされたりしないのかと……」

「――ああ、そういう……」

 その春の説明に、連香はすこし残念そうに笑った。それから真面目な表情になって、「嫌な思いは、春さんのほうがしているんじゃ?」

「僕は、春さんの言う通り、蓮派のあたまみたいなものでしょう。そんな僕と春さんが一緒にいたら、やっぱり貴人たちは良い顔しないよね。……わかっていたんだ、ごめんね」

「――そんなの!」

 連香が真面目な顔をちらりと泣きそうにゆがめたのを見て、春は気付くとそう叫ぶようにして立ち上がっていた。そんな春を、連香はすこし驚いたような目で見上げた。

「そんなの、良いんです! 私は良いんです。私は、いつもそう――……」

 そこまで勢いよく言って、春ははっと失言しそうになった口を手で押える。それからバツが悪そうに連香から目をそらした。連香はその春の最後の言葉を一瞬で理解して、いままで春が見たことがないような冷たい目を見せる。「春さん、人派たちに嫌なことをされている?」

「ちが……」

 う、と言えなくて、春は数秒目を泳がせた。それからやっと連香を見る。連香も立ち上がっていて、春よりすこし上の位置にある表情は、さきほどの冷たさはほとんどなく、しかしとても真摯に春を見ていた。

「春さん。嫌なことをされているなら、僕に言って。人派の主には言えないんでしょう」

「そんな」

「良いから。たとえ人派であっても、僕ならなんでも言える。人派の主は淡泊そうだもの」

 「ね?」と言って、連香はやっと微笑む。いつものものに戻った連香の優しい表情を見て、春はやっと、連香が自分の味方になってくれるといったことを少し温かく感じることができた。

 しかし、そんなこと、本当に頼めるわけがない。

 連香が冗談や嘘でそんなことを口走るほど愚かだとは、春も思わない。連香は本気でそう言ってくれたことはわかっていても、春の立場でそんなことをさせるわけにはいかなかった。だが、連香のその言葉は、時間がたつほど春の傷に沁みていく。

 ――連香様は、本当に私のともだちになろうとしてくれている。

 そう、自室の小さな文机に突っ伏して春は思った。文机を寄せた正面の壁に、丸く切り取られた窓から、ふと外を見る。夜になった宮の庭は暗くしんとしていて、どこか不気味さもあった。外に出て空を仰いでも、今日は星を見ることもできなさそうだ。

 しかし、春は気が付くと下駄を履いて庭にでていた。空を仰いでも曇っているようで、やはり星は見えない。はあと息を吐いても、夜でさえ暖かくなってきていたから、息が白くなることもなかった。さわりと、緩やかな夜風に葉がゆっくり揺れている。そんなものでさえ、夜は春になにもかもを不気味に見せるのだ。

「……朧月」

 あのときの少女の名前が、あまりにも美しく、その名を持つ少女そのままだったから、春は一度で記憶してしまっていた。今日は、うすぼんやりとしか月の光もない。それが唯一、春の心を慰めていた。

 あの名を聞いてから、春は月すら嫌いになっていた。それでも外に出てしまったのはなぜだろう。ここから少し距離のある、あの鯉池の方角を春はちらりと見る。――夜にも、あの人がそばにいてくれたら。

「よまいごと」

 ささやくように声にだし、春はぱちんと自分の頬を打つ。両手で顔を挟んだ格好のまま、再度空を見上げた。

 夜が怖くなくなる日が、くるとは思えなかった。


 粘りつくような視線を感じて、春は立ち止まり、振り返る。

「どうしたの、春」

「いえ……」

 春の前を歩く主が、春のほうを見てたずねた。春は首を振り、前を向きなおる。主の後ろを歩いていた東も振り返り、そしてちいさく息を吐いた。東の視線を追って春がふたたび後ろを向くと、すこし遠くでなにかを話していたらしい侍女たちが、東の視線を感じて口をつぐむ。

 ――また、悪口……

 春はそう勘付いて、ちょっと表情を曇らせる。東が「いきましょう」と主に声をかけたのを理由にして、春はむりやり侍女たちから視線を離した。そうしないと、きっと春は、ずっと侍女たちを見つめてしまっていただろう。


 夕刻になった頃、春は主の膳を取りに炊事場へ向かっていた。足はやはり重たく、数刻前に侍女たちがなにか噂話をしていたらしいことも相まって、春の表情も暗く濁っていた。

 炊事場に入ると、夕食の時間であるためか侍女たちが集まっていた。わいわいとしていた場が、春の登場で途端静まる。――ここ数日、いつもこうなのだ。

「侍女様は、蓮なのか人なのか」

 春の顔を見た若い侍女の一人がつぶやく。春がそちらをぱっと見ると、その侍女は春の視線を流すように、春を見ていた意地の悪い目をそらした。春は息をつき、じっとその侍女の顔を見る。侍女は春のほうを再び見て、鼻から息を吐いた。「なに? 本当のことでしょう」

「侍女様は、自分も思っていたことを言われたのが気に食わないのよ。そうでもないと、事実を言われて、あんな目で人を見たりしないわ」

「ふふ、たしかにそう、ねえ、侍女様?」

 侍女様、と春を呼ぶのには、この宮の侍女たちが春に込めた嫉妬と侮蔑がこもっている。「侍女様」の「様」は主のそばにいるからということ以上に、春の出生を揶揄しているのだ。

 春は侍女たちがそう自分を呼ぶことに、妬みが含まれていることに気が付いてはいないけれど、軽蔑以外のなにかがそこにあることは、とうの昔からわかっていた。

 春をあざ笑ってそうささやく侍女たちから目をそらし、春は膳を持って炊事場をでた。そこでふと、見慣れた赤い着物にぶつかりそうになって、反射でぴたりと足を止める。

 ――血の気が引いたのは、きっと「彼」には、こんなところを見られたくなかったからだ。

「……春さん」

「れ……」

 ざわり、と一瞬炊事場がざわついたのを、春も、その「彼」も気が付いた。彼――連香は、あの日一瞬だけ見せたあの冷たい目をして、春の奥、炊事場のほうを見ている。

「連香様、あの……なんでも……」

 連香はふっと、糸が切れたかのように、口元に冷笑を浮かべる。「醜い。ここの侍女たちは、人を笑うことしかできないんだね」

 その言葉に、春は背筋を粟立たせる。連香は春が顔をこわばらせたのを知っていたが、腹の底から沸いてくる怒りを抑えきれずに、息を吐くように続けた。「春さんには、僕が勝手にくっついているんだよ。それを知っている上で蓮か人かわからないと言ったのかな? それなら、僕への嘲笑と取るけど」

「君たちの顔、覚えたよ。僕、人の顔を覚えるの、得意なんだよね。……君と、君か。ねえ、僕の大切な友人を傷つけるようなことを言って、ただで済むと思わないでね?」

 ふふと連香はいつものように笑う。――いや、それは「いつもの」ではない。いつものような純のなかに、たしかに怒りが含まれている。

 連香の言葉に、春のことを愚弄した侍女たちと、その周りでその喧騒を面白くきいていたほかの者たちまでも凍りつく。この炊事場にいるのは人派の侍女だけであり、蓮派とは派閥が違うが、その頂点に目をつけられたとあれば、所属するものが人派であっても影響を及ぼすのだ。

「春さん、いこう。お膳、冷めちゃうよ」

 連香は春の背に、そっと指で軽く触れる。「春さん?」

「は、はい」

 春はかたまった足を、無理やり前に一歩出す。そうすると、今度は春の足は無意識に前へ前へと進んでいった。その数歩後ろをついて、連香も歩き出す。ちりんちりんと、涼やかな音が鳴る。その音をきいていると、春の気持ちもすこし凪いできたのか、春はやっと状況を解することができ始めた。「あ、の……」

 春が喉から声を絞り出すと、連香の足音がぴたりと止まる。ちりん、と小さく鳴ったのは、きっと連香が首をちょっと傾げたのだろう。

「連香様、あの……」

「――ごめんね、春さん。怖かったよね。……もう、こうやって春さんに付き纏うの、これが最後にするね……」

 連香がそう泣きそうな声で言ったのが、春の耳をかすって、春のその頭にこびりつく。

 ――そんなこと、と声に出そうとすれば、ぐっとのどからなにか熱いものがこみ上げるのがわかった。

 自分の後ろをついてくる鈴の音に気を取られず、一度でも振り返って、春が連香の表情を確かめてさえいたら、きっともっと早く、すぐに、彼が、春の目の前で怒りを露わにしてしまった自身をひどく責めていたことに気が付いただろうに。

 しかし、春はその簡単なことができなかったのだ。それほどまでに、春はあの優しく笑う連香が、侍女たちに見せた激しさが恐ろしかった。自分のためにしてくれたことであることはわかっていても、その恐ろしさが頭にこびりついている。

「そんなこと、言わないでください……」

 どんなに恐ろしくても、それでも春は、連香を嫌えない。それどころか、頭の端に浮かぶ自分を守ってくれたという事実も、嬉しいと感じている。相反する感情に、春は混乱していた。春は足を止めて、お膳を持つ震える両手に力を入れる。

 ぽたり、と膳の端になにかが、一滴、こぼれた。

「私は……連香様を、友達だと……思っていいのでしょうか」

 そう懸命に声に出せばだすほどに、ぽたりぽたりとなにかが落ちていく。「身分不相応です。わかっているんです。でも、私は……連香様といると、夜も……」

「夜も、怖くなくなる、気がしていたんです。気がしていたんです……」

 ――この苦しい感情が、なんであるのかわからないから。

 ――あの場の恐ろしさが、まだ残っているから。

 そう言い訳しても、どれも正しくない気がして、春は耐え切れず膝を折って屈みこむ。膳が重かったのだ。……本当にそれだけが理由であれば、どんなに……。

「連香様がいなくなったらと考えるだけで、こわいんです。あんなやつらに、なにを言われたって耐えられます。でも……」

 でも、と、出した言葉尻が震えて零れ落ちていく。

「春さん」

 ちりんと鈴の音が鳴る。近づいてくる。連香の伸ばした手は春には触れることなく、屈みこんだ春のそばに同じように背を丸め、連香は春の代わりに主の膳に触れる。

「僕、春さんのね、名前がすきなんだ。春って、すごくきれいな名前だ」

 連香の唐突な言葉に、春は嗚咽を飲み込んだ。

「……? は……」

「春さんを見ていただけだった頃、春さんを見た最初も……すごく、その髪がきれいだと思った。春って名前は、ああきっと、あの髪の色からつけたんだ、なんてきれいな名前なんだろうって。それからなんとなくずっと見るようになって、いつも春さんは寂しそうで……いつの間にか、笑ってほしいと思うようになっていた。笑ったら、すごく可愛いんだろうなって、思っていたんだ。だから、できれば僕が笑わせたいと……思っていた」

「……」

「でも、泣かせていたら意味ないよね。あんなところも見せちゃって、本当になんの意味もないね……僕はなにがしたかったんだろう」

 連香の懺悔のような言葉に、春は体が震えるのがわかった。

 ――連香様が謝るようなことなど、なにひとつ、ないのに。

 そう思っているのに、言葉が出てこない。涙ばかりが出て、なにも言えない。

 連香は春のそばに座って、春の背にそっと触れた。骨ばった背中の細さに、連香がちょっと息をのんだことにさえ、春はもう気が付けないでいる。

「……ごめんね。もう、春さんには近寄らないよ。本当に、ごめんなさい。迷惑だったのにね」

 そうささやいて、連香は立ち上がった。数歩屈みこんだままの春の前にでて、足を止め、数秒の間の後、ふたたび歩き出す。顔を下げているのは、後ろから見ている春にもわかったけれど、どうして彼がそうして、常と違い、顔を上げられずにいるのかを考えることができない。

 ――ちがう、と言わないと。

 ――そうしなければ、行ってしまう。連香様が、いってしまう……

 ちがう、と声をだそうとして、嗚咽が漏れる。涙が落ちていく。春は手を伸ばそうとして、腕が動かないことに気が付いた。

 ――待って。

 ――連香様、いかないで。

 連香は、春の心の声に気が付かず、そのまま春を置いていってしまう。その背が小さくなるのをずっと眺めることすらできず、春はもはや連香のように頭を下げて、その場でうなるように泣いていた。


「馬鹿だ。僕は、馬鹿だ……」

 連香は呟きながら、歩く。視界が濁るのはなぜなのか、彼はわかっている。

 ぽたりと涙がこぼれるほどに、春の泣き顔を思い出す。笑ってほしいとやっと言えたと思ったのに、それがこんな風に繋がるなんて。

 ――僕が、蓮派じゃなければよかったのかな。

 ――僕が、近寄らなければよかったんだ。付き纏ったりしなければ、春さんはあんな顔することなんて、きっと、なかった。

「馬鹿だ……」

 春のいる廊下から曲がり角を数回曲がって、蓮派の廊下にはいってから、連香は足の力が急速に抜けていくのを感じた。座り込み、うつむけば、床板に大粒の涙が落ちる。

「春さん……」

 ――傷つけたかった、わけじゃない。

 ――友達になりたかった。できれば、君の、友達に……

「……ちがう……」

 そうだ、と連香は思う。そうだ、「友達」じゃない。

 ――きっと最初から、僕が望んでいたのは、友達じゃなくて……

「は……そんなこと……」

 あまりの自分の間抜けさに、笑いが落ちる。

「僕は……」

 握ったこぶしに、力が入る。

 ――僕は、春さんに、恋をしていた。

「笑ってほしい、なんて……」

 ふっと、連香は壊れたように笑う。「僕は……春さんが、好きなんだ」

 ――笑ってほしい、なんて、愛の告白じゃないか。

 そう呟いた自身の声は枯れていて、そのみっともなさに、連香はますます声をだして、笑った。笑わなければ、胸が張り裂けてしまいそうだった。


 花弁を散らせる。一枚、二枚……指で柔らかく薄い花弁をむしりながら、春が考えているのは最後のとき、連香が頭を下げたまま自分から去っていった、あの日の光景だった。ごめんね、迷惑だったのにねと声を落とし、伏せられた長い睫毛と緑の瞳を思い出すたび、春は心が壊れそうな痛みを覚えていた。

 花弁がすべて散ってしまったのを見て、春は嘆息する。こんなことをしても、何の意味もない。あのとき自分が、屈みこんで泣くばかりで連香になにも言えなかったことが、春をひどく後悔させていた。あのとき是が非でも追いかけて、ちがうといえばよかったのだ。それができなかったのはひとえに春の弱さのせいにほかならず、春はそれを思うたび自己嫌悪に苛まれる。

「春、準備を」

「あ、はいっ」

 東に呼ばれ、勢いよく縁側から立ち上がる。さわさわと、縁側から見える木々や生垣の青を揺らす風が、春が散らした花弁すら吹き飛ばしていく。それがまるでこの宮に初めて来たときに見た桜の散るさまのようで、春は一瞬そちらに気を取られ、それからすぐに目線を室に戻した。

「主様、こちらのお召し物と、こちら。どちらがよろしいでしょうか」

「どちらでも良いんだけどなあ。お偉いさんといっても、どうせ爺なのだし」

 そう唇を尖らせた主に、春は苦笑する。それから顎に手をやりううんと考えて、「貴人の方々は、格式を慮るので……やはりこちらでしょうか。東さんはどう思いますか?」

「自分で判断しろ。……こちらだろうな」

 東に助けを求めれば、東はすこし嫌そうな顔をしたあと、すぐに判断を下してくれる。それは薄い色合いのもので、仕立て自体はどちらの衣装も変わりないのだが、たしかに貴人の好みそうなものだった。今日は主が貴人の頭角と会う日であり、そのための衣装を三人で選んでいるのであった。とはいえ、主はやはりいつも通りの退屈そうな顔で、東もあまり気乗りしない様子であった。春だけがきりきり舞いをしており、しかし春にとって、悲しい――連香の――ことを思い返す時間もなく働くことは、ありがたいことでもあった。

「主様、いつまでそんな裏切り者の侍女をつけているのです?」

 謁見室で会った貴人に、開口一番にそう言われ、主はちらりと表情を曇らせた。その言葉に、春は頭を後ろからがつんと殴られたような衝撃を受けて、顔を蒼白にした。

 ――裏切り者? 私のこと……?

 春は、貴人の言葉の意図が全く理解できないなりに、必死でそういわれる原因を思い返していた。しかし、思いつくことなど……

 そんな春を見ないまま、なにを言わんとしているのか、とやんわりとした口調で主が貴人に訊ねる。貴人の爺はその蓄えた口ひげに触れながら、下卑た笑いを浮かべ、「いや、そちらの侍女は、最近蓮に尾を振るのを覚えたようではございませんか……」

「春が、蓮に尾を?」

「――おや、主様はご存じないと」

「――いや。双子の片割れと、懇意にしているのは知っています。ただ、春が尾を振る、という貴公の言い分が納得いかなくて」

 ふ、と主は冷笑した。その表情が見えて、春はぞっと背筋を凍らせる。お付きである春でさえ、背筋が凍るほど美しく、冷ややかに主は笑っていた。そこに滲む感情は一体なんだろう。妖か人形と対峙しているかのように、人間味のない表情だ。それを見た爺のほうも、ごくりと喉を鳴らしたほどの。

「春は、尾を振るような人間ではない。それは貴公よりも僕のほうがよく知っている。……口には気を付けて」

 そうささやき、主はにっこりと笑ってみせる。それから主はかたんと席を立ち、「春、東、いこう」と、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。


「……主様」

「全く、ここの貴人たちは、本当に失礼なやつばかり」

 頬を膨らませてそう言う主に、先ほどの冷たさはもうない。春はそんな主の後ろを必死でついていきながら、主に何と言おうか懸命に思案していた。

 ――裏切り者。

 ――連香様と友人であること……貴人たちに、こんな風に思われては、侍女失格も良いところだ。もう私が連香様と関係なかったとしても、こんな……主様を、あんな嫌な目にあわせてしまって……

 春に悪いところなどなにひとつないのに、春の気持ちが落ち込んでいく。春にとって大事なのは自分が貶されたことではなく、主が気分を害してしまったことなのだ。春にとって主は主人であり、その主人に仕えている身である自分の軽率な行動で、主人の名誉が――と、そんなことばかり頭の中をめぐる。

「ねえ、春」

 そんな風に自分を責めていた春に、くるりと主は振り返る。そのとき白髪がふわりと靡いて、春はそれに目を奪われた。「春は、あの双子……連香と、友達なんでしょう? 最近よく、一緒にいたものね。僕はね、それはとても大切にしなければならないものだと思うんだ。春にこの宮で居場所ができたこと、僕はとても嬉しく思う。だから、その邪魔がでてこない手伝いくらい、僕にもさせてほしいな」

 そう言って微笑んだ主のその表情の優しさに、春は息を呑む。自分は、どう返せばいいのだろう。連香様とは、もう……

「私……あの、主様」

「迷惑かな? 東はどう思う?」

「蓮と睦まじくすることに反対するものは多いでしょうね。それでも一緒にいたいというのなら、それはいてもいいのではとは思います」

 首を傾げた主に、東は淡々と言葉を続ける。「友人とはそういうものでしょう。周りに負けてしまう程度の友であるなら、それはそれ。その程度だったということ」

 ――その程度。

 その言葉にかちんときたのは、なぜだったのだろうか。春は気が付くと、東に対し、「その程度などでは……」

「違うのなら、お前の方からも努力したらどうだ。すぐに尾を丸めて逃げ腰になるのは、お前の悪いところなのでは?」

 なにも返せなくなる春と、そんな春を冷ややかに見下ろす東の間で、主がますます首を傾げる。

「尻尾を丸めた? 春が?」

「主はご存知ないかもしれませんね。こいつは、数日前に蓮の双子と侍女の前で言い合いをしているのです」

「言い合い? 春が……? 珍しいこともあるものだね。でもそうやって喧嘩するのも、友らしくて良いね、なんだか」

 そう言って、主が場違いに微笑んだことで、春の中でなにかが氷解しはじめる。――友らしい?

 ――すぐに尾を丸めるのは、私の悪い癖。

 ――言い合いも、友らしい……周囲に負ける程度の友であれば、その程度。

 その程度、だったのだろうか。親しくなったのは一月も経たない間だったとはいえ、「その程度」と他者に言われるぐらいの浅い仲だったのだろうか。

 あの幸せな時、そばにきて、いつも連香は笑ってくれていた。それが周囲の心ない言葉「程度」で壊れるほどのものだったのだろうか。

「……私は」

 声が、震える。春は涙が溢れるのを我慢できなかった。悔しいと悲しいが混ざり、わけがわからなくなる。それでも、ここでなにか言い返さなくては、――まさしく尻尾を丸めて逃げかえるではないか!

「私は、連香様と……と、友達に、……なりたかった……!」

 その春の、絞り出した声に、主も東も無言になって春を見る。その目に宿るものは、春を貶すようなものではない。

「友達に……でも、どういっても、連香様は……私、いえ……私は、連香様に、あのとき駆け寄って、違うと言えなかった自分が悔しいのです……悔しくて、たまらないのです……その程度だったのかもしれません。でもその程度なのに、とても苦しいのです。こんなにも苦しいものが、本当にその程度なら、私はもう友人などいらな――」

 言葉の途中で、主が春を抱きしめる。連香とは全く違う、甘ったるい香の香りが春の鼻腔に広がっていく。春はそのときやっと、ぼろぼろととめどなく涙を流している自分に気が付いた。

「もういいよ、春。大丈夫だよ。その程度ではない。春は本当に、連香のことが好きなんだね……それは、大切にしないとね」

 主の言葉に、いよいよ春は両手で顔を覆い、屈みこんで大声で泣いた。廊下の真ん中で、人の目に晒されていることを思い出しても、春のそれはどうにも止まりようがなかった。


 主と東に背を押される形で、春は宮内の蓮派へ駆けていく。春の髪色は目立つものであり、ここ最近は特に、この蓮派の頭である双子の片割れと睦まじくしていると噂をたてられていたのもあり、皆の視線が廊下を懸命に走る春のほうへと集中する。春はその視線をひしひしと感じながら、しかしめげずに連香の姿を探した。

 赤い絹の着物が、衣擦れの音をさせて自分に寄ってきていたあの数週間を思い出す。人派の敷地に彼が訊ねてきていた理由が、もし春を見るため、会いに来るためであったのだったとするのなら、春がいま感じている、居辛さを、彼はどれだけ我慢していたのだろう。それでも春と話したいのだと、ただそれだけで訪れていたのなら、と春は連香を探しながら考える。春がそんなことにやっと気が付いたのは、偏に、連香が春と別れてから、あの双子の姿が人派で全く見られなくなったからだった。

 数日も前からそれに気が付いていて、それでもいままで勇気が出なかった春を、この心地悪い視線さえもが叱咤するのだ。

 ――私は、連香様に甘えていたのだ。

 ――だから、こんな風になるまで、なにも気が付かず……

 春はやっと、その姿を見つけて息ができた気がした。その背中は、足音を立てて走り寄ってくる春をちらりと振り返った。彼の顔が、驚きに染まる。その横を歩いているいつもの片割れも、その耳につけた細長い耳飾りをちりと揺らした。

「連香様」

 春は決死の思いでそう声をだし、彼の赤い絹の服に手を伸ばす。彼は困ったように視線を逸らしたが、春が彼の袖めがけて伸ばした腕を払わなかった。春はそのまま彼がくるりと背を向けることを予感して、その振り向いた躰、その両袖を掴んだ。「わっ」と連香が小さな声を上げる。春は顔を上げた。「連香、さま」

「――春さん」

 ちらり、と連香は、そばに立っている連泉へと視線を彷徨わせる。その視線を受け取っているのに、連泉はわざと顔を反らして先へと行ってしまう。連泉、と連香の唇が空をかく。それから稍々あって、連香は観念したように春にきちんと向き直った。「春さん」

「どうかした?」

 柔らかな優しい声色は、春がこの数日、ずっとそばで聴きたかったものだ。しんと静まりかえっている、蓮派の廊下の端で、春と連香はそうしてじっと向き直っていた。連香はもちろん春の二の句を待っていて、春はといえばその二の句を発することができずにもごもごと黙している。

「あの……」

 春の顔がみるみる紅潮するのを、連香は困惑したまま見つめている。その視線を痛いほどに感じて、春は自分を鼓舞する言葉を考えてかたまっていた。

 ――頑張って、春。

 ――尾を巻いて逃げるのは、お前の悪いところ……。

 その程度ではないのだ。連香は、春にとってとても大切な……

 すう、と春は息を吸う。顔を上げられずにいるけれど、こちらの顔が赤いことを、連香がもう知っている気がして恥ずかしかった。その通り、連香は春の顔が、というより、その耳や首までもが真っ赤に染まっていることに気が付いている。だからこそ「どうしたのだろう」と心配に思っているのだ。もしやまた、自分がなにかしたのだろうか、と連香が訳も分からぬままに詫びようと口を開いた瞬間だった。「……あの、連香様」

「申したいことがあるのです。いまだけ、ご無礼をお許しください」

「うん? どうしたの、春さん」

 か細い、掻き消えそうな春の声に、連香は首を傾げる。連香の手元を見ていた春は、連香がその腕に数珠のようなものを飾り付けていることに気が付いた。きらきらと輝くそれに写る自分の顔が、情けなく泣きそうに歪んでいる。「私。連香様、あの。うまく、言えないのです。でも……」

「連香様。私と、もう一度だけ、お友達になってくださいませんか」

 春の申し出に、連香は目を丸くする。途端速まる鼓動に、体温が急速に上昇する。それは春もであって、しかし互いに互いだけが茹蛸になっていると思い込んでいる。それを遠目から見ていた連泉は、鼻から息をひとつ吐いて、その場を後にしてしまった。

「……えっと……」

「――一度だけ。最後に、一度だけ、機会をください。私に連香様がしてくださったように、今度は私が連香様の傍に……いえ、こんなことを言うのは、分不相応も甚だしいのですが、でも……」

 「私は」、と春の言葉が空を切る。連香はどうしていいかわからずに、いまだ春が袖を掴むままにしている。「春さん。僕は……」

「だめでしょうか……」

 春の声色が震える。その言葉と声を聴いた瞬間、連香に沸いた感情はなんだったのだろう。砂糖菓子のような、甘い、春に触れたいという気持ちだった。思い切り抱きしめて、その髪に頬で触れたい――と、思った瞬間には、もう連香はそれを実現していた。突如、傍に引き寄せられた春が、真っ赤な顔のまま息を吸う。

春の髪のにおいは、連香にはどんな高価な香のそれよりも良いものに思えた。「だめなわけない! だめなんかじゃないよ……」

 連香自身の声がこんなにも、喜びで震えてしまのは、なぜなのか、連香にはもう充分すぎるほどわかっていた。春の体を抱きしめ、連香が春を包み込む。春もくらくらと、酒に酔ったような気持ちになる。足元がおぼつかなくなり、春が後ろに倒れこんだために連香もそのまま春の方向に倒れこみそうになって、ふたりは慌ててその場に尻もちをついた。そのまま顔を見合わせて、連香のほうが噴き出してしまう。「はは! ははは……ああ、もう」

「あ、あの、すみません……?」

 困惑してしまって、そうよくわからないなりに謝る春に、連香は「ううん」と首を振った。春の顔に自分の顔を寄せ、満面の笑みを見せる。ふたりの両目の端に光るのは、朝露のような涙だった。「お友達になろう、春さん。一度といわず、何度でも。……何度でも、君が許してくれるなら、僕は君に会いにいくから」

 そう言う連香が、座った姿勢のまま、再び春をきつくその腕に閉じ込める。春は身をよじったりもせず、なされるがまま、その連香を受け入れて、その胸に額をつけた。声を押さえ、あまりの安堵と喜びにすすり泣く春を、連香もなにも言わず、彼女が落ち着くまでそうやって、静かに抱きしめていた。

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