第二章 鈴の音
1
ちりんと鈴の様な音が鳴る。
その音が鳴るたびに、春は顔を下に向けて、出来る限り気配を消した。
たまたまそのとき、縁側に腰かけていた春は、その音に顔を下げ、唇を噛みしめた。春の桃色の髪が、春の表情をわずかに隠す。彼らは、それか彼らの「どちらか」は、春のそばを通るとき、かならず春の方へと視線を投げる。春はその視線を痛いほど感じるのだ。
――なんで私を見るの。
――あなたたちのような「華やかな」人たちに見られると、私は……。
春の言う「華やか」とは、外見がという薄っぺらな意味ではない。
軽蔑の意味での「華やか」だ。華やかな血筋、春の持たないものを持つ双子。明るい声をたてて笑い、こんな宮でも居場所に変える、そんな双子が春は心底苦手だった。春が人派に属しているからというだけではなく、「それ」は春の根底にある闇を浮き彫りにするのだ。
「
「無理だろ、
連泉、と呼ばれた少年は、連香と呼んだ少年と同じ顔をしかめ、後ろに結った黒髪を揺らした。青い絹の、大きな身幅の中華服の袖を振りながら歩いて行く。連香と呼ばれた少年も、左側に結った黒髪を揺らしながら、赤い、連泉と同じ形の服の袖を振って歩いた。
歩き方も顔立ちも、服の形もそろえた彼らは、蓮派の頂点に座る、「貴い身分」だ。
「でも僕、連泉の音、わりと好きなんだ」
「わりと好き、くらいなら弾け弾けとうるさく言うな」
連香が、その白い頬を赤く染めて膨らませ、「意地が悪いな、もう」と声を弾けさせる。連泉はそんな連香を流し眼で見て、そっと口角を上げた。軽い足音を立てて、双子は春の側を過ぎていく。
春の間近を通る時、なにかもの言いたげな視線が春の背に刺さった。
春はまたか、とますます表情をこわばらせる。彼らが春を通りすぎ、笑い声を響かせて姿を消したあと、春は重たいため息を吐いた。
「……」
春はやっと息を深く吸って、懐からだした懐中時計で時間を確かめ、靴を履いて縁側から庭に降り立つ。紋の描かれた白砂を踏みしめ、奥へと入った。
錦の鯉が泳ぐ池のそばに身をかがめ、視線をその池の中に落とす。
「お前たちも籠のなか」
春のそばに餌を求めて近寄ってくる鯉たちに、春は手を出す。触ることまではせずとも、そんな春の白い手に、鯉たちは近寄って口を開けた。春は笑い、膝を立てて息を吐いた。
「餌、持ってくればよかったね。ごめんね」
小さく水飛沫をあげて、鯉は春のもとを去っていく。春は立ち上がり、尻の砂を叩いて池に背を向けた。
ふと、視界の端に、またあの双子が縁側を、今度はさきほどと逆方向に歩いて行くのが見えた。
春は目をそらしたが、しかし、春に向かってなにかがひらひらと揺れている気がして、春は左側に髪を結っている方――連香のほうを見た。
連香は春を見ているのか、ちょっと照れたように笑いながら、手を振っている。春はそれをじっと見つめ、誰に向けたものだろうと考えているうちに、連香が手を下してしまう。
まっすぐ前を向き直った彼の緑の目を見て、春は感慨もなく「綺麗な目だな」と思った。
――黒い髪に緑の目。
――羨ましい。「普通の範囲」の「美しい色」だ。
春は、その桃色の髪ゆえに長花の側にあがり、その色ゆえに主のそばにきて、過去にはその色ゆえに義理の父にうとまれた。春の不幸を作ったのは、その桃色だったのだ。
しかし春はその髪を染めようとは思わない。長花が大事な思い出として春の奥底に存在しているために、その出会いを作ってくれたこの色を心底嫌う事はできなかったのだ。
それでも、春にとってのこの鮮やかな髪は、春が春を嫌う一因も作っている。
――私も、あんな風な美しい外見だったなら、あんな風に明るく笑いながらこの宮の中を歩けたのだろうか。
色など、なにも意味を持たない。しかし、仮に春が黒髪に緑の瞳だったら、春はもっと普通の人生を歩けたのかもしれない。
色など、なにも意味を持たない。だけど、あの尼寺は色にこだわっていたし、だからこそ春は桃色の髪に救われてあの尼寺に入り、その色ゆえに重宝されて長花のそばに侍った。
色などなにも意味を持たないが、春を作った根元に、春の桃色は太い心となって在った。
「連泉。春さんって、綺麗だね」
「またその話か」
春の居る縁側を通りすぎて、連香はぽつりとつぶやいた。その恍惚とした表情に、連泉は眉をしかめる。
「なにが良いんだ、あんな暗い女」
「髪の色が珍しくて見ていたんだけど、そしたらさ、なんかだんだん気になってきて……」
「髪の色ねえ」
「そこは深い意味はないんだよ? 見るようになったきっかけってだけで。たぶん、僕はあの暗い顔が気になるんだ」
ふと目線を春のほうへ投げ、壁が隔てて春の姿はもう見えないことに気が付き、連香は息を吐く。
「きっと、笑ったらすごく可愛いよ、あの子。笑ってくれないかな……」
連香の呟きに、連泉はぴたりと足を止める。一息おいて再び歩き出して、連泉は目を伏せた。
2
ちりん、と鈴の音が離れていく。
睫毛が揺れたのが、至近距離で分かった。春は視界に焼き付いた紅蓮が離れていくのを、茫然と眺める。春が唇を震わせたのを見て、その紅蓮は細く弧を描いた。
睫毛が揺れる。一度薄い瞼の下に隠れた紅蓮は、次の瞬間翡翠へとその姿を変えた。その変化を見て、春ははっと目を覚ます。
「……なっ!」
かああ、と首筋から耳まで真っ赤に染めた春は、思い切り眉を吊り上げて、勢いよく手を挙げた。そのまま大きな音を立てて、翡翠の持ち主の頬を叩く。「……んぐっ」
間抜けな声をあげて、翡翠の持ち主は身幅の大きな赤い着物ごと体を曲げる。驚いた顔で春を見た――春の前を歩いていた主と東も、その喧騒を見て目を丸くしている。
「一体、なにをしているの?」
小さな声で呟き、主と東は顔を見合わせる。頬を叩かれた連香は、春に叩かれた場所を手で押さえ、もう片方の手は床をついていた。
怒りに体を震わせる春がいまだかつて見たことがない表情をしていることに、連香は状況を理解することができず、呆けた顔をしている。
「え、あの、僕、いま……?」
「最低!」と春は叫んで、他の侍女たちの好奇の目に晒されていることすら忘れ、尻もちをついている連香にすばやく背を向けて、足取り荒くその場を去った。
「大丈夫か、連香」
「連泉、あの、僕」
尻をついた連香の隣に膝をつき、連泉は連香に話しかける。呆然と春を眺めていた連香は連泉にやっと状況を訊き、その双子の片割れの様子に連泉は鼻から息を吐いた。
やっと状況に追いついたらしい主が、「大胆なことをするね」と笑いをこらえながら言うと、連香は主に視線をやって首を傾げ、それからみるみるうちに顔を赤くした。
――信じられない! 馬鹿にするにも程がある!
ずんずんと足音荒く廊下を進み、春はがつんと柱に頭をぶつけてやっと止まった。ぶつけて痛む頭を抱えるのもそこそこにして、春の脳裏に焼き付いた至近距離の連香の美しい顔が、再び春を苛立たせる。
ふいに近づいた鈴の音の美しい音と、香のにおい、細く弓を描く紅色を思い出し、ふと、春は違和感に気が付いた。――紅色?
「……? 赤かった……」
――そうだ。あのとき、彼は瞳が赤かった。
――……どうして? でも、私が叩いた時には、もう……
春の冷静な部分が、その不思議な事に気が付いても、春の腹の奥からふつふつと湧いてくる怒りが、そんなことどうだっていいと叫び散らす。
春は頭を片手で抱え、はあと息をついた。
――蓮派などに、こんな……
――接吻、された。
春が怒り、ろくに話したこともない連香を殴った理由は、主と東、春という三人で、常のように歩いていて、双子とすれ違ったとき、不意に連香が春の腕を引き、その唇を奪ったことにあった。
なぜかこちらを見られている気がする程度の接点しかなく、派閥が違う故に近づくことすら厭っていた双子の片割れに、なぜ突然そんなことをされたのか、春が思いつく理由など「馬鹿にされた」くらいしかない。
そのことが、春の混乱する頭にこびりつき、春を苛立たせるのだ。
――でも、違和感がある。彼がどんな人かは知らないけれど、あの時、あれは「連香様」ではなかったような……。
「それでも、馬鹿にされたことに変わりはない」
呟き、春は頭を抱える手で桃色の髪を握る。
「……るさん。春さん!」
その声とともに、春がいま一番聴きたくない音色が鳴る。春は自分の背に誰がいるのかに気が付き、だからこそ敢えてそちらを向かないように背筋を伸ばした。
「春さん……」
声が、震えている。この声が私の名を呼ぶことなど、この人生には決してないと思っていた。
交わることはない。だからこそ背を向けていたのに。
「春さん、あの」
「話しかけないで」と冷たくあしらい、春は自分の腕を強く握りしめる。
「話しかけないで、ください」
鈴の音が鳴る。春の様子を見て、一歩引いたのだろうか。
彼が歩くたび、笑うたび、鈴の音が鳴るのだ。清涼で淀みのない、水の音のようなその音を苦手に思いながら、春はどこかでその音が聴こえるのを楽しみにもしていた。
けれどもう、その音は春にとって、ただ悪でしかない。
「私に近づかないでください」
そう呟き、春は彼のほうを勢いよく振り向く。困ったような、泣きそうな顔をして、連香はその緑の目で春を見つめていた。
「馬鹿にするのも、いい加減にしてよ!」
春の目から、大粒の涙がこぼれる。連香はその涙を見て、肩に力を入れた。連香も釣られたかのように、泣きだしそうに顔をゆがめる。
「二度と私に近づかないで!」
そう叫んで、春は連香の肩にぶつかり、よろめきながらその場を離れていった。
後に残された連香は、自分の前髪を掴み、へなへなとその場に屈みこむ。
「……
彼が憤って放った言葉は、誰に聞こえることもなく廊下の空虚に消えた。
3
青い着物の裾を翻し、連泉は「連香」と名を呼んで、双子の片割れのそばに膝をつく。連香は着物の袖で顔を隠し、日向の縁側に寝転がっていた。庭の茂みの一角から、小さな鳥が飛び立つ。
連香は腕をどけ、その緑の目で連泉のいつもと変わらない顔を仰いだ。連泉はかすかに瞬きする。
「どうしたの、連泉」
「どうしたの、じゃない。また寝ているのか」
連香は縁側の淵にかけた足はそのままに、上半身だけ起こして欠伸をする。
「いつまで拗ねているんだよ」という連泉が言うと、連香はむっと頬を膨らませ、それからすぐに表情を戻し、庭園に目線を動かした。
「ここ最近で、最悪だよ」
「どうしようもないな。いい機会だから諦めろ」
「僕はただ友達になりたかっただけなんだけど」
深い息を吐いて、連香は膝に手を伸ばす。そんな連香に、連泉はすこし首を傾げた。「友達?」
「友達だよ。間違っても突然あんなことするような仲じゃない」
連香がわずかに語気を強めると、連泉は傾げた首を戻した。彼が身に着けている、繊細な耳飾りが音を立てる。
「そうか。俺はそういう意味なのかと思っていた」
「なんで! 連泉までそんなことをいうの?」
その連泉の言葉に連香は一瞬で頬を赤く染め、声を荒げる。連泉は口元に手をやりちょっと笑って、「そういう意味だったじゃないか」
「違うよ! ああ、だから蓮煉も」
「そうだろうな」
双子が話しているところに、鯉の池のほうへと歩いていく桃色の髪の少女が見えた。彼女はいつもとおなじ寂しそうに見える背中で、奥へと進んでいく。
連香は知らず知らずのうちにそちらへと意識を持っていかれ、それにはたと気が付いて顔を赤らめた。
ああ、と情けない声を出して、両頬の色を手で隠し、連香は激しく頭を振る。
「違うからね、連泉。違うから」
「そういうのは苦手なんだ。これからは一人でやってくれ」
連泉の言葉に、連香はますます顔を赤らめて目を潤ませた。「違うってば……!」
鯉の池を覗き込んでいた春のそばに、ふと影が落ちた。春はその影の形に目線を上げる。
影――主は春のそばに屈みこみ、結わずに垂らしている白髪を、顔に落ちた部分だけ指で掬って耳にかけた。「主様」と春が名を呼ぶ。
「春。気分は落ち着いた?」
にこりと微笑み、主は静かに尋ねる。春は目線を揺らして鯉へと視線を落とし、それからこわばった表情で、益々膝を抱きかかえる。「主様、東さんは」
「東は席を外してもらったよ。このところ、なんだか春は気分が落ちているようだったから」
「春にはいつもお世話になっているから、なにかできたらと思ったのだけれど」と主はそう呟き、口をすぼめた。春はそんな主の紅い目を見る。
「春。春には友達はいる?」
主の問いに、春はぐっと言葉に詰まった。――友達。
「僕は、生まれてからずっと、ここにいたから……友達、というものすらなくて。春のことを励まそうと思ったのに、うまく言葉が出てこないんだ」
主の言葉に、春は目線を地面に落とす。
「寂しいの、春?」
主はそう春に静かに問い、紅い目で春を見る。春はその言葉に、なにも答えられずにぐっとのどを締め付けた。
――寂しい……?
「わかり……ません。私は、寂しいのでしょうか」
春がやっとそういうと、主はちょっと首をかしげる。
「僕は、どうだろう。僕も、友達なんてできたこともないから。でも、やはりそれはとても寂しいと思う」
主は「春の話じゃないよ。僕の話だ」と悲しそうに笑って立ち上がる。春より頭一つ分高い背丈。主のことを、自分と同じ人間であるのだと、春はそのとき初めて感じた。
――春は、かわいそう。かわいそう……。
叔母の声が、春の中によみがえる。
「私は……寂しい……」
主の去った池のそばに屈みこんだ格好のまま、春は呟く。
その言葉は春の弱った心にじりじりと焦げ付くような痛みを持って、沁みていった。
4
ちりんと音がする。連香が歩くたび、振り返るたびにこの音は鳴る。連泉は、この音を好ましく思うほどに、この音が嫌いになった。
この音は自分たちを縛っているものだが、しかし、この音はたしかに美しかった。
連香様は鈴の音がしますね、とはある蓮派の貴人の孫娘が言った言葉だ。
連香はその孫娘の顔も名前も憶えていて、にこやかに話していたが、それとは逆に、連泉は、その娘になにも感慨を抱くことも、ついぞその名と顔を覚えることもしなかった。
連香と連泉は、外見がとてもよく似ている。
大きくひとつに結わった髪型も微妙にしか違わず、顔立ちだってとてもよく似ており、声も出し方の違いで生じた微妙な差しかない。
しかし、ふたりの周りの貴人たちは、口をそろえて彼らを「似てない」と言った。だから、なんとなく、連泉は自分たちは似ていない双子なのだと思っていた。連香はどうなのだろう、と思ったのは、連泉にとってはとても珍しいことだった。
基本的に、人に興味を持たない連泉が、それでも少し興味を持ったのが、あの侍女だ。
人派の主の後ろを自信なさげに歩いて、その桃の髪をわずかに揺らしている、あの侍女。
最初は、まったくなんの興味もわかなかった。連泉が唯一、名前を憶えている双子の片割れ、連香が彼女を目で追うようになったのに気づいて、そこで初めてその存在を認識したくらいのものだったのだ。
連香は、連泉と比べられないほどたくさんのものに、すぐに興味を持った。だから、最初は連泉もまたいつものか、と冷めた目で見ていた。
彼女の名も、姿も、髪の色さえ、すぐに忘れるつもりだった。なのに、連香がずっと、彼には珍しく話しかけられないでいるような横顔で見つめていたから。
だから、連泉も、気が付いた時にはその名と姿を覚えてしまっていた。
――それを、「そういう意味ではない」だなんて。
「……馬鹿々々しい」
呟き、鼻からひとつ、息を吐く。これは呆れだ。いつもの病気にしたって、それではあまりに馬鹿々々しすぎる。
前を歩く連香が、鈴の音を鳴らしてこちらを振り向く。目元を緩めて首を傾げた。「どうしたの、連泉?」
「なんでもない」
「また僕の悪口を?」と連香が悪戯っぽく訊ねる。「さあな」と連泉はそれを受け流して連香より一歩前に進み出た。音は、鳴らない。
「大樹の元に行くの、やっぱり気が乗らない?」
「まあな」
連香が後ろから訊ねたくだらない質問に、連泉はそっけなく返す。連香の小さなため息が落ちた。
「大樹に触れるたび、僕は本当につらくなるんだ」
「お前がそんなに感傷的だとは知らなかったな」
「連泉」と、連香が声を荒げる。その声に含まれた微かな軽妙さに、連泉は、連香が本気で怒っているわけではなく、自分のからかいに乗ってきただけだということを感じ取って、笑いながら連香を振り向いた。「まあ、嫌なのも一瞬だ」
連香が動くたびに、鈴の音が鳴る。その鈴の音が、連泉は羨ましいと思う。しかし、羨ましいと感じた後すぐに、我に返って、ますます自分を憎く思うのだ。
つまらない、冷たい、悲しい――この宮は、この世で一番尊くて、そして醜いのだ。
連香は、犠牲者。この宮で、たぶん、一番の。
だからこそ、連泉は羨ましい。「自分が連香だったら」と思う。そして、それとは正反対の感情で、「連香と代わりたい」と思う。
――俺が、お前の代わりになれたら。
――それが、きっと俺の一番の幸せになる。
鈴の音は、鳴らない。
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