第一章 夜
1
「春、引っ張らないで……」
ふらりと主の体が傾く。主の細い腕を取っていた春が驚くよりも早く、横合いから差し出された黒い
――またやってしまった!
「春、何度言えばわかる」
「東さん」
春に東と呼ばれた彼の眉間に深いしわが刻まれ、春は冷や汗を流した。春を睨む東と、蛇に睨まれた蛙のような春を見て、主が春と東の間に入る。「こらこら、東」
「また春が怖がっているよ」
主がそう苦笑しながら東に言うと、東は深い息を吐いた。
「全く……いきなりあんな風に引いたら、主だって重心を崩す」
低くかすれるような声色は、こんなときはとびきり怖い、と春は思う。
「すみません……」
春がそう謝ると、東が「気をつけろ」と吐き捨てた。主がつんのめって踏んだ主の裾の泥を、東が払う。「気を付けてください」
「うん、ありがとう、東」
主はそう言って、東の言葉に微笑む。
主が微笑むと、その白いまつ毛の間に、紅の瞳が細く歪むのだ。
「主様……ごめんなさい……」
しゅん、とはたから見ても分かるほどに肩を落とした春に、主は春の桃色の髪に触れた。
「春」という名は、この宮内に上がってきたばかりの頃に、主が幼かったこの少女につけた名だった。桃色の髪をしていたから、「春」。
侍女となった彼女に主がつけたその名は、それより以前から少女が持っていた尼寺での名を捨てさせた。
ふと、嫌な視線を感じて春が振り向くと、主に近づくことすら許されていないような階級の低い侍女たちが、春を睨んでいた。
――またか、と春は意地になって背筋を伸ばす。
「春?」
「いえ」
首を振り、春は主を見つめ返した。
春より頭一つ大きな背丈に、長い白髪は一本の大きなみつあみにまとめられ、その背でかすかに揺れている。白髪と同じくらい、いやそれ以上に美しい赤い瞳。その瞳を縁取る白く長いまつ毛すら、なにもかも作り物のようだと、主を知る人々は口をそろえる。
「この後すぐ、
主の部屋に入り、襖を閉めてから、春はそう言って主のそばから離れ、下座に座りなおした。そんな春の言葉に、主はため息を吐く。
「頭が痛くなるね……少し休める時間はある?」
「少し遅れても、年寄り共が嫌な顔をするだけでしょう。いくらでも待たせておけばよろしい」
主の言葉にそう返したのは、東だ。
主と正反対に黒い髪と黒い瞳、その身も黒い鎧で包まれている。その体躯から分かるように、彼は唯一主のそばにつくことを許された衛士――護衛役だった。
兵としてもかなり上の身分だと、春が訊いたのはどこであったか。
「そういえば、
春がふとこの間訊いた噂話を思い出して言うと、主はその赤い目を丸くし、東は呆れたように顔をしかめた。
「事件って?」
「よくわからないのですが、蓮派がひとり、行方をくらましたそうです」
春の話に、東が息を吐く。
「よくある話だな。蓮派の人間が消えることなど、今に始まったことではない」
「そうですが……なんだか妙に多いと思いませんか? 人派はそんなこと、滅多に起こらないのに……」
「蓮派の連中は気が狂っているからな」
「全く、東は本当に口が悪い」
東の返しに、主が笑う。春は主をちらりと見て、その彼の視線が自分と合うと、慌てて目を逸らした。
「そろそろ、人派の集まりに行きましょう」
春の言葉に、主が「まだ休みたいよ」と言っておもむろに寝転がった。東も「いくらでもお休みください」と頷く。春が呆れ返ると、主がそれを笑った。「春、一緒に昼寝でもしよう」
「だめです! それでまた私がお小言を言われるんですから!」
「年寄りの小言から逃げられる者などいない」
「東さん!」
東のあんまりな言葉に、春が声を荒げる。
どうも東は、貴人たちを嫌っているところがあった。
「貴人」というのは、人派を支えている貴族のようなものだ。
「大樹」を崇めている尊殿宮は、この国の民にとって、国教のようなものだった。
故に、人派と蓮派に分かれた貴族たちは、とても大きな権力を持っている。その「人派」の頭として、まだ青年と呼べるほどの主が、その椅子に座っているのだった。
本当に寝息を立てている主を背に、春は襖を開けた。隙間からそうっと、縁側を挟んだ庭を覗く。
どこからか鈴の音が鳴ったような気がして、春はすかさず襖を閉めた。救いを求めて春が東を見ると、東は静かにうなずく。「蓮派が来たな」
少年たちの声が、襖の向こうからかすかにこの部屋に聴こえてくる。話している内容まではわからないが、その声が鈴の音とともに通り過ぎていくと、春はどっと疲れて太い息を吐いた。
「もう、ほかの道を通って行けばいいのに……どうしてわざわざいつも、この部屋の前を通るのか……」
「言っただろう。蓮派の連中は気が狂っているんだ」
「人派の連中は気が狂っているんだ、って言われてるかもね」
主の声に、東が横になっていたはずの主を見る。「起きていらっしゃったのですか」
「寝ていたんだけれど、蓮派の足音と声がね」
「ああ。あの双子はいつも騒々しく通って行きますからね」
「あの鈴の音、何の音なのでしょう。鈴を持ち歩いているわけでもないのに……」
主と東に、春が訊ねる。春の問いに、主も東も答えない。「東、春」
「はい」
「はい?」
東より一瞬遅れて、春も返事をする。そんなふたりに、主はいたずらっぽく目を細めて、「そろそろ、人派の集まりに出ようか。さすがに怒られそうだ」
――この場所は冷たい、と春は思う。
主が扉をくぐる後ろを東が進み、春は一番後ろについている。扉を閉めてから中を見渡し、春は緊張して一瞬息を呑んだ。
この場を支配するものは、主や東よりも一際、春をむしばむ。いつか、春は主にぼやいたことがあった。「人派の集まりは苦手なのです」、と。
この場に居合わせている人間の顔を、春はそっと盗み見た。
この場にいる老人たちはみな、年若く見た目だけで連れてこられた飾りの主と、その主を守るという滑稽な役を買っている東、そして、その侍女である春のことを軽蔑している。
だからこそ、歯向かうように主と東はこの老人たちを嫌うのだ。
それは春にとっても同じことだった。
春たち三人を、二番目の上座に座っている老人が底冷えする視線で見やる。主はそんな爺に軽く笑っただけで、一席だけ残されている、一番上座の席に座った。
その後ろに東が侍り、東の隣に一歩退いて、春が立つ。
春はいつも、老人たちを見ていた視線を、気が付くと床の木目に落としてしまう。そんな格好も老人たちの嘲笑を買うのだ。
この場で行きかう言葉は、ほとんどが意味のないものだ。雑談よりも胡散臭く汚れていて、話し合いというほどにしっかりしたものではない。
数十分が経過したところで主が席を立っても、貴人たちは主を見もせず、愚にもつかない話を続けている。
主が欠伸をかみ殺して数十分我慢すれば、あとはもう、彼は勝手にこの部屋を立ち去ることを許されている。
――「意味のないもの」。人派の集まり、というものは、名前ほど大それたものではない。
「はあ、本当に疲れる」
「主様、まだお部屋が近いので……」
うんざりとした様子で呟いた主の言葉を、小さく春が咎める。「お部屋」というのは、あの人派の年寄りたちがいる室のことだ。東が眉をひそめた。「全く、くだらない」
「時間の無駄だよ。やっぱり部屋で寝ていればよかった」
主がそう言って春に微笑む。春はそんな主に苦笑した。
2
主の食事を取りに、春は尊殿宮の渡り廊下を歩いていた。炊事場に行くことを、彼女は自分が受け持つ仕事の中で一番、苦手だと思っている。
難しい仕事ではないのだが、仕事自体ではなく、春が好きになれないのは、炊事場で暇をつぶしている他の侍女たちだった。
それを少しでも表に出せば、春自身がもっと窮することになってしまう。
「主様の食事を取りに来ました」
春が炊事場に顔を出し、そうその場にいた他の侍女に声をかけても、返事をする者は誰一人いない。皆、春に気付かないかのように、笑いながら仲間内の話に興じている。
春は小さく息をついて、一番豪華な御膳を手に取った。
この場の嫌な雰囲気とは裏腹な芳しい香りが、春の鼻孔をくすぐる。
春が炊事場から背を向けたときに、ほかの侍女たちが漏らす笑い声は、春自身に向けられているのだ。
「――主様の食事を取りに来ました」
「ちょっと、聴こえるわよ」
あはは、と下卑た笑いが弾ける。春は膳を持つ手に力を込めた。
――私があなたに、なにをしたと言うの。
ここの下品な侍女たちに、一度でも良いからそう言って、食ってかかりたくなる気持ちを、春は必死で抑えている。
言えばなにか変わるというわけでもないし、もしかすれば、そうすればますます苛烈を増すかもしれない。そういう怯えのようなものは、春の背にべったりと塗りたくられている。
――侍女たちがこんな風に春を貶して笑うのは、春がこの宮にきてすぐのときからだった。要領が良いとはお世辞にも言えないような侍女だったのに、尼寺の長と一番親しかったからというだけで、この宮の頂点の側付になってしまったこと。それこそが、侍女たちが春を嗤う理由だった。
春はそれについて、反抗できるだけの言葉も、立場も持たない。だからこそ、彼女はなにも言わずに逃げ帰っていたし、主や東にそれをこぼすこともしない――いや、出来ないのだった。
「……
記憶の中の、群青色の美しい長い髪を思い出し、春は膳の端に涙をこぼした。あの尼寺から捨てられてここに上って、一年が経った。それでも、春の中の尼寺での思い出は、いまだ鮮やかに心を癒し、時に乱してしまう。
――尼寺に戻りたい。
――長花のもとで、また昔のように……。そんな願い、叶うはずもない。
「お膳をお持ちしました」
春がそう声をかけて室に入り、膳を主の前に置いて、まず東が毒見をする。そのあと主が膳に箸をつけ、副菜を咀嚼しているのを見ながら、春はぽたりとなにかが目の前に落ちたのを知った。「春?」
ぽたぽた、とそれが落ちていく。ああまたか、と春は心の中で呟いた。抑えようとしても抑えられないものだ。
春は夕餉を持っていくたびに、涙を流していた。「……う、……っ」
肩を震わせ、いよいよ春は前のめりに腰を丸める。大粒の涙を自分がこうして毎日流せば流すほど、春はこの宮の冷たい侍女たちに自分が負けていることを知った。
――長花様。いつになれば、私は尼寺に戻れるのですか。
――待っていても良いですか。待っていても……尼寺で貰った名すら捨てた、愚かな私が……あの場所に帰りたいと思っても……。
春は、二度、名を捨てている。一度は尼寺に引き取られるときに、幼名を捨てた。二度目は、尼寺からこの尊殿宮に来た時に、主から新しく「春」と名付けられて、尼寺の名を捨てた。
この世界の頂点に君臨する主から貰った名を「嫌」ということなど、思いつきもしなかった。しかし、春はそれを思い出す度、尼寺に自分がそぐわないのだと思い知るのだ。
あの場所にあった温かさは、自分には似合わない。「私が無意識下でこの場所を選んだのだ。この場の冷たさも、そんな自分に対する罰なのだ」、と。
そんな春の泣く姿を見ていた主は、そっと目をそらし、置いた箸に再び口をつける。しかし春はそれに安堵してもいた。
主が変わらないからこそ、春は主の目の前で好きなように泣けるのだ。
蓮派の双子の鈴の音が、襖の向こうから聴こえる。
その音に、春は口を押さえた。こんな泣き声を、あの双子に聴かせてはならないのだ。こんな弱い人間が人派の長の側にいるなんて、知らせるわけにはいかない。
いつものように、蓮派の双子のにぎやかな声が聴こえる。
この時間、この場所を彼らが通るのはいつものことなのに、あの双子すら、春の声には一切気付かない。
あの尼寺であれば、尼が一人でも泣きだしたら騒ぎになっただろう。長花と春が呼ぶ少女が、優しく背を撫でただろう。
しかしこの宮は、ただ大きいばかりで、あの尼寺のような人間味がまるでない。
「春は、この時間に弱いね」
ぽつりと主が呟いた。その声は細く、春の耳を掠って消える。春は顔を上げ、涙のあとをごまかすようにこぶしでそれをぬぐった。
主が食事を終えていることを確かめ、春は主に強張った表情で微笑みかけた。「主様、御膳をお引きしますね」
「ありがとう」
主がそう春に返したのを訊いて、春は軽くなった膳を持って立ちあがる。またあの炊事場に行くことに対する靄が、心にかかって取れなかった。
室を出て、廊下の角に身をひそめる。春はそうして涙のあとを再びぬぐい、前をきっと見据えた。そうして鼓舞でもしないと、このまま折れて消えてしまいそうだった。
この宮の、春の敵は、春の心の柔らかい場所をえぐって、擦って、失くしてしまおうとする。そんなものに折れてはまた修復して、春のその柔らかさはいびつに折れ曲がっているのだ。
春のその柔らかなところの根元を持っているのは、今となってはほかならぬ主ただ一人であり、そんな主が纏う優しさは、春にとっては傷薬のように染みていく。
炊事場につくと、春はなにも言わずに膳を片づけて背を向けた。ちょうど折り良く人がいなかったのは、きっと貴人たちの食事の時間だったからだろう。侍女はみんな自分の担当の部屋に戻っているような時刻だった。
春がぼうっと、気分を変えてくれるようなものを探しながら、適当な道筋を歩いていると、ふとまたあの涼やかな鈴の音が聴こえた。その音につられて振りむいても、そこには誰もいない。
しかしなにかが床板の上で光ったように見えて、春はそっとその光の元に近づいた。――ちりん、と、音がする。
「……これ……?」
丸い形の、葉のようなものだ。大きな丸の斜め上に、小さな丸がくっついている。大きな丸の下には茎があり、それは振るとちりんちりんと、あの音がした。春は目を丸くしてそれを眺め、辺りに持ち主の影がないことを確かめてから数秒考え、そっと懐にしまった。
懐にしまい込んだそれを服の上から軽く押さえながら、春は持ち主を探そうと、うす暗がりの中に足を踏み入れた。
春が暗闇の中を突っ切って行くと、ぱっとなにか、広い場所に出た。室の奥で、なにかが沢山あるように見える。
それがなんであるのか見極めようと春が目を細めたところで、誰かが春の袖を後ろにぐいと引いた。春は驚き腰をついて、その手が伸びたほうに顔を向ける。
しかし、そこには誰もいなかった。
「……?」
ちりん、と再びあの鈴の音がする。ちらりと廊下の角から鮮やかな裾の端が見えて、春はそちらに寄って行くようにそっと廊下の角から顔を出した。
「……あ」
廊下にはだれの姿もない。春は首をかしげながら、あの薄暗い部屋を避けるようにして、元の炊事場の側へと戻った。
なにが起きているのかは分からなかったが、もうあの暗がりの奥に潜む巨大な「なにか」の姿を見たいと思えなかった。
3
「尼寺に里帰りしてみる? 春」
「……えっ?」
そう主が切りだしたのは、本当に突然だった。いつもの通り茶を飲んでいる主の横で、春もまた茶と菓子を楽しんでいたときに、ふと思いついたように主が切りだしたのだ。
いや、それは本当に主の気まぐれで、いま思いついた「他愛のないこと」なのかもしれない。しかし、その言葉を苦しいほどに心待ちにしていた春にとって、それはまさに棚から牡丹餅だった。「な、なんで……あの、私……」
「一日だけになるけどね。僕には、春以外に侍女はいないし」
そう言って、主はにっこり笑う。
変な汗をかいて、「あ、あの、主様」と尻ごみする春を見て、主は「嫌だった?」と眉根を曇らせる。
春は、好機を逃しそうであることに気が付き、勢いのまま言い募った。「――まさか、そんなこと! 良いんですか? 本当に?」
「よかった、その勢いなら喜んでくれているんだね」
春のあまりの勢いに、吹き出して主が言う。場の空気が柔らかいせいか、いつもそばで眉間を寄せているだけの東さえ、慌てる春を笑っているかのように、彼女には感じられた。
「あまりに渋るから嫌なのかと思ったよ」
主が茶をすすりながら言うと、春は真っ赤になって「すみません」と何度も頭を下げる。
主が、「で、いつにしようか。一週間後とかどう? ちょうど僕の休みの日があったはず」
「よろしいのですか」
その声に、春はやっと東の方を見た。いつもの厳しい声と違った、優しく和やかにも感じられるその東の様子に、主は稍々間を置き――なにかを考えているのだろうか――、再び微笑んだ。
「うん、良いんだよ、東。東にはちょっと無理させることになるけどね」
「春がくる以前は、ずっと私が侍従のまねごとをしていたのですから、今更でしょう」
春がおずおずと「東さんが侍従の役を……?」と訊ねると、東は春の方を見て、「他に誰もいないだろう」
「そんなことは気にしなくとも良いんだよ、春。存分に懐かしんでおいで」
「――……はい!」
そうはっきり返事をして、春は久方ぶりに心からの笑顔を見せた。
その日、尼寺に帰ることができる興奮で、春はうまく寝付けずにいた。
室内の薄暗闇の中、ぱちりと目を開けて、ぼんやりと浮いている天井の骨組みを眺めていると、寝ているときはあっという間なのに、時が流れるのがとても遅い気がした。
――帰る、というまでのものではないだろう。それでも、また長花様に会える。
東の手前、一日居座ることはできそうにない。彼に一日も、衛士、侍従と、すべてを任せてしまえるほど、春は現実味のない考えを遊ばせることはできなかった。それでも、一瞬であったとしても、あの尼寺に戻ることができるのだ。
あの尼寺の玄関に足を踏み入れることすら、この宮に来てから諦めていたのだから、春がそう興奮するのも無理はないことだった。
「……あ、長花様に連絡……」
そうはたと気が付き、春は起き上がった。文机の側の蝋燭に火を灯し、文紙を広げたところで、なにを考えても、言いたいことがありすぎてまとまらず、春は筆を投げる。
文は後回しにして、春は文机の小さな引きだしに入れていた自身の金を出して中を確かめた。なにかお土産を持って行けば、きっとあの美味いもの好きの尼寺の少女たちが喜んでくれる。
「帰れるんだ……」
その実感がふつふつとわいてきて、春はにやけるのを抑えられなかった。
「春、「長花」は春にとってどんな人なの?」
次の日、主が春に訊ねる。春は一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑みを見せ、「長花様は、とても素晴らしい人です。尼寺に引き取られた身寄りのない私に、とても優しくしてくれて、いつも隣に座らせてくれて……」
「春は、ここに来る前は長花の側近だったものね」
そう春の言葉に相槌を打った主に、春は目を細める。「はい。とても幸せでした」
「――こんな話を聴くの、そういえば初めてだね。そういう話なら、もっと聴いておけばよかった」
「帰ってきたときに嫌と言うほど聴くことになりますよ」
主の言葉に、東がしかめ面のまま呟く。春は一瞬目を瞬いてから、にっと笑った。
長花は、春にとって、自分が側使いをしていた貴人という以上に、たくさんの意味を持っていた。
春は幼い時に両親を流行病で亡くし、親戚の家に滞在していたのだが、その親戚が春を煩わしがって尼寺に入れたという経緯があった。
だから、春は、両親が死んだことや、親戚からも見放されたことなど、沢山の辛いことを一気に知り、この世に絶望していた。そんな春を尼寺で癒したのが、ほかならぬ長花だったのだ。
尼寺での毎日は、最初、春にとって、ただつらい日々の延長線だった。
どこに行っても、この先自分がみじめでつらいのは変わらないと思っていた。それでも、長花はそんな春を見限らず、事あるごとに連れ出して――春の幼名を捨てさせ、「
曙、曙と呼ばれるほど、冷たく粟立っていただけの春の心が凪いで、だんだん春は曙という名と、その名を呼ぶ長花のことを大切な家族のように思うようになっていったのだ。
――そして、春が慌ただしく、尼寺に帰る準備といつもの仕事をこなしている間に、その日はやってきた。尼寺に帰るとはいえ数時間で暇をする予定だったから、春の大きな荷物の中に入っているのは尼寺の尼たちに渡す甘味だけだった。それでも随分な大きさと重さだ。
ざく、と春は地面を彩る銀杏の葉を踏む。春の立つ場所から、はっきりと大きく尼寺の建物が見えている。
春が逸る胸をおさえながら、一歩、一歩と進んでいった、そのときだった。
群青の美しい長い髪が風に翻る。春はそちらに目を奪われた。あまりの懐かしさに、胸が苦しくなり、涙をにじませたところで、ますます懐かしいその声が春に沁みていく。「――
優しい笑みを含んだ柔らかな声が、春の知らない名を呼ぶ。春がその名につられて見た方向に、群青色の髪の女性を見つめる、幸せな金の双眼があった。黒い髪をひとつにまとめ、金色の目をした少女が、群青の女性に手を伸ばす。「長花様」
「尼寺まで競争しましょう。私の方が速いですよ!」
「待って、待って頂戴」
――長花、と呼ばれ、甘ったるい声で、群青色の髪の女が朧月の小さな手のひらに触れる。
とても幸せそうなその一瞬は、春の目に音が聴こえるほどに焼け付いた。心臓が跳ねる――そのとき、春は、今までの長花への親慕が、嫉妬と混乱によって逆転したのだった。
――長花様が笑っている、あんなに楽しそうに……
――朧月って誰? 私が、私がいままでいた場所に、そんな……。
春は長花の、「朧月」と呼ぶ口元に、その細めた青の瞳に、黒々とした得体の知れないものを抱いた。
「……うっ」
がさりと派手な音を立てて、春はその場にうずくまった。胃の腑のものを吐き出し、こちらを伺うように見た、朧月の視線から逃げるように、茂みの影に体を折りたたむ。「……っあ、う……」
「長花様」
「? どうしたの?」
朧月は、そのまだ幼い歳回りにしてはとても冷たい目で春を見た。長花の腕を勢いよく引き、尼寺の方へと走り出す。
「わ、朧月!?」
驚いた様子の長花は、事態をきちんと飲みこんでいないのだろう。そんなことは分かりきっていたのに、小さくなって行く群青色に春は悲しみを抱いた。憎い、とさえ思えるほどの、春などたやすく飲みこんでしまいそうな深い悲しみに、春は涙をこぼした。
泣かなければ、本当にそのまま、憎しみに変わってしまいそうな痛みだ。
「長花様」
――やはり、尼寺に戻る場所などもうなかったのだ。
――長花様は、この春が……「曙」がいなくても、ほかの者を側に置いている。そんなの分かりきっていたことなのに、こんなにも悲しいのか……。
茂みに体を隠しながら、春がぐるぐると考えたのはそんなことだ。そうして茂みの影に潜みながら、春は大きな音を立てて、持っていた菓子を風呂敷ごと地面にたたきつけた。ぐしゃりと音を立てて一辺が凹んだ風呂敷に覆いかぶさって、春はそのまま夜まで忍び泣いた。
4
「いつの間に……夜になっていたんだろう」
春が空を見上げると、空は黒く塗りつぶされ、星と月が輝いていた。
――夜は、嫌いだ。
春は、幼い頃、いつも夜になると、親戚たちが自分について言い争うのを布団の中で偲び聞いていた。勿論、好き好んできいていたわけではない。最初は小さなものだったその声は、次第に苛烈を増し大きなものへと変わっていくのだ。最後にそれをやめさせるのは、いつも叔母の泣き声で、それも春は嫌いだった。
――あの子を引き取ると言いだしたのは君だろう。どうにかしてくれ。
――あの作り物じみた髪の色を見ていると、気味が悪い。あんな子のために金を使う気にならないんだ。
――そんなことを言わないで。だって可哀想でしょう……
春は、夜になると、いつも叔母の涙声を思い出す。だって、可哀想でしょう。叔母は最後にいつもそう言って、そして義理の父が黙りこむのだ。
春はそれを聴くと、自分がいらないものであることを痛感する。「可哀想。あなたは可哀想」と、叔母はいつも言っていた。
――私は、可哀想。
――長花様は、そんなこと言わなかった。でも、きっと長花様も、心の中ではそう思っていたのだろう。
――だから、長花様も、この春がいなくなって、きっと安心したのでしょう? だから、あんな幼子と笑っているのでしょう。
「仕方ないじゃない」
ぼろ、と春の目から涙がこぼれる。長花はなにも悪くないのだ。だって、きっとなにもかも当然の成り行きで、きっとなにもかも仕方がなかった。
いつまでも、それこそ何年もの間、春の代わりを埋めずにあの尼寺で生活して行くことなど、長花には出来ない。あの尼寺が、尊殿宮へと上り、寺を去る春を引きとめていたとしても、きっと長花は春の役を埋める者を探して側に置いていただろう。当たり前のことで、それが常なのだ。いつまでも春のことだけを考えていくなど、春が異性で、長花にとって「従者」以上に特別になっていたとしても、去った春を忘れて長花が新しい相手を見つけた事を責めることなどできない。
――分かっている。
――分かっている……!
春は立てた膝に顔を埋め、鼻を啜った。涙が次から次に落ちて、春には止めることなど出来そうになかった。
――夜は、嫌いだ。
「……主様……」
不思議だ。この尼寺に戻り、長花の幸せそうな姿を見る前には、なじめそうにないと思っていた宮に、春は一刻も早く帰りたかった。
帰って主に泣きつきたいとさえ、春は思っていた。そんなことをしたって、主はきっと、笑って流してくれるだけだ。そして春はそんな告白をして泣こうとした自分を恥ずかしいと責めるのだ。分かっている。
……きっと春には、「居場所」などなく、心がどの場所も拒んでしまうのだ。そして独りきりだと実感して、また叔母の声を思い出すのだろう。主の膳の用意をしに炊事場へと行って、ますます独りを実感するのだろう――そんな環のなかに、春は居る。
それを思い知らされるのは、心が切り裂かれるようだった。尊殿宮には、春の居場所などない。尼寺にはあると思っていたけれど、宮へと春を送りだした寺にはもうすでに、「春の次」がいる。
黒い髪をした、金の目の少女。
幸せになっていた長花のことを憎むほどに、春はあの少女に深い憎しみを抱いていた。私の場所を取ったのだ。あの少女こそ、宮に上がってしまえばいい。そして私が……。
目を開けると、鳥の声が春に朝を知らせていた。東から緩やかな光が差し、空気は夜と同様、いやそれよりも優しく冷えていた。
春はくしゃみをして、身を震わせてから顔を上げる。ぼんやりとした頭で、彼女は「帰らなければ」と考えていた。
「主様……」
ゆらり、春は立ちあがる。足が棒のようになって、一瞬頭がふらりとした。立ちくらみを抑えて空を見上げる。
朝が、きていた。
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