「大樹に嫁いだ巫女の生家に行ってみないかしら? 気分転換にもなると思うわ」と仲居にいわれ、春はなぜか双子の母親の生家だというその屋敷に訪れていた。

 勿論、春のような旅人が、屋敷のなかに入れるわけではない。それでも外から見るだけでも、その家は立派な造りで、宮の貴人の家だと言われても充分納得できるようなところだった。

 屋敷の門扉は閉ざされているが、すこし裏に回れば蓮池があり、春はその蓮をぼうっと見ていた。「なにをしているんだよ」と、見知った声をかけられて、春は驚いて立ち上がり、その名を呼んだ。「泉。びっくりした」

「随分と奥まったところへ向かっていると思えば、お前は本当に、仕様がない」

「ごめんなさい」と背を丸める春にため息を吐いて、連泉は腰に手を当てて立つ。それから屋敷を振り返って、「……お前もこんな風に、巫女だとかなんだとか、故郷の村に言われている未来があったのかもな」

 連泉の言葉の意味がわからなかったらしく、春はきょとんとしている。そんな春を見て、連泉は鼻から息をひとつ吐いた。「わからないのか? 鈍いにもほどがあるぞ」

「泉は、この屋敷を知っているの? 泉のお母さまは、一体どんな人だったの」

 宿へ戻るでこぼこ道を歩きながら、春は前を行く連泉の背におずおずと訊ねた。連泉は立ち止まって春を振り返り、「この家は知らないな。だが、こんな小さな村に似つかわしくないような屋敷、主かなにかの母親の家だと思った方が自然だろう。……母のことも、覚えてなんていないな」

「俺たちの母親は、俺たちを産んだすぐにお役御免になって、父が喰ったのだと、いつかあの方が言っていた」

 あの方、と連泉が言うのは、蓮煉のことに他ならない。春はつい、その話に歩む足を止めていた。連泉が体ごと春を振り返る。背後で、煩わしいほどに蝉が鳴いており、山の緑が眩しかった。「怖くなったか?」

 連泉の冷え切った声色は、もう春にとって、怖いものではない。春は考え込むように目を逸らし、やや間を置いて、「……怖い。怖いけれど、泉は、絶対にそんなことしないでしょう」

 その春の答えに、連泉は目を瞬く。それから、何故だかすこしだけ笑った。「どうだろうな。お前によるな」

「私?」と春が訊ね返したときには、もうすでに連泉は前を向き直っていて、そのゆっくりとした歩調に、春もついていく。ちりちりと小さくなる鈴の音に、春が、「泉。その鈴」

「なんだ」と歩きながら訊ねた連泉の後ろで、春は歩みを止めた。春の足音がなくなったことに気が付いた連泉が、再び春を振り返り、そして立ち止まる春を見て体ごと向く。

「あのね、その鈴……この村に、埋めてあげたいの」

 春の願いは、連泉には意外なものだったらしい。彼は目をぱちくりとして、「埋める?」と首を傾げた。「どうして」

「その鈴があると、私、連香様がいなくなったことを、受け入れられなくなりそうで……なんだか、本当にいつか、泉をあの方の代わりにしてしまいそうで、こわい」

 口を結んだ連泉の顔が見れないまま、春は静かに続ける。「泉はね、私にとって、連香様の代わりなんかじゃなくて……私にとって、泉は泉で、あの方は……」

 しばらく、連泉は黙り込んでいた。春はその沈黙の重さに、心臓が早鐘のように鳴るのを聴いていた。連泉がやっと口を開いたとき、出てきた言葉は拒絶ではなく、あっさりとした肯定だった。「わかった」

 驚いて春が顔を上げる。厭と言われたかったわけではなかったが、連泉が鈴の音をつけるのにもきちんとわけがあることを知っていたからこそ、彼は春の願いを蹴るのではないかと思っていたのだ。しかし、連泉はそうはせず、穏やかに春の要求を受け入れた。「お前が良いのなら、そうしよう。母のもとに埋めてやるのも、良いかもしれない……春の、言う通りに」

 東風あゆが、連泉の髪を靡かせる。短く切った黒髪は、あの頃とはまったく違うものであり、同時に風が遊んでいる春の長い桃色の髪も、あの頃にはなかったものだった。


……だから、連泉がこれ以上、苦しい生を送らなくて済むように、僕の勝手で、連泉を宮から出します

そのとき、春さんもついていってほしいんだ

ふたりで、この世界を、僕のぶんまで……

本当に勝手な僕を、お許しください


「本当に、勝手な方」と春は口の中で呟く。涙に交じって、連泉には春がなんと言ったのか聞き取れなかったようだった。

 連泉の腕から鈴を外し、連泉と春は、屋敷の裏手にある蓮池の傍にそっと埋めた。鈴はもう鳴ることもなく、地面の下に埋まって、蓮と共にある。頭を下げふたりで手を合わせたけれど、春はしばらくその場から立ち去ることができずにいた。

(藍梅雨の蝉・完)

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