「旦那様と、喧嘩でもした?」

 朝が明け昼になって、ぼんやりと宿の庭を見ていた春に、仲居のひとりが声をかけた。春は仲居のほうを見て、ゆるゆると目を逸らす。

「いえ」と答えたのに、その声に覇気がないのは、春自身でもすぐにわかった。無論仲居のほうにも伝わったらしく、「こちらへおいでなさいよ」と仲居は春を縁側から番台に連れていく。番頭がちらりと春を見た。

「ねえ、とても可愛らしいお嫁さんだわ。そうでしょう」

 仲居が番頭に気安く訊ねると、番頭は無表情で春を見て、それからふんと鼻を鳴らした。その口元が笑んでいる。「旦那が羨ましくはなるな」と番頭は呟いた。

「旦那様と喧嘩したのでしょう。こんなところで、そんな浮かない顔をしているくらいだもの」

「いえ、喧嘩なんて」と答えてから、はたと春は、連泉のことを「旦那」といわれて当たり前のように返事をしている自分が不可思議に感じた。しかしその疑問も一瞬で、意識の隅に流れていく。

「なにがあったのかしら」

 どこまで話していいのだろう、と春はやや考える。ふと、春の過去――身の上話が口をついでてしまったのは、この宿の人たちが、春や連泉に優しかったからだろうか。

 宮にいたことや、彼の名前は伏せたまま、春は仲居に自分の大切な恋の話をした。彼の名を呼びたくて、その傍に寄りたくても、彼がもうここにいないことも話してしまった。そして、連泉が、彼の代わりになると言ったことも。

 春の話を訊いて、まず仲居と番頭は顔を見合わせた。

 番頭の顔に、最初よりも厳しく眉間に皺が寄っている。仲居は「やれやれ」と呟いて、春の落ち込んだ顔に自分の顔を寄せた。「お嫁さんはどうしたいの?」

 仲居の問いかけに、春は驚いて目を丸くする。「え」と一言漏らして、それからしばらく考えこんでいる春を見かねて、番頭が彼なりの助け舟を出す。「まず、そうだな。その、いなくなった奴っていうのは、もう会えないってことか? それとも会おうと思えば会えるのか」

「番頭さん、そういうことはどうでもよくて――」

「なんだよ、どうでも良いってことはないだろうが……」

 仲居と番頭が喧嘩を始めた横で、春は重々しく口を開く。「もう会えない」とはっきり自分の口から出してしまうのが怖くて、春は番頭の問いからは逃げ、しかし自分なりにきちんと答える言葉を選んだ。「私は……あの方に、向こうで別の好きな方ができていれば、と思うのです」

 春の言葉に、仲居と番頭が再び顔を見交わした。先に口を開いたのは仲居のほうだった――「狡いことを言うのね」

 仲居が発した言葉に、春の心臓は一突きにされたようだった。どくんと一気に心音が激しくなる。「え……」と声を出したけれど、それは仲居たちに届いたかわからないくらい小さなものだった。

「自分に旦那様という別の好きな人ができたから、そんなことを言うのね。卑怯だわ。相手が勝手に自分から離れていくことを望むなんて」

 はっと顔を強張らせた春の両肩を強く掴んで、仲居は春を呼ぶ。「お嫁さん」

「のこされた側が、ほかの誰かを好きになるなんて、当たり前のことなのよ。悪いことなんかじゃない。でも、そうやって逃げるなんて、卑怯以外の何物でもないわ……それこそそのお方が可哀想よ、向き合うって言うのは、逃げることではないのよ」

「でも、代わりにしろっていう、旦那様も旦那様だわ。あんまりよ、ひどく馬鹿なことを言うのねって、頬でもぶってやればよかったのよ」と仲居は自分の頬を叩く真似をして言う。そして白い歯を見せて、さっぱりと笑った。「ね。今度そんなことを旦那様が言ったら、そのときはぶっ叩いてやりなさいね」

「私」と春の胸の奥から、ごうごうと激しくなにかが湧いてきて、春は涙を流していた。そんな春の髪を、仲居が優しく撫ぜる。春は、懺悔するように仲居に言い募っていた。「私、連泉様が、自分を連香様の代わりにしろって言ったとき、……すごく悲しくて、でも、どうしたらいいのかわからなくて……」

「連香様が、いるような気がするのです。連泉様が腕につけている鈴の音が、どうしてもつらい。連香様はいないのに、ずっと傍にいてくださっているようで……でも、どうしてそれがつらいのか、私にはわからなくって……」

 春が声を震わせて泣くのを、仲居は顔を覗き込むようにして見ていた。そして、そっと春の頭を胸に抱いて、番頭のほうを伺うように見る。番頭は目を瞑り、春の言葉について、しばしなにか考えているようだった。

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