ⅲ
次の日、春は数日分の食糧を買いに外に出ていた。
連泉は、いつもならついていくのに、今日は敢えてそうしなかった。ぱらぱらと雨が降り出したことに気が付き、ぼんやり、「春は大丈夫だろうか」と、宿の庭に咲いている青い朝顔を見ながらしばし思案していた。
そんな連泉に、仲居が「奥様は傘を持たれていなかったようですが、雨に打たれてしまうやも」と声をかけた。連泉はそれもちょっと考えて、まず「奥様?」と鸚鵡返しをして、仲居の顔を、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で見た。
ざあざあと降り出した雨の中、春の姿を探すと、春は店の屋根の下で困ったように空を見上げていた。すぐに止むだろうとは思っていても、これだけ降れば身動きが取れないのは、少し考えれば分かる。
連泉は足元で跳ねる泥を視界の隅で見ながら春に近づく。春がこちらに気が付いたとき、ぼんやりとした彼女の唇がもう無い名を紡いで、連泉は一度ぐっとのどを詰まらせた。「春」と何事もなかったかのように彼女の名を呼ぶ。熱に浮かされたような彼女がはっと目を醒まして、「……あ」と小さく声を漏らした。
「泉」
自分を呼びなおす彼女に、「戻るぞ」と声をかけながら、こういうときに「帰るぞ」と言えない自分たちのことを、なんだか道化のようだと連泉は思った。
「家に帰ろう」と、誰かを引っ張って歩いたことが、連泉にはない。きっとそれは春もそうであって、春の出生やその過去は、掻い摘んでではあるが、彼がまだこの世にいたときに連泉は聞き及んでいた。それこそ「熱に浮かされたような」口調で、彼は連泉に春のはなしをきかせていたのだ。
「お前の隣にいるのは、俺じゃないんだろうな」
雨音でかき消されていればよい、と連泉はふたりでひとつの傘を差したその下で、春に向かって呟いて、思う。春は連泉を流し見ていたけれど、それすら気が付かない振りをした。
ちりんと鳴る鈴の音が、こんなに鬱陶しいものだともっと早くに知っていれば、きっと連泉はあのときも、この音を欲しいなどとは思わなかっただろう。
――それとも、この音が「偽物」だから、鬱陶しく思うのだろうか。
その夜、春と連泉は、布団の並びに隙間を開けて眠りについた。
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