「ああ、そうだったのか」

 他人事のように、あっさりそう言った連泉に、春は肩を落とした。「そうだったのかって」

「俺たちの母親のことだろう。当代の宮の主と言ったって、いま宮には人派の主しかいないんだ。大樹に嫁いだ、その子の母、となれば俺たちの母のことだろうな。ここはわりあい辺境だからか、随分と情報が古い」

 連泉はいまだ畳に寝そべった格好のまま、頬杖をつく。「母親か」と呟いて、ちらりと春を見た。春が首を傾げると、ゆるりと連泉は目を逸らし、それから再び目を閉じる。「泉?」と春が名を呼ぶと、連泉は薄っすらと翡翠の目を開けた。「……いや」

「泉のお母さまということは、……あの方の」、春がぼんやり、口の中でぼそぼそと言うと、連泉は春をまっすぐ見た。春はもう連泉を見てはおらず、日が長くなった外を見詰めている。

「そうだよ」

 なにも感じていないかのようにそう返して、連泉は目を瞑った。「……今夜も、か」と彼がちらりと考えたことは、彼自身、知らない振りをすることに決めた。

 春は、毎夜、さめざめと泣く。寝る前は静かなのに、深夜になって突然むくりと目覚めてきて、連泉の目につかない部屋の隅や、縁側に出てしくしくと泣くのだ。連泉はそれに気が付いていて、いつもその隣に座ってやる。すると彼女は毎度、申し訳なさそうにこちらを見て、小さくそれを口にする。「ごめんなさい」は聞き飽きた、と連泉はそっと唇を尖らせている。

 月の光を淡く浴びて、春の寝間着と丸まった小さな背中が白く浮かび上がっている。連泉は今日も、涙ぐむ彼女の傍に寄って、その肩が触れるほど近くに腰を下ろした。春、と呼ぶことも、なにかをいうこともない。傍にいればいつのまにか、彼女のそれが落ち着くことを、連泉は知っていた。

「ごめんなさい……」と春が謝る。いつもはそれを連泉がちらりと見れば、春はもう気が静まるのに、今日のそれはまるで違うものだった。

 濁流のような感情の波に流されて、春はずっと嗚咽を堪えて泣いていた。いよいよ呼吸が怪しくなってきて、連泉は初めてそんな彼女に声をかける。「おい……」

「ご、めんなさ……」

「喋るな」と言って、連泉は春を胸に寄せた。こんな風に彼女を抱いたことが、いつかあった気がして、はていつだったかなどと考える余裕があることに、連泉は我が身ながら辟易した。

「深呼吸しろ、俺はここにいる」、と身悶える彼女の耳元で囁いて、「間抜けなことを言う」と自分で思った。それからちらりと彼女の背に回した腕の片方を見る。月夜に紛れてしまった、それを、彼女の耳に寄せてちりちりと鳴らした――金属製の小さな鈴であるそれは、振れば勿論、ちりんと声を上げる。

 ちりん、ちりんと何度か鳴らしているうち、連泉が気が付くと春は顔を上げていて、涙に濡れた瞳が射抜くように、じっとこちらを見据えていた。

 ――これは、きっと気まぐれ。

 ふと、懐かしい声が聴こえた気がした。けれどそれは幻であることを、連泉はよくよく知っている。無意識のうちに、春の薄い唇に自身のそれを寄せていたようだった。顔を離せば丸々とした目がこちらを覗いているのだろうと思ったのに、彼女は目を瞑ってそれを受け入れていた。――ああ、と思う。

 もう一度口づけて、彼女に覆いかぶさる。

 月が見ている、と彼女が呟いたのが、まるで吐息のようだった。

「連泉様」と春が呼ぶ。連泉の口が独りでに「連香と呼んでいい」と彼女に告げていた。「俺をあいつの代わりにすればいいだろう」

 その言葉に、はく、と彼女の口が動く。あの名前を呼ぼうとしたのか、それとも――連泉には彼女の思考は判らなかったが、春が涙を目に溜めて視線を逸らしたところで、そう言い出したはずの彼には可笑しなことに、春がなにかを言うより早く、その口を塞いでしまった。

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