外伝 藍梅雨の蝉
ⅰ
――こんなものは、きっとただの気まぐれなのだろう。
「泉、あそこ、見て。村がある」
春の軽やかな声で、連泉は現実へと引き戻される。桃色の長い髪を揺らすその背にゆっくり寄っていけば、山の麓に縮こまる、小さな村が見えた。「人が住んでいそうだな……」
連泉は、長かった黒髪をばっさり切って、豪華な衣装を脱いだ以前と違う姿で、春の横に並ぶ。春は背中まで伸びた髪に桜の簪を差して、あのときより女性らしい姿で笑っている。
「宿があれば良いんだけど」と呟いた彼女に、連泉は「それくらいあるだろう」と不愛想に返した。
――辺りに響く蝉の声が、あの宮とこの場所が違うことを示しているようで、連泉は目を細めて空を仰ぐ。ちりん、と彼の袖元で、なにかの音が鳴った。
連泉は道の奥を見やって、なんだか既視感があるな、と思っていた。
「春、民宿を探すぞ」と春に声をかけ、連泉は村をきょろきょろと見渡す春を追い越した。「あ、待って」と慌てた声が後ろからきこえる。
「泉、おいていかないで」と春が連泉の服の袖を掴んだ。
「ゆっくり見物するのは、この荷物を置いた後にしろ」
「あ、そっか……ごめんなさい」
しゅんと頭を垂れた彼女に、連泉は鼻から息を吐いて、春から視線を離し前を向き直る。春はつい忘れていたが、春の荷物と自分のものという、決して軽くない荷を、連泉は背中や肩に担いでいるのだ。
それもこれも、連泉自身が絶対に譲らなかったことのひとつで、「どうも自分には、この女が弱々している頼りないものにしか見えないらしい」、と連泉は結論付けていた。そんな連泉に、春も最初は絶対に自分のものは自分で持つと言っていたのだけれど、それが喧嘩に発展したところで、春が「軽いものだけは全部持つから」と折衷案を出したのだ。
それでも財布や貴重品だけは、絶対に春に持たせないと連泉が勝手に決めてしまっていて、だからこそ春が肩に担いでいるのは二人分の下着くらいだった。
民宿をやっと見つけて、ふたりは同じ部屋に入る。荷物を全部置いて、連泉はどかりと部屋の真ん中に腰を下ろした。春は部屋の隅にしずしずと座って、長い息を吐く。「ちょっと休む? あとで食料も買いに行かないといけないね」
「あとで良いだろう。俺はいい加減、少し寝たい。久々の畳だ」
「まずお風呂に入りたいなあ……」
春が、そう言いながらまどろんでいるのを、連泉は寝転んで流し見る。「荷物は見ていてやるから、風呂にいけ」と彼が言うと、春は微睡みからぱっと醒め、「良いの?」
「その問い、宿に泊まるたび言うつもりか」
「う、うん。いってくる」
言うが早いか、下着の荷を解いて春は部屋を出る。それを見ながら、連泉は深いため息を吐いて、今度は彼のほうが柔らかく船を漕いでいた。
「あの、湯殿はどこですか?」
そう春におずおずと訊ねられた仲居が、春を見て、「あら、あなた」と華やかな笑い声を立てた。首を傾げる春に、その場にいたもうひとりの仲居が耳打ちする。「綺麗な旦那様と一緒だった、可愛いお嫁さん。ふたりきりでこの村に来たのかしら」
「旦那様」と春が繰り返すと、仲居たちは微笑ましく笑っている。「あら、照れている……」
「あの、湯殿は」と春が再度訊ねると、仲居のひとりが「ああ、こちらですよ。案内しましょう」と、今度こそこころよく春を湯殿まで連れて行ってくれた。
「この村にくるなんて、きっと大樹の加護がありますよ」という仲居の言葉に、春は仲居を見る。ふっくらとした顔の彼女はなんだか幸せそうに微笑んでおり、春は首を傾げた。「大樹の加護、ですか?」
「この村には、大樹に嫁いだ巫女がいたのです。そのお方は、大樹の子を産んで……その子が、当代の宮様、その人なのですよ」
仲居の話す物語に、春はつい考え込む。当代の主の母君、ということだろうか、とそこから糸のように「彼」の顔が浮かび、春は我知らず服の胸元を握っていた。
「湯殿はここです。それでは、ごゆっくり」
軽い足取りで去っていく仲居の背を見送って、春は湯殿に入って服を脱ぐ。湯殿といってもそれは、宮のそれとは違って小さく、窮屈なものであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます