煩い

@erua

第1話煩い

 部活の顧問に急用が入ったらしく、放課後が暇になった。しかし私は帰る気が無かった。部活がないのはどうでもいいのだ。悶々とした気持ちの中、話しかけた友達は部活やアルバイト、遊び等それぞれ用事があるらしいのでどう時間を潰せばいいのか悩んでいた。


 そして、ふと思いついたのが図書室だった。入学して一度も行ったことのない、ましてや場所もうろ覚えのあそこに一度くらいは行ってみてもいいだろう。廊下ですれ違った担当学年の違う物理の先生に正確な場所を訊き、一度でも通ったかどうか覚えていない廊下を歩きながら見慣れない窓の外を眺めつつ、図書室へ向かった。


 ぐるりと室内を一周してみると、私以外誰もいないことがわかった。委員会の人もいないと知った私は、「もしや今日は入ってはいけない日なのだろうか」と一瞬不安を感じたが、鍵は開いていたし、注意されたら退室すればいいとも思った。


 しかし、思っていた以上に図書室はつまらない空間であった。私が知っている本は一つもないし、興味をあおる本もない。陽に焼けて茶色くなった文庫本のタイトルを眺めていると飽きてきた。


 壁側の座席を見る。ガラス窓からの斜光の中には埃が漂っている。ざあっと流れる埃は煌めき、そして消える。それは途切れることもなく、光のパイプの中を縦横無尽に、しかしゆっくりと動き回る。その流れに私は時間の流れを感じた。


 私は静かに椅子へと近づく。斜光の中身は私の接近に混乱する。窓際だからか少し蒸し暑く感じたので、私は茶色く錆びついた錠を解き、窓を半分ほど開けた。ゆらりと、汚く濁った白色のカーテンが動く。入ってきた風はとても心地よいものだった。

 パイプ椅子を手前に引き、座る。手に持っていた鞄を机に乗せると、埃が舞ったのを腕に感じた。その感覚は正しく、鞄を少しずらすと鼠色の粉末が現れたのだ。机に触れた鞄の面を見ると、黒革が真っ白になっている。


 ムッと眉根に力が入った。


 だが、この気持ちは誰かにぶつけるものではないと思った。それにぶつける相手がいないし、強いていうならこんなに埃っぽい場所で机に埃が溜まっていないわけがないのだ。


 鞄の上に肘をつく。頰を乗せて外の景色を眺める。二階からの景色は毎日のように見ているが、四階のここの景色はとても新鮮である。快晴の下に広がる住宅の屋根。遠くに見えるマンションのバルコニーには服のような何かがかけられている。


 掛け声のような音が聞こえる。グラウンドは私が向いている反対側だっただろうか。その声が聞こえてから暫くして、ぽんぽんとゴムボールの弾む音が聞こえ始める。その音は私にとって心地よかった。鞄の上に頭を乗せ、片耳をそちらの方へと向ける。すると別の方向から、吹奏楽部が演奏を始めた。ボールの音が少し消される。その音楽はどこかで聞いたことのあるような曲だった。しかし曲名が思い出せない。思い出せそうで思い出せない、もどかしい感じがしたが、すぐにどうでもよくなった。


 青空の中を直進する飛行機を視認する。ゆっくりと動くそれを眼で追いかける。――私はぱちぱちと瞬きをした。埃っぽいからか乾燥しているのだろう。眼をこする。


 しかし何故誰一人として図書室に来ないのだろうか、と私は不思議に感じた。図書委員会の人達が貸し出しの受付や鍵を管理しているのではなかっただろうか。けれど今日は鍵が開けっ放しだし、一周したときにカウンターに鍵は置いていなかった。かけ忘れなのだろうか? いや、わからない。もしかしたら今日の委員の人が欠席で、先生が鍵を開けてどこかへ行ってしまった可能性もあり得る。それか委員の仕事が面倒で、サボってどこかで友達と駄弁っているのだろう。ああ、そんなことに違いない。そういえば――クラスの図書委員って誰だっけ……? 


「…………え」


 空に星が散らされ、

 部屋は暗く、

 音がなかった。


 見たことのない世界を見回し、数秒後にようやく私はここがどこなのか、何故こんな場所にいるのかを思い出した。頰にへばりついた髪を手で払う。もう一度周囲を確認する。驚いて小さく叫んでしまったことに恥ずかしさを覚えるが、ふうと息を漏らす。――こんなことやったって、意味ないのに。


 誰もいない。

 人気がない。


 携帯電話を取り出し、時間を確認する。八時〇分。こんな時間まで寝ていたのかと私は驚いた。鞄を持ち上げ、片手で埃を払って図書室を出る。鍵の場所なんてわからないし、職員室に行けばあるかもしれないが、理由なくこんな時間まで学校にいることを咎められるかもしれないので放っておこう。


 音を立てないようにそっと扉を閉め、階段を降りる。


 下駄箱で警備員と鉢合わせる。私はギョッとしたが、彼が「こんな時間まで部活動ですか。大変ですね」と言ったので私は「ありがとうございます」と頭を下げた。


 早足で校門を出て、携帯で次の電車の出発時刻を調べた。次の電車は五分後。学校から駅へは歩いて十五分かかる。走っても私の脚力だと間に合わないので、私はため息を吐いてから歩き始めた。


 暗くなった通学路を歩くのは初めてではないが、一人で帰るのは初めてだ。寝起きの重い頭を人差し指で掻く。友達からなにか連絡が入っているだろうかと確認するが、何も入っていない。


 赤信号に引っかかった。しかも二車線の道路で歩車分離式だから、渡れるようになるまで数分かかる。友達と喋っていればそんなことは気にしないのだが。


 私は信号が変わるのを待たずに、歩道を歩き始めた。この道路は高架が降りてきて最初の信号である。だから少し進むと、信号待ち無しで横断できる高架下の横断歩道がある。少し遠回りになってしまうのだが、一人で黙々と歩けば待つより早く駅に到着できるのだ。


 別に急ぐ理由はない。近道をしても電車には間に合わない。

 だが、歩かないと気が紛れないのだ。


 横断歩道を渡る。

 細い道に入る。私の足音が響く。


 音楽でも聴くか、と私は思った。鞄のポケットに手を突っ込み、イヤホンを取り上げる。そしてポケットから、


「え?」


 目の前に兎がいた。


 純白の兎。両手に乗せられるくらいの小柄な小動物は、水銀燈の明かりに照らされている。私を見ているらしいその瞳は木の実のように小さくて丸く、そして赤い。


 ピクリとも動かないので人形かと一瞬思った。しかし凝視すると目の前の兎は鼻を小刻みに動かしており、生の証拠を認識する。少し近づいてみるが、兎は逃げない。白い体毛が微風で揺れているのがわかる。


 近くの家から逃げ出してきたのだろうか、と私は考えた。

 だがどうしよう、とも私は考えた。


 何もせずこのまま駅に向かうのが一番だと思う。だが、この周辺は車が頻繁に通るし、田舎ではない。野生の動物がのびのびと生きられる場所ではないのだ。ましてや、飼い主がいるのなら返してあげるべきだろう。しかし、仮に捕まえたところでどこへ連れて行けばいいのだろうか。そもそも、兎はどうやって手に持ってあげれば良いのだろう――


 突然、兎が走り出した。


「あっ」


 私は手を伸ばすが、首根っこを掴んで良いのだろうかとためらった。私は放っておけず、後ろから兎を追いかける。子供だからか走るのは早くない。頑張って足を動かし、どこかへ向かっているようだが、なんとなく、ずっと私を見ているように感じた。


 到着したのは公園だった。


 駅へ向かう道の裏にこんな場所があるとは知らなかった。薄暗くてはっきりと見えないが、象の絵が描かれた滑り台と黄色く塗装されたブランコ、木製のベンチがあるのはわかった。


 兎は公園の隅の、木の下の茂みへ入って行った。ゆっくりと近づき、木の根の方を覗く。


 私は驚いた。


 兎が二匹に増えたのだ。先程の白い兎と、もう一匹黒いのがそこにいた。二匹とも私を見ているようで、顔をこちらに向けている。


 すると、白い兎が黒いのへと身体をすり寄せた。黒い方は嫌がる様子もなくそれを受け容れる。顔を擦りつける白い兎は暫くそんな動きを続けた後、黒い兎の背中に顎を置いて動かなくなってしまった。寝たらしい。


 私は二匹を見て、心の奥がじわりと温められた。

 同時に、心の奥でつっかえていた塊が霧散した。

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