2-36:邪竜討伐、英雄の帰還

 一瞬白かった目の前が暗くなったのちに、ラインハルトの目の前にあったのは知らない男の顔だった。何事か言っているが、生憎とラインハルトには読唇術の心得はない。手のひらに感じるのは剣の柄で、様子を見る限り目の前の男との決闘の後だと知ることができた。


「――なたの、優しさは、踏み躙られ――」


 時折耳に何か聴こえてきた。震えて、大きな感情を押さえつけた声だ。

 己の腹には男の持っていたであろう同じものが突き刺さっていた。決闘に負けて、そして死ぬのだとわかった。その致命傷を除いて互いの体に目立った傷はなかった。拮抗した実力のせいだろう。


(よかった。弟を殺さずに済んだ)


 体の持ち主は心の底からそう思っていた。この決闘への躊躇いで、どうしても目の前の男を傷つけられなかったのだ。ラインハルトはこの男の安堵を己のもののように感じていた。そして、全く知らない顔と古い武器の形状から、ラインハルトは自身が遠い昔の誰かの記憶を覗き込んでいるのだと理解した。

 男の顔には深い悲しみと、そして強い決意があった。彼は何か理由があって、大切だったろうこの人物を手にかけて、その死を背負っていくつもりなのだ。

 だんだんと目の前が白くなっていく。命の終わりが近づいている。ラインハルトは(あるいはこの男は)最後に目の前の人物をよく見ようと目を凝らした。


――バルタザールにいさん


 不思議と、彼がそう言ったことだけは理解ができた。




「――ルト、ラインハルト、ッごほ、」


 びしゃりと顔に何か落ちてきた。ラインハルトはそれで目を開ける。指先の一つも動かせなかった。瞼も鉛のようだった。


「起きろ、はや、く、ここを」


 ずるりとからだが動いた。引き摺られている。全身に鋭い痛みが走った。ラインハルトは呻吟する。


「ザカライ、ア」

「歩け、はやく、こんなところで、死なせない」


 ラインハルトは剣を支えに立ち上がった。一秒たりとも自立しないからだの下にザカライアが潜り込んでくる。彼も激しく咳き込んでいた。垣間見えたうなじに赤い紋様がのたうっている。今、彼は蛇蝎のごとく嫌悪した神の加護に頼ってここに立っているのだ。

 這いずるように歩を進めた。意識が千切れ飛びそうになる度にザカライアから叱責が飛んだ。

 ガラリと溶けた鎧が落ちた。皮膚も爛れている。なるほど、己はあのままあそこで倒れていたら死ぬ運命だったらしい。


「やった、のか」

「ああ、殺した」


 は、と笑い声が漏れた。これで殺し損ねていたらお笑い種もいいところだ。ようやく安堵した。気が緩んで瞼が落ちそうになると、ザカライアが傷口へ指を突っ込んだ。


「死ぬな。決して、僕より先に死ぬな」

「……お前は死なぬからな」

「そうだ」


 お前が殺せ。そういうザカライアの声を今は聞きたくなかった。あんなものを見た後だからだろうか。遠い昔に、兄を殺した者の悲嘆に満ちた顔を。

 馬の蹄の音が聞こえる。ブルーノだ。


「ラインハルト、ザカライア!」


 馬を飛び降りたブルーノがまとめて地に崩れ落ちる二人を受け止めた。



 紛れも無い、竜殺しの英雄の帰還だった。


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