2-34:ラインハルト、邪竜と交戦する

 何も聞こえなかった。ただ、魔力の経路が熱い。身の内から燃えて全身に火が付くのではないかと言うほどだった。

 ブルーノの後ろに乗っている時からじわじわと魔力は溜めていた。滴石を通して繋がっているザカライアもすぐに気がついたのか、こちらに合わせて「魔術式」の消化に取り掛かったらしい。徐々に圧縮の度合いも上がっている。

 馬から直接飛び上がって竜の足に取り付いた。ここまでは前と変わらない。


「っ!」


 強く風が吹き付けた。ラインハルトは腕の力でからだを引き上げる。竜は飛び上がったらしい。風を耐えながらラインハルトは竜のからだへ登った。


(気づいているな)


 己の手のものが何なのか、竜は知るようだ。唯一この鱗を徹すもの。神の加護を打ち破るもの。毒で濁った思考でも知るというのならば、これは彼らの根底に刻まれた恐れだ。

 剣の柄を握り込む。起きよ。そして殺せ。悠久の昔、己らの祖先と共に成した様に。


「くそ」


 竜はからだを揺さぶった。前とは違って本気でこちらを振り落とそうとしている。ラインハルトは空いた片手に短剣を握りしめた。軍の支給品の一つだ。

 毒で軍靴が溶けて滑る。足元は不安定だ。さらに全身の魔力は例の魔力を溜め込む魔道具に向けて注ぎ込んでいる。魔力による肉体強化の一切を使わずにこれを耐えなければならない。

 竜が大きく身をくねらせる。ラインハルトのからだも傾いで行く。瞬時の判断で足を前に出した。駆け出した。


(首を)


 竜の頭がこちらを向いた。白濁した瞳がぐるりと動く。視力が落ちているようだ。しばらく背中に乗ったものを探してうろうろと瞳を彷徨わせた。

 目が合った。竜の瞳孔が小さくなるのがゆっくりと見えた。横に大きく裂けた口が開く。粘ついた口内に溶けてガタガタになった牙が覗いた。


(首を、斬り落とす)


 二度と起き上がらぬように。完膚なきにまでに殺す。胴と首が分かれては毒を吐くことも叶わぬだろう。だからそうする。

 竜の目に僅かな理性が戻った。一瞬ではあるが輝きを取り戻したのだ。ラインハルトは見逃さなかった。ほんの僅か、大気のマナが乱れたのを肌で感じた。目を走らせる。


(魔力弾、)


 視認した後は考える間もなくからだが動いた。さっきまで居た場所に魔弾が撃ち込まれている。尋常な速さではない。これが古くより生きるものの力だ。


(次、まだ来る)


 今度は背中側からだった。目で確認は出来なかったが感覚を頼りに躱した。空に千切れた髪が舞う。――追撃はこれで終わらない。しかし間に合わない。右手の大剣は盾として振りかざすには重すぎる。


「!」


 左手だ。短剣に誰かの魔力が宿った。己のものでもザカライアのものでもない。彼ならばすぐにわかる。

 しかし確実に使えるものだ。直感的にそれを理解したラインハルトはこちらの隙をついた魔弾を短剣で斬り裂いた。これまでに斬り払ってきたどの魔弾よりも重かった。


(これ、あの博士の魔力か)


 確かギデオンといったか。後方部隊はかなり遠くに陣を敷いている。ここまでこんな小さな的へ向けて魔力強化を掛けるなど余程の手練れでないと土台無理な話だ。


「ギ、ガギ、グ」


 竜の口から妙な音が聞こえた。何か――あのヘドロだろう――吐き出す。そう直感した。

 狭い背中の上では逃げ場はない。落ちれば間違いなく死ぬ。ヘドロを被れば死体も残らないだろう。

 退くことができぬのならば前に出るだけだ。ラインハルトはからだの重心を前へ向ける。鱗を蹴った。もう軍靴が保たない。毒にまみれたこの竜のからだの上を長く動くことはできないのだ。


「ガ、ァアア、グァアア――ッ!」


 竜のあぎとからどす黒いものが迸った。ラインハルトは跳躍した。からだを宙空へと投げ出す。ヘドロが先ほどまで己があったところへ吐き掛けられた。猛毒がからだの横を掠めていく。皮膚が灼けた。

 ラインハルトは竜の翼めがけて跳んでいた。落ちながらもその目は竜の鱗の流れを読んでいる。少し逆立っているのはわかっていた。剣が通らないのも知っている。


(そこだ)


 ヘドロを吐いた後、竜は少し高度を下げる。そして下がった分を取り戻そうとして羽ばたく。此度も同じだ。竜は大きく翼を動かした。タイミングは完璧。ラインハルトは左手に握りしめた短剣を振り下ろす。


「――ッ!」


 強い衝撃と共に、からだが宙ぶらりんになった。目算通りに短剣は竜の羽の根元についた鱗の僅かな隙間に突き立っている。貧弱な縁を頼りに左腕一本でまた竜のからだの上へ這い上がった。短剣はこれで使い物にならなくなった。

 集中は切れていない。呼吸にも酷い乱れはなかった。しかし鎧や毒に晒された皮膚が灼け落ち始めている。


(かなり近づけた。後は――)


 ちらと目を落とした魔道具には魔力が満ちていた。ザカライアたちの方はうまくいっているらしい。

 こちらからの合図はこの剣を両手で持つことだ。これで剣へ魔力を注ぎ込む経路が確立される。

 ラインハルトは空いた左手もゆっくりと柄へ添えた。己の心音が聞こえる。がらにもなく昂ぶっているらしい。平静でいるつもりでいたが案外と血が沸いていたようだ。


(残り、六歩)


 ラインハルトは大きく踏み込んだ。魔力の解放の時はザカライアならわかるはずだ。もう何度も殺し合いをやって、互いの呼吸をわかっている。彼は決して背を向けてはならない敵だが、預けてもいい相手でもあった。彼以上に己を知る者はない。親兄弟はラインハルトの武しか見ていなかった。しかし、ザカライアは。


(三、二――)


 心臓の上に垂れた滴石が殊更に強く反応した。ラインハルトは薄く唇の端に笑みを刷く。


(一)


 ラインハルトは最後の一歩を踏み込んだ。鱗に足裏が着こうかというところで凄まじい量の魔力が経路を駆け上っていく。腕から発火したのかと思わんばかりの熱だ。その全てが剣へ向かって吸い込まれた。


――起きよ、そして殺せ。


 幾ばくの時を眠ったままで過ごしたのだろう。どれほどの年月を錆びついたまま無為に過ごしたのか。しかしそれももう打ち止めだ。この剣の本来の役目――竜殺し。遂に果たす時が来た。

 剣に彫られた経路の全てに魔力が行き渡った。契約は成った。ザイフリートと、古き時の名も知らぬ者との盟約。神殺しの力。


「ギ、ア、ガッ、ギィッ」


 竜の目にまた光が戻った。先程よりも強い。自らの生命の危機を正確に感じ取っているのだ。濁りきった表層へ、奥深くから正しい思考を浮かび上がらせたというようにも見える。しかしどうでもいい。これから殺す相手だ。

 視界の端には文字が浮いていた。これまでに見た何よりも字数が多い。しかし何より感じたのはその守りの力だ。じくじくと毒に侵されていた足に痛みを感じない。

 竜は吼えた。空気が震える。全ての生物の上に立つ竜が持つ強さの誇示だ。並みの生き物ならばここで膝を屈するだろう。しかしラインハルトにはこれが虚勢というのがわかった。

 正しく意識を取り戻した竜は四方から魔弾を撃ち込んできた。ラインハルトはその半数を大剣を用いて斬り捨てる。剣を振りかぶった勢いは殺さず、そのまま竜の翼の根元へと一撃を繰り出す。


「!」


 血飛沫が目の前に飛び散った。ラインハルトは瞠目した。

 通った。竜の肉へ刃が突き通ったのだ。硬い神の守護を破り、堅牢な鱗を退けた。そして、その下の毒に腐り蕩けた肉へ刃が立った。

 竜が体勢を崩した。翼の片方が千切れてはまともに飛べまい。ラインハルトは剣先を竜のからだへ突き立てた。生物の当然として、この竜も生き延びるべくもがくだろう。この高さから地面に衝突しては流石にダメージが大きいはずだ。

 風を切って巨体が堕ちていく。ラインハルトは剣にしがみついて振り落とされまいとした。竜の怒りに満ちた目がこちらを睨みつけている。

 地に着こうかというところで、ラインハルトは竜から飛び降りた。衝撃はあったがからだはどこもおかしくしていない。竜もギリギリのところで残った翼で羽ばたいた。強く風が吹き付ける。ラインハルトはすぐに追撃の姿勢についた。


(時間がない)


 もうじき魔力が枯れる。首を刈らねばならない。気は恐ろしいほど昂ぶっていたがそこは冷静だった。

 竜がまたヘドロを吐いた。こちらを害そうというよりは喉につかえたものを吐き出したような具合だ。ぶるりと身を震わせ、竜はガバリと口を開ける。


「く、」


 噴き出てきたのは炎だった。ラインハルトは剣で襲いかかる炎熱を払った。その小さな隙を狙って竜が牙を剥く。頭から食い殺そうというらしい。


「痛ッ、ぐぁ」


 突っ込んできた竜の頭を剣の腹で殴って軌道を逸らした。みしりと腕の骨が鳴った。バラバラと竜の鱗が降ってきて皮膚を切り裂く。機動力を確保するために最低限の鎧しか身につけていない弊害だ。

 足元に大きな影が落ちる。竜の前脚。そう思った瞬間にその場から転がり出た。後に地響きと土埃が立つ。ラインハルトは無理にからだを転じて竜を向いた。

 殺す。その一念だった。余所事は考えられなかった。ラインハルトはそうするとしたらその他の一切を捨てることにしていたからだ。


――殺す、必ず。


 いきなり重くなり始めた脚を叱咤して、浮き上がっていく竜の前脚へ取り付いた。飛び交う魔弾の半数は身を躱して避け、一部を斬り捨てた。異様な集中をしていた。ものはよく見えているのに、からだの動きが一歩遅い。

 剣を横薙ぎに振った。鱗に触れた瞬間から刃がその分解を始める。エレメントとやらに適性のないらしいラインハルトには鱗が光球になっているとしか見えない。しかし切ることができればもうどうでもいいのだ。


「グ、ギ、ギィイイイ!」


 竜の前脚を切り落とした。どろりと黒い血が流れる。片翼と片脚。機動力は随分落ちた。少なくとも、もう飛んで逃げることはないはずだ。

 竜の巨体が再び地に堕ちる。衝撃に耐えかねてラインハルトも膝をついた。しかし顔は竜を見ている。殺す相手から目を離してはいけない。


「くそ、っ……」


 立つのがやっとになってきた。剣が重たい。あと三度でも振れるだろうか。己の限界は己がよく知っている。だがやらなければ。そうしなければならないのだ。

 ラインハルトは立ち上がった。竜も上体を起こしてこちらを見据えている。

 同時に動き出した。


「――ッ、あぁあああ!」


 ラインハルトは身の奥底から大喝した。命の他はくれてやる気ですらいた。竜が迫っている。

 叫べ、斬れ。そして殺せ。


――何故、殺す


 声が聞こえた。誰何はしなかった。


(それしか、できないからだ)


 視界が白くなっていく。感覚も遠のいた。最後に耳に届いたのは轟音だった。



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