2-16:災厄、現る

「オルドレッド様、ユーロメリカ様を疑うわけではないのですが」

「一先ずは信じておいて欲しい。……何もなければそれでいいのだ。責めは俺が一人で受けよう」


 ザカライアの問いかけにオルドレッドは短く返した。ユーロメリカの遠見の力については俄かには信じがたい話であったが、オルドレッドは怯むことなくそう返した。


「もう、二日になりますか」

「ああ。だが、必ず災厄は現れるぞ」


 オルドレッドはザカライアと連携を取って素早く陣を敷いてしまった。東の方へ入れ替わり立ち替わり斥候を送り続けている。

 オルドレッドは王族でありながら、ヴェルゲニア国軍部にも籍を置いている。有事には自ら剣を取り誰よりも果敢に武勇を誇った経歴もあった。


「ユーリの遠見の力についてはわからんことの方が多い。しかし、あれもあの力とは二十年近い付き合いになる。「視た」ものまでの距離――どれほど時間的に遠い出来事なのかくらいはわかるようになっている」


 ユーロメリカはそれほど遠くの出来事ではないと言った。何より彼女は月の形をよく覚えていた。災厄は夜にやってくるという。ユーロメリカが見たのは満月。ここしばらくは月が太り続けており、もうあと幾ばくかで満月を迎えるほどの日だった。


「ユーリが見たものがどれほど先のことなのか正確に把握するために俺とやつの間でいくらか取り決めがある。月や太陽の位置、満ち欠け、植物の様子などな。……ユーリが花を好きで助かった。季節なんかはそのおかげですぐにわかる」

「……そうですか。ならば、信じます」


 もうじき夜が来る。夕日に焼かれた地平線を見ていると緊張が高まってくる。


「――伝令、伝令!」


 斥候にやったうちの一隊が戻ってきた。しかし、部隊ではない。二人だけだ。うち一人は馬の上にぐったりと横たわっていた。


「怪我人をすぐに運べ! お前は報告を」


 負傷した兵士は虫の息だが生きていた。傷を見るに裂傷や咬傷ばかりだ。オルドレッドはザカライアへ本隊を動かすように指示した。


「ま、魔獣が、北東から、クロ・ラフィルの方から、押し寄せて来ました」

「魔獣が?」

「はい、何かに追い立てられるように。何か……恐ろしいものから」


 東国クロ・ラフィルには魔獣が数多く生息している。基本的には縄張りから出てこない彼らが逃げ出してくるというのならば相当だ。


「わかった。……部隊は?」

「魔獣の群れに飲み込まれて。私と彼の他にはもう、どうなったか」

「……ご苦労だった。しばし休め」


 オルドレッドは長刀の鞘を払って踵を返す。本隊はすでに出動の準備を終えていた。


「出るぞ! 目標は北東! かなりの数の魔獣が押し寄せるぞ!」


 オルドレッドは馬へ跨り隊へ合図を出す。進軍が始まった。


(……しかし、妙だ。ユーリが「視た」と言っていたのは群れではなかった。しかも、魔獣の群れも逃げているだと? 一体何から逃れているのだというのだ)


 日が暮れた。同行している魔術師たちが魔術で明かりを灯し始める。敵対している東国との折衝点であるこの砦は、中央での存在感は薄いが重要な拠点ではある。兵の練度もそれだけ高い。


「オルドレッド様、進みますか」


 ザカライアがオルドレッドの横へ馬をつける。ザカライアの北方魔獣征伐の腕は見事なものがあったと報告には聴いている。彼は夜間の行軍の危険もよく知っているはずだ。


「……進むぞ。魔獣の群れともまだ遭遇していない。本国からできるだけ距離を稼がなければならんだろう」

「わかりました。では、そのように動きます」


 後方の城にはユディアを残して来た。ブルーノもラインハルトも此度の行軍に伴っている。まだ十五の少女に任せるには広い場所だ。敵の一握りも通すわけにはいかない。可愛らしいのは見た目だけの生意気な妹ではあるが、ユーロメリカが酷く心配していたのだ。

 月が天高く登った。見事な満月だった。オルドレッドは一人手綱を握りしめる。


「――前方、敵影あります!」


 彼方から土煙と地響きを連れて魔獣らはやって来た。結界師たちが結界を展開し始める。魔術師は魔弾を構えた。


(敵意がない)


 オルドレッドは彼方の群れがこちらへ敵意を向けてないのに気がついた。魔獣の魔力パターンには独特の癖があり、敵意を向けられるとそれとわかる。


「なんだ、あれ」

「どうした」


 オルドレッドの隣で敵情視察をしていた兵士が呟く。


「魔獣たちの様子がおかしいんです。具合が悪そうというか。……皮膚が爛れている個体も多くて」

「皮膚が?」


 オルドレッドは兵士の言うままに己でも遠見の法を用いて魔獣の群れを観察する。たしかに、魔獣たちはすでに害された後という様子だった。脚を引きずり、溶け落ちた毛皮を振り捨てて逃げている。力尽きた個体は倒れて踏みつけられていく。


「あれは……毒だろうか」


 刹那。月が翳った。オルドレッドは頤を上げる。ざわりとうなじが粟だった。

 それは明るく輝く月を背負って夜空にあった。威容を誇る巨大な羽根と月光を跳ねる鱗。オルドレッドは、否、ここにいる全員がこれを絵物語でしか見たことはなかった。


「竜か」


 ――竜。最強の種。魔生物の頂点に君臨すると言われており、事実その通りである。善性悪性様々な性質があり、どれもが強力な魔力を備えているとされている。無論、実際に目で見たことがある者の方が少ないような生物だ。主には北国オーレリウスに棲みついている。

 竜は吼えた。地鳴りで足元が定まらない。本能的な恐怖を覚えていた。

竜は身震いして口から何か吐き出す。ヘドロのようなものだ。酷く臭う。


「ッ、毒だ! 魔獣共はこれに追い立てられたのか!」


 オルドレッドは怯みそうな己を奮い立たせた。ユーロメリカが「視た」のはこれだったのだ。溶け落ちて悶絶する魔獣たち、怯える人々。まさしく地獄だった。


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