1-15:理論魔術研究所、襲撃される
アーサーの体内魔力の混乱が正常になものに戻るまでに実に三日を要した。呪術恐るべしと言うところであろうか。あれでかなり手加減したのだというから、本気になったエリザベスの呪術はいかほどかというところである。死ななくてよかったと自らの行く末にアーサーは天上の神へ手を合わせすらした。
「今日はなんなんだ」
「昼はパンケーキですよ。甘くないやつ。昨日の夜からソース仕込んでおいたので楽しみにしててください」
「ほう」
今日のエイベルは随分元気そうだ。十代半ばほどの女の子の姿をしている。可愛らしい見た目なのでこれでパンケーキを頬張っている様は案外と癒されるのだ。
「……はて。妙ですなあ」
ギデオンは手のひらを眺めている。彼は何やら新しい結界の理論について詰めているようだった。
「博士、どうかしました?」
「いやなに。私の思い過ごしでしょう。少々マナが集まりづらく感じましてな」
「え? うーん、言われてみれば確かに……?」
どこかで魔術でも使っているのだろうか。やや離れた場所とは言え、この研究室は街の傍にある。工事でもやっていれば自然そちらへマナは吸い寄せられていく。
「……それもそうだな。俺が妙に元気だ」
「いやエイベルさんそれは流石に自虐すごいですよ」
アーサーは軽く笑って台所へ向かう。マナ結晶を火口に入れて火をつけた。話しながら作っておいたパンケーキのタネを引き寄せ、鉄のフライパンにバターを敷いて炙った。油脂の食欲を誘う香りが部屋中に撒き散らされる。これは如何なる人間であっても腹の空くにおいだ。
「あれっ」
パンケーキのタネをフライパンに流し込んだところでアーサーは小さく声を上げた。鉄のフライパンに見事に丸く着地したタネはじゅうと音を立てたがほんの短い時間だけだった。不思議に思ったアーサーはフライパンを上げて火口を確認する。
「ええ?」
火が消えている。火口には十分なマナ結晶を入れたはずだったが、それも消えて無くなってしまっていた。
「おかしい、マナが――」
ギデオンはそう言いかけた。と、背後にしていた窓が大きな音を立てて割れた。ぎゃあとアーサーが悲鳴を上げた。
「『マナよ、』」
「魔術式」を唱えようとして、ギデオンは呼びかけるべきマナが大気にないのに気がついた。窓からは下手人が入り込んできている。数は三人。うち一人はまっすぐにギデオンへ剣を振り下ろしてきた。
「わーッ!」
ガキンと金属同士が触れ合う音がした。火花が散る。ギデオンの目の前にはアーサーの背中があった。視界の端をパンケーキのなり損ないがすっ飛んでいった。
「ぼ、暴力反対!」
「チッ」
どうやらアーサーは咄嗟にギデオンと下手人との間に割って入ってきたらしい。引きこもりの研修者たちに混じってこそいるがアーサーは案外と肉体派の面がある。牧場で魔生物に振り回された経験は、咄嗟にフライパンに魔力を通す強化魔術をかけて剣撃を防ぐまでを助けてくれた。
「博士、この人たちお知り合いですか!」
「生憎と知った顔はありませんな。しかし、大方大賢者の差し金でしょう。彼らの装備は親衛隊のものです」
ギデオンは部屋の外へ目を滑らせる。中に押し入ってきた三人の他に二人だ。おそらく結界を張ることを専門にする者たちだろう。部屋の中のマナに違和感を覚えたのは間違いではなかった。彼らが外界とこことを遮断してマナを勘付かれぬようにじわじわと吸い出していたのだ。
「マナがなければ即座に魔術は使えまい。前は時間を掛け過ぎた」
前にギデオンを襲った連中の持ち帰った情報を分析して対策を立ててきたのだろう。全くもって正しい判断である。魔術においては右に出る者がいないギデオンであっても白兵戦は完全に素人だ。アーサーやエイベルは言わずもがなであろう。現に、見境なしにギデオンへの凶刃に飛び込んだアーサーは次の手に移れずにいるし半分パニック状態だ。
「そこの死に損ないをやれ。一人たりとも逃すな」
命を受けた兵士がエイベルの方へ動き出す。ひ、とエイベルは引き攣った声を上げた。
「エイベルさん逃げて! っ、くそ!」
アーサーは叫ぶ。途端に前に立つ兵士からの押し込みが強くなった。折れそうになる膝を叱咤して懸命に耐える。背中のギデオンを傷つけさせるわけにはいかない。
アーサーに庇われたギデオンは何やら口の中で唱えていた。「魔術式」の形式をしているようなのでたぶんそうなのだろう。しかし大気にマナはない。いかな天才といえ媒介がなければ魔術を発動することはできないのだ。
僅か三歩でエイベルとの距離を詰めた兵士は淡々と剣を振りかざした。彼がこれまで奪ってきた命と同じように、エイベルのそれをも刈り取ろうというのだろう。
「『――をマナとせよ』」
「は、博士……ッ!」
風を切って剣が振り下ろされる。アーサーは思わず目を閉じた。
「――『マナよ、連なれ!連なりて防壁たれ』!」
緊張した空間を切り裂いたのはギデオンの「魔術式」だった。途端、ガラリと机が崩れて乗っていた資料が宙を舞った。しかし、その隙間には血飛沫も、絹を裂くような悲鳴もない。
「へ、へぇ?」
恐る恐る目を開けたアーサーの視界に飛び込んで来たのはぐにゃりと歪んだ結界と、それに包み込まれた剣だった。結界の中にはエイベルが蹲っている。彼女も何が起こったかわからないという様子だった。
「従来の結界はマナを格子として並べるだけのものだったので魔力強化された剣は防ぐべくもないものだったのですが、今度は単にマナを連ねて紐状に並べ面を作ることで結界とし、衝撃を受けた際に伸び縮みして受け流せるようにしてみました。机をマナへ分解したのは些か惜しいことをしたとも思いますが致し方ありませんな、ローレンソンくんの命とは比べ物になりません故。――ハッ! この伸び縮みの程度はきっちり考えないと! これは無意識にやってしまっておりましたな! 失敬!」
「博士ェー!」
アーサーは歓喜の声を上げた。兵士は舌打ちして片足を振り上げた。アーサーへ蹴りを入れて体勢を崩そうという魂胆なのだろう。しかしその重心の変わった隙を見逃さず、アーサーは逆に敵の懐へ飛び込んだ。人体の急所に無邪気に飛び込んでくる魔犬の相手をしてきたアーサーには慣れた迎撃法だ。
「アーサーくんそのまま!あと少し押さえ込んでいてください!」
ギデオンは弟子が決死で作った時を逃さずに身を翻した。こちらの抵抗に備えて構えていた残り一人が突っ込んできていている。ギデオンは両脚へ魔力を回し、筋力を上昇させた。さらには目にも同じことをする。ごくごく普通の市民が武器を持って、こちらを殺そうとする兵士と渡り合うにはこれくらいの強化は必要だ。
(右!)
ギデオンは振り下ろされた剣を飛び退って躱した。普段運動もしない老体にはやや辛い。
魔術を用いた戦闘の際に重要なのは冷静さを失わないことだ。理論魔術はその性質から感情面での揺れを打ち消してくれるが、焦りは魔術の正しい利用には決して結びつかない。賢者候補として戦場に何度か立った経験はこういう時には多少役に立つらしい。ギデオンはかなり冷静だった。
ギデオンは勢いよく脚を踏み込み、返す剣を振ろうとした兵士の懐へ飛び込む。成功するかはわからない。だが、やらねば死が待つのみだ。
「な、ッ!」
ギデオンは兵士のからだへ触れた。「魔術式」など浮かばなかったが仕方ない。今からやろうとしていることはあまり「魔術式」化に向いていないからだ。
ギデオンは自身の魔力を腕を通じて兵士へ送り込む。
(対象をより具体的に絞り込む。より近く、より深く。極限まで絞り込み、魔力で働きかけていく――)
ぐらりと兵士のからだが傾ぐ。ギデオンはさらに集中の状態を一段階上げた。
(掴んだ!)
伸ばしていったギデオンの魔力が兵士の魔力溜まりへ達したらしい。「掴んだ」感覚があった。それを勢いよく兵士のからだから引き抜く。ゴトリと何かが足元へ落ちた。
「博士!」
「ローレンソンくん、心配はご無用ですぞ。……エリザベスくんの呪術から発想を得て体内魔力へ直接働きかけてみたのですが。ううむ、なかなか、難しい」
兵士は体内魔力をごっそり抜かれて倒れていた。足元に固まっているのが彼の魔力を結晶化したもののようだ。
「道具の手も借りずに他人の体内魔力に働かきかけるとは! やはり博士は天才だ!」
「ははは、ローレンソンくんに褒められるとなかなか面映ゆいものがありますな、ははは」
「クソ!」
残った兵士が口汚く何か罵っている。ギデオンは再び気を引き締めて彼らへ向き直った。彼らも馬鹿ではないので、同じ手は二度と通じないはずだ。
(さて、どうしたものか)
兵士の注意が己から離れたのを悟ったエイベルは、床に転がっている魔力結晶に目をやる。そして、それに向かって手を伸ばした。
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