第3話 夕顔 後編
夕顔 後編
「付き合わなくても良いんだぜ」
「花火の絵をもらわなきゃ」
児童相談所は隣町の市庁存在地に有り、電車で四駅だ。昨日の朝、お母さんが真広を連れて預けに行った。
今日は家で保護した時に着ていた衣類を届けに行く。忘れ物だ。
隣町は栄えているとは言えない。アイオンが私達の町に出来て駅前の商店街はシャッター街に成った。自動車に乗れない人は不便だろう。
シャッター街を過ぎた町の中心部に児童相談所は有る。児童相談所の玄関をトントンと叩く。堅苦しい保育園の様な施設だ。
職員の女性が出てくる。帰り支度をしている途中の様だ。
「
「はい?畑中さんは昨晩、実のお母様が引き取りにいらっしゃいましたが」
それはおかしい。家庭裁判所の結果が出るまで、一時保護するという話しだったはず。
「真広は虐待されてたんだよ。なんで母親に引き渡す」
「そう言われましても、親権というものが有りまして」
「親元には帰らないって言ったんだよ」
「そうなのですか」
「そうなのかじゃねえ、家庭裁判所にも行ってんだ。ここに書類も提出した」
「私では分かりかねます」
私の肩をポンポンと叩くと日葵が前に出てきた。日葵と職員の距離は普通の他人同士の距離より近い。日葵が相手を威圧する時の距離だ。
「親権が強いと言いましても、真広自身がはっきりと親元には帰らないと言ったではありませんか。それに家庭裁判所への申立はご存じですよね」
「それは真夜中に来られたので。家裁の事は私は知らないのです」
「まさか本人の意志を確認しなかったのですか」
「ええ、ですから私は」
「確認しなかったのですね。桐葉さんのお父様から提出された書類も」日葵はさらにずいと踏み込んだ。相手を見上げる形で、目を見据える。
「この仕事はとても忙しいのです。特に真夜中に来られると確認出来ない事も」
「忙しさを言い訳になさるおつもりですか」
「ですから」
職員のエプロンのポケットで何かが鳴る。彼女は構内携帯電話を取り出すと通話を始めた。
日葵はおもむろに腕を伸ばし、職員の電話を奪い取ると、通話の切ボタンを押した。そして彼女の手の中に返す。
「今はこちらを優先して頂けませんか」
不味い日葵のスイッチが入った。日葵が嫌われる理由の一つがこのトラブル癖で、怒ると相手を論破するまで止まらない。こう成ると私にも止める事が出来ない。
「いいでしょう。手違いならしかたが有りません。職務怠慢には違い有りませんが」
「はい」
職員が目に見えて怯え始めた。
「速やかに一時保護の再開をお願いします」
「分かっています」
「お名前をお聞きしていません」
騒ぎを聞いていた所長らしき人物が介入して凄む。
「いい加減にしないか、君達高校生だろ。大人の仕事に口を挟まないでほしい」
日葵は怯まなかった。
「いいでしょう、そちらがそう仰るなら。どのような仕事の大人ならばご満足頂けますか」
「何を言っている君」
「一時保護の再開をお願いしますとしか言っておりません、トノダ所長」
「分かっている。今は帰ってくれないか」
追い出されて、相談所近くの公園に行き着き、その東屋で燻る。
真広の家には両親が行く事に成った。
「警察には連絡した」
小さな石橋の上で何やら電話していた日葵が隣に座る。そのさらに隣に五十嵐が座る。
「民事不介入で期待出来ないけど」
「他に何か出来ないのか」
「高校生で出来るのはここまで」
「あれだけ大人を脅せるのにか」日葵は事前情報無しに相手の譲歩を引き出した。
「
「おじいさまに頼もうか」
「よしなさい、
「待ちましょう」
己の無力を感じる。私には日葵の交渉力も、五十嵐のコネも無い。時間だけが過ぎてゆく。
「水を買ってくる。何がいい?」
日葵が気を利かせる
「何でも」なのにぶっきらぼうに私は答える。
日葵は三本の『いろぱす イチゴ』を買ってきた。五十嵐が目を輝かせる。五十嵐の好みを優先したらしい。私は『いろぱす』を一気にあおる。
それからも、私は苛立ちを募らせる。
五十嵐は『いろぱす イチゴ』を温くする為胸に抱き、日葵の肩ですやすや眠る。日葵も五十嵐の頭にさらに頭を重ね、焦点のぼやけた目をしばたかせている。私は所在なく辺りをうろつき廻る。午前中とは言え暑い
日葵のスマートフォンが鳴った。意外にも警察が見付けたのだ。
見付かったのは、真広の母親の実家でだった。畑中の親族会議では真広の保護が決まっていたが、それ以上には手が及んでいなかった。
太陽が真上に昇る頃、警官に連れられて真広は児童相談所に帰ってきた。
「言ったろ、行政なんて碌でも無いって」
「真広、良かった」私は膝を突いて、真広を胸に抱える。
「大丈夫、虐待はされなかった。ばあちゃんの目が有ったから」
「ごめんな、花火の絵はばあちゃん家に置いてきた、描き直すから待ってくれないか」
真広は、日葵の方に向き直ると謝った。
「いいよ、待ってる」
日葵はやさしく真広の頭を撫でた。
私達の町に帰ってくると、三時過ぎだった。
「日葵、真広の為に色々有難う」人様の事には知らぬ存ぜぬの日葵が、真広の件にこれほど介入するとは驚きだった。
「香織の為だから」
「変わったな、日葵」
「そう?」
日葵は五十嵐と付き合い出してから少し変わった。日葵の世界は五十嵐一サイズ分、拡がったのかも知れない。
「麦茶を飲んでいかない」
駅と私の団地の間には日葵の家が有る。隣町でイライラしていた私は脱水に成っていたので、ご馳走に成る事にした。
五十嵐はごく自然に日葵の家の戸棚を開けてマグカップを取り出すと、インスタントコーヒーを入れる。
「麦茶じゃ無いのか」
「お腹が冷えるから」
「ふーん」そう言えば『いろぱす』も温くして飲んでいたっけ。
私は麦茶を何杯もお代わりした。
「今日は有難うな」
「どういたしまして」
日葵の家を辞して、団地までの帰路に就く。ドアを開けて入ると、一人だ。
一人欠けた我が家は、何か落ち着かない。たった数日だけだったが、真広は家族だった。
よく分からない行政上の手続きをもって、真広は我が家に帰ってきた。恒久的な決定は家庭裁判所待ちだ。
両親に連れられて帰ってきた真広をひしと抱く。
「お帰り真広、また海に行こう、花火をしよう」涙が溢れ出す。
「まだ、家裁が残っているって。でもお腹が空いた」
確かにもうすぐ昼の時間だ。真広にご飯を作ってあげよう。
「買い物行こうか」
「行く」
「お母さん今日の当番変わって」
「有難う、母さんも疲れたから助かる」
玄関から買い物カートを取り出すと、団地内の私道に出る。午前中からジリジリとした日差しが照りつける。
「自転車じゃ無いのか」
「授業で自転車の二人乗りは禁止って言われた。警察に捕まるって」
「そうか、安心した」
心底ホッとされた。二人乗りする相手も居なかったので気にも留めていなかったが、最近は駄目らしいのだ。
「自転車使わないとアイオン遠いな」
「この前、帰り必死だったじゃん」
「どっちの方が楽なんだろうな」
行きは自転車で降りるだけだったが、帰りは数キロの断続的な登り道だ。流石に自転車に乗って登る体力は無く、押して登る。電動アシスト自転車なら良かったが家には無い。
アイオンまで来ると、港で大漁旗が沢山挙げられている。
「そっか港祭だ」
「何有るんだ」
「魚や貝やタコやエビ、あ、ウニも有る」
夏のこの時期、港では祭をする。踊りや囃子が有る訳では無いが、旬の魚介類が安く手に入る。その場で焼いて貰って食べる事も出来る。
「苦手かも」
「私の料理次第さ。カレイのお煮付けなんていいな」子供の頃は私も魚介類が苦手だった。お母さんやお父さんの料理法が間違っている事に気が付いたのは、中学校の料理実習だ。たっぷりと脂が乗ったカレイを買って帰ろう。
「そうか、行こうぜ、お姉さん」
「おうよ」
私達はアイオンを素通りして港まで降りていった。網焼きの美味しい匂いが漂ってきた。
終わり
夕顔 しーしい @shesee7
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