第135話 副宰相が向かう場所

 暗闇の中、夕日に似た小さな明かりが不規則に揺らめく。隠し通路の扉が閉じる前に、アーノルドが灯した角灯の明かり。ステラたちは茫洋としたそれをしるべとして進んでいく。


 通路のはじめは階段になっていて、そのまま地下へ通じていた。身をかがめなければならなかったのは最初だけ。天井は意外と高く、階段を下り切った先の通路もかなり幅が広い。


 ほっと息を吐いたのはひとときのことだ。すぐ、表情を引き締めて行軍を再開する。


「ここは王宮から街に伸びている隠し通路のひとつだ。皇族などが避難するためのものらしい」


 捜査官の語る声は、壁と天井に幾度も跳ね返る。


「そういうものがあるだろうとは思っていましたが……実際にこの目で見ると、なんだか感慨深いですね」

「不愉快な話ではあるがな」


 好奇心に目を輝かせるジャックの隣で、オスカーがうっそりと呟いた。アーノルドは苦笑して、一瞬だけ二人を振り返る。


「帝都の内外、様々な場所に通じる道があるらしいよ」


 ジャックたちが感心したようにうなずいた。一方、レクシオが首をかしげる。


「……っていうか、この道はなんでさっきの店に繋がってるんでしょうね?」

「それが、私にもわからないんだ。ご主人は何か知っていそうなんだが、尋ねても教えてくれなくてね」


 尋ねたことがあるということだ。意外と思い切りがいいんだな、とステラは目を丸くする。同じことを考えたようで、ミオンも瞠目して捜査官の背中を見つめていた。


 そんな一幕を挟みつつ歩くこと、しばし。ジャックが軽く息を吐いて額をぬぐったところで、アーノルドが立ち止まった。彼の背後から顔を出したステラたちは、思わず驚きの声を上げる。また、短い階段があったのだ。


 先にアーノルドが一番上まで行き、その先の壁を叩いた。かたい音が独特の拍子を刻む。


 その音が完全に消えた、少し後。壁が上へと動き、隙間から白い光が差し込んできた。筆記具の店の隠し通路と同じであると、学生たちはやや遅れて気づく。


 アーノルドが、光の方へ話しかけた後、ステラたちの方を振り返った。


「みなさん、こちらへ」


 声がけに応じて、五人も足を踏み出す。ジャック、ステラ、レクシオ、ミオン、オスカーの順に階段を上り、一人ずつ壁の穴から顔を出した。


「ここは……」


 驚きと感嘆が入り混じった声を上げ、ジャックとステラは目の前の光景に見入る。


 そこは知らない部屋だった。孤児院のステラの私室が二、三は収まりそうな空間に、複雑な模様が織り込まれた絨毯が敷かれている。家具は寝台含め、必要最低限のものしか置かれていないが、そのどれもに金縁や繊細な装飾が施されていた。窓から差し込むやわらかな光が、そのすべてを照らしている。


「よく来てくれた。待っていたよ」


 部屋の出入り口付近に立っていた人物――アーサーが、涼やかに笑って歩いてくる。なぜか大きな布を小脇に抱えているが、そんな立ち姿ですら絵になる人だ。隠し通路から脱した学生たちは、唖然として彼とこの部屋を見比べた。


「あ、あの……ここって、もしかして……」

「ああ。ここは私の寝室だ」


 恐る恐る問うたミオンに、アーサーはあっけらかんと返す。ミオンは答えを聞いた瞬間、妙な声を上げて後ずさりした。


 予想通りだが、当たっていてほしくなかった予想だ。ステラは頭を抱えたが、ほどなくして皇子を見上げる。


「ほかの五人は到着したでしょうか」

「ふむ。着いた頃ではないかな。私も直接見にいったわけではないから、確かなことは言えないが」


 考え込むそぶりを見せたアーサーは、間もなく手を振る。脇の布を抱えなおして、身をひるがえした。


「姉上のところに行ってみよう」


 皇子の提案にうなずいて、学生たちも続く。扉に手をかける前、アーサーが振り返った。


「では、行ってくるよ、アーノルド捜査官。あとは予定通りに」

「はっ。ご武運を」


 短く応答したアーノルドは、ステラたちにも目を細めてみせる。五人は深々と頭を下げた。ここに残るということは、彼はまた隠し通路を通って戻るのかもしれない。


 そんなことを考えながら宮殿内を少し歩いた。両殿下が何らかの根回しをしているのか、通路にひと気はなく、ひっそりと静まり返っている。磨き抜かれた床が、歩くたびに硬質な音を立てた。


 アデレードのもとを訪れた一行は、そこで残る五人とも合流を果たした。予定通り入ってこられたらしい、とわかってステラは肩の力を抜く。


「わはーっ! 本当に宮殿の中に入れちゃったよ」


 ブライスが嬉しそうにしているものの、その動作と声量はいつもより控えめだ。そのおかげなのかどうなのか、シンシアも彼女を注意することはなかった。――呆れの目を向けてはいたが。


「それで……これから『例の場所』に向かうということですよね?」


 苦笑しつつ、ジャックが皇族たちに確認する。二人はうなずき、アデレードが半歩前に出た。


「はい。今からご案内します」


 こちらへ、とほほ笑む皇女。その目を見て、ステラは思わず息をのむ。晴天の瞳の中に、揺らめく炎を見た気がした。



 アデレードとアーサーに案内され、学生たちはまた宮殿内に踏み入った。今度はかなり長く歩くことになりそうだ。


 豪奢な部屋をいくつか通り抜け、そのたびにステラはめまいを覚えた。柱の一本、燭台のひとつに至るまで、凝った細工や彫刻が施されている。天井を見上げればシャンデリアがいくつも視界に入る。少しあたりを見回せば、上品な光沢を放つ白い座面の椅子が目に映る。


 恐ろしい場所だ。身震いしたステラは、ふと、金色に輝く広間ホールを思い出した。そこには着飾った人々がたくさんいて、何やら難しそうな会話をしていた。みな笑顔なのに、その様子を見ていると無性に怖くなった。――あれは、宮殿の中のことだっただろうか。そのはずだ。兄について帝都に来ていたときの、快くない記憶の一部だから。


 歩いている間に、何度か人とすれ違った。宮殿に勤める文官や、使用人のようないでたちの人ばかりだった。人払いをしていたのは、皇子たちの私室の周辺だけらしい。彼らは皇族二人の姿に気づくと、恭しく礼をした。学生たちについて詮索することはせず、二人が去ると自分の仕事へ戻っていく。


 トニーがそのあたりを尋ねると、アデレードが少し得意げに答えた。


「研究や仕事の中で、大学の方々を招いてお話を伺うことがあるのです。時には十代の方もいらっしゃいますから、今回もそういうことだと思ったのかもしれません」


 好都合でした、とほほ笑む皇女はあどけない。ステラは、隣を歩いていたナタリーと目を合わせて苦笑した。


 歩いているうち、雰囲気が変わってきた。壁の装飾が少なくなり、足もとが絨毯や大理石から灰色の石になり、行き交う人の身なりも質素になった。その頃になって、アーサーがアデレードに持っていた布の一枚を差し出した。アデレードはそれを受け取り、静かに羽織る。それはただの布ではなく、外套だったようだ。彼女がフードをかぶったのを見て取り、アーサーも暗い色の外套で身を包む。


 少しして、にわかに周囲が騒がしくなった。遠くで人の声が絶え間なく飛び交い、高い音が何度も響く。食べ物を焼く音とともに芳ばしい香りが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。軽い空腹感に気づいたステラは、お腹のあたりを押さえて苦笑した。それからふと笑みを消して、前を行く皇族たちに呼びかける。


「あの、アデレード殿下、アーサー殿下。もしかして、これから行くところというのは……」


 トン、トンと包丁が軽やかに拍子を刻む。その音の方を振り返ったステラを見て、アーサーが意味ありげな微笑をひらめかせた。


あたらずといえども遠からず、というところだな。厨房ではなく、そのすぐそばだ」

「すぐそば?」

「そう。そろそろ到着するぞ」


 彼がそう言って間もなく、一行の歩みが止まった。皇族たちが右の大きな扉を振り仰ぐ。暗い色の、木の扉。その左右には、いかつい顔をした男性が二人立っていた。黒い服、同じ色で中央に皇室の紋章が刺繍された帽子を身にまとい、腰に短剣をさげている。


「ご苦労様です」


 アデレードが二人へ話しかけた。その所作も語調も、世間話をするかのようである。警備員であろう男性二人は、敬礼で応じ、角ばった声を上げた。


「お待ちしておりました、アデレード殿下、アーサー殿下」

「中を見ても大丈夫でしょうか?」

「もちろんでございます。料理長から話は伺っております」


 明快に応じた警備員たちが、すっと扉に近寄る。かと思えば、掛け声とともに大きな扉を押し開けた。学生たち、特に武術科生たちは、その光景を感動とともに見つめる。もちろん、ステラもその一人だった。


「どうぞ、お通り下さい」


 警備員の男性は、涼しい顔で一行に向き直り、一礼する。ステラたちは戸惑って顔を見合わせたが、皇族たちは平然と礼を返して踏み出した。自分たちを振り返った彼らの顔を見て我に返り、ステラたちは慌てて二人を追いかける。


 開いた扉の先には、薄い闇が広がっている。警備員たちの横を通り抜け、その闇に踏み込んだ先で――彼らは唖然とした。


「ここって……」


 積み重なる箱。壁際に置かれた色鮮やかな瓶の数々。棚の中にずらりと並ぶ根菜類。その部屋は――


「食糧庫、ですか……?」


 呆然と、誰にともなく問いかけたステラに、アデレードがうなずいた。


「そのひとつですね。ここは、私たちの日々の食事に使われる食材を保管する部屋です」

「ここに副宰相様が訪れている、と?」

「ええ。警備の者にも話を聞きましたから、確かかと」


 アデレードが扉の方を振り返る。警備員の姿は見えない。先刻までと同じように立っているのだろう。


「では、調べるとしようか。料理長に話を通してはあるが、彼らの仕事の邪魔をしてはまずいからな。手早く済まるぞ」


 いつの間に取り出していたのか、白い手袋を両手に嵌めたアーサーが朗らかに宣言する。ステラたちは視線を交差させ、うなずきあった。が――


「中の物にはなるべく手を触れぬようにな。食物を傷つけたら、この場にいる全員がだ」


 彼が人差し指を立て、首の前で横に引く。その動作の意味するところを悟って、全員が青ざめた。ブライスやトニーですら、か細い悲鳴をのみこんで震えている。それを見てアデレードが「脅かしすぎですよ、アーサー」と咎めた。アーサーは即座に「申し訳ありません」と謝ったが、悪びれてはいない様子だ。


 仕方がない、とばかりにかぶりを振った皇女は、なおもひるんでいる学生たちにほほ笑みかける。


「万が一何かがあったとしても、私たちがすべて責任を取りますよ」

「姉上の仰る通り。悪くても我々の肩書くびが飛ぶだけだ。心配しなくていい」

「いや、それも十分問題ですから……」


 あっけらかんととんでもないことを言ってのけた皇族二人に、ステラは引きつった笑みを向ける。それ以上、なんと言っていいかわからなかった。


 とにかく何事もないに越したことはない。気をつけよう、と固く誓って、十人は食糧庫を調べはじめた。


 実際のところ、物に一切手を触れないのは不可能だ。ダレットがここへ来ている理由を暴くためには、部屋中を徹底的に調べなくてはならないからである。そのため、どうしても物を動かさなければならないときは、必ずアデレードかアーサーと一緒に行った。


 そうして、二十分は食糧庫を探っただろうか。


「なーんにも出てこないねえ」


 ひたすら床を叩いていたブライスが、起き上がって伸びをする。「そうだね」と相槌を打ちながら、ステラは部屋の中をぐるりと見回した。


 食糧庫はかなり広い。だが、この人数ならば部屋を調べるのにさほど時間はかからない。そろそろおおよそ見尽くす頃だろう。


 奥の方で、アーサーとオスカーが箱をいくつか動かしている。その光景を見るともなしに見ていたステラは、ふと目をしばたたいた。


「ん……?」


 頬に触れる。


 冷たい風が吹いてきた気がした。どこかに隙間でもあるのだろうか。


 ステラが首をかしげている間にも、アーサーとオスカーが箱の周囲を調べていた。


「ここも何もない……か?」

「いや、もう少し見てみよう。どこにどんな仕掛けがあるかわからないからな」


 そんな会話――と言ってよいものか――が聞こえてくる。


 声が途切れたその瞬間、また冷たい空気がステラの頬をなでた。顔をしかめる。気のせいではない。


「……ステラ? どしたの?」


 そばへやってきていたナタリーが、訝しげに彼女を見る。はっとそちらを振り返ったステラは、返答に窮して頬をかいた。


「ちょーっと、俺もそこ見ていいですか?」


 少女二人の会話を打ち消すように、軽やかな声が響く。オスカーたちがいるところに、レクシオが歩いてきていた。そちらに顔を向けたステラたちは――彼を見て、ぎょっと目を剥く。


 驚いたのは、オスカーたちも同じだったらしい。


「おい、レクシオ。なんだそれは」


 立ち上がって振り返るなり、オスカーが目をすがめる。対してレクシオは、頬をかいた。


「俺にもわかんねえ。でも、この近くを通ったときだけこうなったから、何かあるんじゃないかと思ってな」


 言いながら、レクシオは背負っている長剣を指で叩く。その剣は――なぜか、鈍い金色に光っている。どうやら光っているのは刃の部分で、その光が鞘から漏れているようだった。


「そういうことなら……お願いしよう」


 やや気おされた様子で、アーサーが数歩退く。


 レクシオは先ほどまで彼がいた場所にしゃがみこむと、少しの間、壁や床を叩いたり、なでたりした。あるとき、ふいに顔をしかめて立ち上がる。


「ステラ、ちょい来てくれ」


 そして、ステラを手招きした。己の顔を指さして首をひねったステラはしかし、再度手招きされるとそれに応じた。隣まで歩いていくと、レクシオはすぐそばの壁を指さす。


「ここ、触ってみてくれないか」

「ここ?」


 指し示された場所に、ステラはそっと手をつける。――その瞬間、手のひらに痺れが走った。


「――った! 何これ」

「やっぱ気のせいじゃないか」


 反射的に手を引っ込めてしまう。その手をぶらぶらと振っている彼女のそばで、レクシオが神妙に呟いた。彼はステラの真横でしゃがむと、ゆっくりと壁に両手をつける。すぐ渋面になったところを見ると、やはりあの痺れが走っているのだろうか。


 部屋の一角で起きている騒ぎに気づいて、ほかの人たちも集まってきているらしい。その視線を感じながら、ステラはレクシオに倣った。


 すぐに痺れが駆け抜ける。しかし、今度のそれはかすかだった。ちりちりと、皮膚の下をくすぐるような感覚。手から始まり、腕を伝って、体の芯にまで流れ込んでくるかのようだ。


「なんだろなあ」

「なんだろうね……気持ち悪い……」


 頭を傾けるレクシオに相槌を打ちつつ、ステラはうっと目を細める。


 オスカーが、そんな二人をのぞきこんできた。


「何が起きているんだ」

「なんかねー……こう、ここを触るとびりびりするのー……」

「びりびり……」


 答える声が間延びしてしまったのは、痺れを感じ続けているせいだろう。オスカーもアーサーもそれは指摘せず、代わりに渋面を見合わせた。


「我々が触ったときは、何もなかったがな」

「……そうですね」


 低い声が交わされた、その瞬間。


 唐突に、光が弾けた。


 目の前が真っ白になったステラは、思わず声を上げて飛びのく。その光が金色と銀色だったことに気づいたのは、とっさに目を閉じたときだった。


「な、何――」


 疑問の声は形にならない。それを打ち消すかのごとく、知らない声が聞こえてきたから。


 食糧庫にいる誰かのささやきではない。自分自身の中からざわざわと湧き出ているような、不愉快な声。それは、しばらく意味不明な音を紡ぐと、かすれて消えていった。


 静寂が戻る。しかし、耳にはまだ先ほどの音がこびりついていた。ステラは思わず両耳を手で覆う。


「ステラ、レク!」

「二人とも、大丈夫かい?」


 馴染みのある声が、くぐもって聞こえる。ステラは薄目を開けた。目の前に光はない。ただ、ぼんやりと暗い色が見える。そうとわかってようやく、耳の覆いを外した。そして、まっさきに隣を見る。


 レクシオが尻餅をついた後の格好でこちらを見ていた。先ほどまでより疲れた顔をしている。


「ステラ、平気か?」

「なんとか」

「さっきの、聞こえた?」

「……聞こえた」


 あの意味不明な声は、レクシオにも聞こえていたらしい。一体なんなのだろう、と胸中で毒づきながらも、ステラは顔を上げる。そして――唖然とした。


「ね、ねえ、レク……」

「ん?」

「これ……」


 眉間をほぐしていた幼馴染の肩を叩き、壁を指さす。レクシオはのろのろと壁を見上げると、両目を見開いて絶句した。


「こりゃあ……か?」

「そうみたい」


 二人が見上げた、壁があった場所。


 先ほど手を触れたその場所に、大人一人が通れそうなほどの、四角い穴が開いていた。

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