第三章 冥界の窓

第134話 宮殿を目指して

 天を灰白色の雲が覆っている。


 普段は煙とほこりかすんでいる帝都の空も、早朝には澄み渡る。だから雲の形や陰影もくっきりと浮かび上がっていた。


 空はくすんだ白色、その下には黒々とした町並みの影。黒白こくびゃくの狭間を音が通り抜けていった。聖句を紡ぐ、人の声。それは毎朝耳を澄ませば当然のように聞こえてくる旋律だ。


 ひと気もまばらな道を歩いていたステラは響く声に気づいて、つかの間足を止める。彼女は前からこの音が苦手だった。聞くたびに、理由もわからない恐怖が背筋を撫ぜていくから。


 ――今は、以前とはまた違う恐怖を抱く。


 聖句を紡ぐ声が途切れたその瞬間、ステラは慌ててかぶりを振った。深呼吸をして、石畳を蹴る。そして、朝靄の中に飛び込んだ。


 第二学習室で今後の方針を決めた後、変わらず警備員をやっているアーノルドにこのことを伝えた。彼を通してアーサーと連絡を取り、作戦を練った。今日がその作戦決行の日、というわけだ。


 大通りを歩くことしばらく。あたりを見回しながら進んでいたステラは、目の覚めるような白色の看板を見つけると、前方に視線を転じた。入ったことのない雑貨屋の軒下に、見慣れた人たちの姿がある。彼らはステラの姿を見つけると、一人を除いて元気よく手を振った。


「ステラ、おはよう!」

「おはよう、団長。あたしが最後かな?」

「いや。レクシオくんがまだだよ」


 学友たちのもとに駆け寄ったステラは、首をかしげる。


「レクが? 珍しい。いつもみんなと一緒に来るのに」

「『荷物が重いから後で追いつく』と言われてね。ひとまず、二人と合流してここに来たんだ」


 ジャックは、残る二人――ミオンとオスカーを振り返る。同調するようにうなずく彼らを見て、ステラは「そっか」と呟いた。


「どうする? 待っとく?」


 ジャックが形のよい眉をわずかにしかめる。


「そうだな……ステラが来たら宮殿の方に向かっていていい、と言われたけれど……」

「レクシオのことだ。本人がそう言うなら大丈夫だろ」


 悩むそぶりを見せたジャックに、彼の旧友が淡白な言葉を投げかける。無愛想な少年の視線を感じたステラは、肩をすくめて笑った。


「うん。レク、意外と帝都の地理に詳しいし。合流できると思うよ」

「それなら、先に向かっていようか」


『調査団』団長の言葉にうなずいた三人は、彼の「では、出発!」という声がけに応じて歩き出す。――なんとなく息をひそめてしまうのは、朝の空気のせいか、自分たちがこれからやることのせいか。


 遠くに見える宮殿を目指して歩いているうち、人の姿が増えてきた。ざわめきと、馬蹄の音も聞こえはじめる。いたるところで炊煙が上がり、時にパンの芳ばしい香りが鼻をくすぐった。


 レクシオが何食わぬ顔で追いついたのは、その頃だった。


「いやあ、すまんね。お待たせ」


 いつもの調子でやってきた彼を見て、しかしステラは違和感を覚える。みんなが同じように感じたらしい。各々怪訝そうにしていたが、少ししてミオンが目を見開いた。


「あの、レクシオさん。それって……」


 ミオンが指さしたのは、彼の背後。正確には、彼が背負っている長剣だ。


「これな。予備の武器。いつものやつは修理中なんで、こっちを持ってきた」

「なるほど。それで遅くなったんだね」


 ジャックの言葉に応じたレクシオが、そう、と答えて体をひねる。ちらりとのぞいた剣の柄を見て、ステラは「あっ」と叫んでしまった。彼が持っていたのは、学院祭フェスティバルの日にステラが露店の武器商人から譲り受けた剣の片割れだったのだ。


「それ使えるの? 大丈夫?」

「んー。まあ、敵をぶん殴るくらいはできるだろ。ないよりましだ」


 頭をかくレクシオの姿から、不安や緊張はうかがえない。それがかえってステラの不安を煽った。が、現状武器がこれしかないのは事実だ。いざとなれば魔導術でどうにかするだろう――と、ステラは己に言い聞かせた。


「では、改めて。宮殿に向かうとしよう。そろそろアーノルドさんも到着している頃だろうからね」


 ジャックの言葉で我に返ったステラたちは、小走りで彼の背中を追う。レクシオも、平然とそれに倣った。


 宮殿の前は、広場のようになっている。中央広場ほどの広大さはないが、ちょっとした催事や集会ができるほどの広さはある。実際、年末年始の神事や皇室に関わる儀式などは、必ずこの場所で行われるのだ。


 アーノルドは、その広場に入ってすぐのところで待っていた。今日も私服姿だ。だが、今日は前に会ったときと違って、大きな鞄を持っていた。


 ステラとレクシオ、そしてオスカーがその気配に気づくと同時、アーノルドも踏み出してくる。


「おはよう、皆さん。昨日はよく眠れたかい?」


帽子を取って朗らかに挨拶してくれた。何も知らない人が見れば、遠方から子どもに会いにきた親戚のようにも見えるだろう。


 そう見せようと意識したわけではないが、学生たちも微笑を返していた。


「ええ。それなりに」

「それはよかった。体は資本だからね」


 そんなやり取りをしつつ、ステラとアーノルドはいつかのように握手を交わす。ほかの面々とも握手が終わると、捜査官は再び帽子をかぶった。


「それでは、案内しよう。ついてきてくれたまえ」


 仰々しく言った彼が示したのは宮殿――ではなく、広場の一角から伸びている細い道の先だった。ステラたち五人は揃って目をしばたたく。


「……えっと。そちらに何かあるんですか?」

「実際に見ればわかるよ。大丈夫、いきなり敵と鉢合わせることはないだろう」


 こわごわと問うたステラに、アーノルドはあっけらかんとそう返す。そのまま歩き出してしまったので、五人は慌てて彼を追いかけるはめになった。


 人二人が並んで通れるか通れないか、という幅の道を進むこと、しばし。アーノルドは一軒の家の前で足を止めた。一見、古民家のようだが、扉のそばに『万年筆・筆記具、インク』と書かれた看板が立ててある。


 首をかしげる学生たちをよそに、アーノルドは躊躇なくその扉を開けた。橙色の明かりがこぼれて、鼻をつつくようなインクの香りが漂ってくる。


 看板が語っていた通り、店内には万年筆や鉛筆、筆などがずらりと並べられていた。さらに目を巡らせると、インク瓶が並べられている棚もある。色とりどりの瓶が、店内の鈍い明かりを弾いて、きらきらと光を振りまいていた。


「いらっしゃい、セド」


 店の品々に目を奪われていたステラたちは、奥から響いた声を聞いて我に返る。


 店の最奥に鎮座する長机。そのむこうに腰かけている人物が手を振っていた。束ねて肩から垂らしている髪は漆黒で、対照的に肌は驚くほど白い。濃い化粧をしているようだが、不思議とくどい感じは受けなかった。ただ、こちらを見すえる目の力は強い。小柄で、しかも座っているのに、妙に存在感がある。


 アーノルドは手を挙げて応えると、彼に向かって笑いかけた。


「やあ、ご主人。前に頼んだものを見にきたんだが……」

「あれね。準備できてるわよ」


 落ち着いた声で答えた店主は、ステラたちを一瞥する。しかし特に何も言わず、立ち上がった。手もとに置いていた光るものを無造作につかむ。


「こっちよ。ついておいで」


 紫の目と赤い唇を愉快そうにゆがめ、店主が振り返った。アーノルドは感謝を述べて歩き出す。ステラたちも困惑の顔を見合わせながら、慌てて彼を追った。


 店主が店の奥の扉を開く。その先は、薄暗い部屋だった。商品の在庫だろうか、重そうな箱がいくつも重ねて置いてある。店主は部屋の奥まで進むと、何もないように見える壁を叩いた。場所を少しずつ変えて、何度かそれを繰り返す。ステラたちが追いついたところでその手を止めると、軽く右手をひるがえした。――鈍い金色の鍵がチカリと光る。


 アーノルド以外の五人は首をかしげた。怪訝そうな彼らをよそに、店主は壁の一角に指をかける。すると、その場所の壁が鈍い音を立てて動いた。店主が引き戸を開けるように腕を動かすと、分離した壁も同じように動く。ゴリゴリと鳴りながら動いた壁のむこうには、鍵穴があった。その穴に、鍵が差し込まれる。鍵を軽く回すと、カチリ、という音がかすかに響いた。


 一拍の間の後、遠雷を思わせる低音と、かすかな揺れが一同を包み込んだ。ミオンがおろおろとあたりを見回し、ジャックとオスカーが瞠目して壁を見つめている。ステラとレクシオは、何事か、と顔を見合わせたのち、壁に顔を向けた。――そして、ぎょっと目を見開く。


 鍵穴の左の壁、その一部が震えていた。壁はゆっくりと上へ動き、やがて完全に見えなくなる。同時に、音と揺れも収まった。


 壁があった場所には、教室の扉ひとつぶんほどの四角い穴があいている。その先は、真っ暗だ。ずっと奥まで通路が続いているらしい。か細い音とともに、かすかな風が吹いてきた。


「これは……隠し通路ということかな?」

「大がかりな仕掛けだな、おい」


 目を輝かせて見入るジャックの横で、レクシオが笑みを引きつらせている。


「そういうこと。ここからひとまずの目的地に向かうよ。準備はいいかい?」


 悪戯っぽく笑ったアーノルドが、五人を順繰りに見る。途端、一同の間に緊張が走った。それぞれに目を合わせ、うなずく。


「あんたたちが入ったら、入口は閉めちゃうからね。お花を摘みにいくなら今のうちだよ?」


 店主が手元で鍵を回し、その先端で背後を示す。化粧室はあちら、ということだろう。ミオンが少しうつむいて顔を赤くしたが、ほかの四人は平然としていた。


 ジャックが、店主に向かって軽く頭を下げる。


「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」

「きちんと事前に済ませてきましたんで」


 レクシオがのんびりと言い添え、オスカーが何度もうなずいた。ステラは、男子たちに呆れの目を向けたのち、アーノルドを仰ぎ見る。


「いつでも行けそうですよ」

「そのようだね。では、行くとしよう」


 アーノルドは、立ち上がるなり笑声を立てた。鞄から何かを取り出したところだったらしい。彼は、取り出したもの――小さな角灯を掲げると、率先して身をかがめた。ステラたち五人も店主にお礼を述べて、捜査官の後に続く。


 最後の一人――オスカーが通路に全身を収めた、少し後。壁が閉ざされる重々しい音が、遠くで響いた。

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