第53話 片割れの不在

 何度呼んでも、レクシオは振り返らなかった。厳つい少佐と一緒に彼が広間の外へ消えていくのを、トニーは呆然として見送る。そして、すべての音と残り香が消えると、彼は黙してうなだれた。どのくらいそうしていただろう、やがて誰かに肩を叩かれ、トニーはよろよろと顔を上げる。寮監の穏やかな目が、彼を心配そうにのぞきこんでいた。


「朝ごはん、食べておいで」


 彼はそれだけ言うと、蒼白な顔を背けて、執務室の方へ去っていく。相槌すら打てなかった。その罪悪感が、胸の中を薄く広く支配する。トニーは大きく息を吸って、拳を握った。制服の裾をひるがえして駆けだす。


 ちょうど広間の方に流れてくる生徒たちを避けながら、トニーは懸命に走った。ほかの生徒の苦情や問いかけ、驚く声はほとんど耳に入っていない。


 この時間ならまだ食堂にいるはずだ。何もできないならせめて、伝えなければ。その思考だけが頭の中を延々と巡っていた。


 装飾が施された外枠に囲まれた、食堂の入口をとらえる。両開きの扉の手前で、トニーは緩やかに速度を落とした。剣呑な生徒の視線を受けつつも、彼は親友の姿を探そうとする。が、探し人はむこうからやってきた。


「おはよう、トニー。今朝はずいぶんと遅いね」


 底抜けに明るい声。視界の端で躍る黒髪。トニーはそれらにひっぱられるようにして、振り返った。ジャック・レフェーブルが陽気に笑って、手を振っている。今、朝食を終えたところらしい。


「ジャック……おはよう」


 彼の名前を呼ぶと、体から一気に力が抜けた。


 親友の笑顔には何度も救われてきた。今もまた、彼を見て安堵している。だが、今回はそれではだめなのだ。自分だけがほっとして、それで終わりというわけにはいかない。今度こそ。


 意志に逆らって、体はふらふらと傾く。トニーはその場にへたり込んでしまった。それを見たジャックが、さすがに慌てた様子で駆け寄ってくる。間近で彼をのぞきこむと、切れ長の目にれいな光が灯った。


「どうしたんだい? 嫌なことでもあったのかい?」


 問うてくる声は、いつもより鋭い。さすがに、異常事態だということは察したようだった。


 トニーはうなずいた。けれど、その先の言葉を発することができなかった。伝えなければ、と必死になっていたにも関わらず、いざその場に立つと何も出てこない。思考が混線し、とっ散らかった単語の欠片がやかましく騒ぎ立てる。頭がどうにかなってしまいそうだった。


 本人にとっては永遠のような時間だったが、実際トニーが混乱していたのは、ほんの数秒の間だった。肺が悲鳴を上げそうな呼吸をして、親友を見つめる。色の悪い唇がようやく紡いだ言葉は、直接的な答えではなかった。


「どうしよう」


 視界がかすむ。ジャックはきっと困惑しているだろうが、その顔はほとんど見えなかった。


「どうしよう、ジャック。レクが、レクシオが――」


 その先は、頭にはあるが出てこなかった。あきらめとも悲しみともつかぬものを抱えてうなだれる。そんなトニーの頭に手が添えられた。


「俺、止められなかった。なんにもできなかった。どうしよう、このままじゃ」

「……すごく大変なことがあったみたいだね。よし、ちょっと落ち着ける場所で話をしよう」


 トニーの茶髪をかき混ぜたジャックは「まだ時間はあるよね」と呟いて、彼の手を取った。


「ここじゃ目立ちすぎるから、移動しようか。立てるかい?」


 ほんの少し茶目っ気をにじませて、ジャックは問うてくる。トニーは彼の笑顔を見つめ、かろうじてうなずいた。


 そうして二人が移動したのは、寮の二階、ジャックの部屋だ。狭さも構造もトニーのところと変わらない。違うのは、すべての物がきちんと整頓されているところだろう。


 ジャックには少し小さそうな寝台に並んで腰かける。トニーは、二人だけになって初めて、事の順を追って話すことができた。手配書のことはジャックも知っていたようで、動揺はほとんどなかった。ただ、事情を把握すると、彼は神妙な表情をして黙りこんでしまう。焦燥を抱きつつも、トニーは親友の思考が終わるのを待った。


 廊下の方で笑い声が弾ける。それが消えた頃、ジャックはやっと顔を上げた。


「なるほど。……嫌なことになってしまったね」

「なあ、ジャック。これ、変だよな」

「変だね。一般人から指名手配犯の情報を得る目的で、軍人が――それも憲兵隊が出てくるのは法令違反だ。たとえ、相手が指名手配犯本人の家族でも」


 トニーが感じた気持ち悪さの正体を、ジャックは理路整然と言い当てる。その口調と頭の良さには感心するが、本人は言葉を重ねるほどに表情を険しくしていった。


「レクシオくんがそのことを知らないはずがない。なのにあっさりと同行を了承した。……指名手配犯のこととは別に、何かあると見た方がいいだろう。正直、学生の僕らには手に負えない案件だ」


 ジャックがしわをほぐすように、眉間を押さえる。同時にトニーもうつむいた。


 自分ではどうにもできないことであるとは、理解しているつもりだ。それでも、黙ってやり過ごすことはできそうにない。何もなかったふりをして、笑って過ごせるほど器用ではないのだ。レクシオのようには、できない。


 それに、問題はほかにもある。


「みんなにどう伝えたらいいんだろう」


 トニーはぽつりと呟いた。ジャックは言葉を返さなかったが、相貌はまた一段とかたくなった。


「ステラに、なんて言えばいいんだ……?」


 声とともに苦渋を吐き出し、少年は顔を覆う。


 ありのままを話すしかない。それはわかっている。わかっているからこそ、その答えを直視したくないのだ。



     ※



 その日の朝、ステラは弾丸のような勢いで孤児院を飛び出した。やることはすべてやって出てきたので、子どもたちの後の活動に支障はないはずだ。そう思っている彼女はもちろん、「姉」の異変を察した子どもたちが首をかしげていることを知らない。


 行き交う人々には目もくれず、ただひたすら学院を目指した。朝礼の一時間近く前に門をくぐったステラは、『武術科』の教室がある棟まで一息で走る。すでにぱらぱらと生徒の影がある中で、息を切らせながら幼馴染の姿を探した。


――いない。どこにもいない。廊下にも、いつもの教室にも。


 時々つまずきながらステラは席に着いたが、彼女のまわりは真っ暗だった。生徒たちの話し声が別世界の音のように響いている。その中で特に大きな音を拾い上げて、せいで頭を動かす。よどんだ視界の中では、見覚えのある少女たちが、目をいっぱいに見開いてこちらを見ていた。


「おーい、ステラ」

「だ、大丈夫ですか?」


 ブライスとミオン、二人に続けて声をかけられ、ステラはまばたきする。それから、顔にかかった髪の毛を払いのけた。瞬間、教室のざわめきが一気に押し寄せてくる。


「あ、っと……二人とも。おはよう」

「おっはよー。何回声をかけても反応ないから、魂が抜けてるのかと思ったよ」

「そんなまさか」


 机に手をついて飛び跳ねはじめたブライスに、ステラは乾いた笑顔を返す。体を弾ませている赤毛少女の隣では、ミオンがおさげ髪をにぎりしめている。『調査団』の一員になったばかりの彼女は、憂いの濃い顔をステラに向けてきた。


「あの、ステラさん。どこか悪いんですか? なんだか、顔色がよくないみたいですけど……」

「あ、いや。そういうわけじゃないけど」


 顔の前で手を振って、ミオンの心配を否定する。同時に、二人は手配書のことを知らないのだろうか、という疑問が湧き出た。ステラは鞄を自分の方へと引き寄せながら少女たちを見上げる。


「ところで二人とも、レクを見なかった?」


 細かいことを伏せて問うと、ブライスたちは顔を見合わせてから首を振った。


「そういえば、今日はまだ会ってないねえ」

「わたしも、見ていないです」

「珍しいこともあるもんだ。いつもなら、私が来た頃には本読んでるのに」


 何気ないブライスの言葉に、胸がちくりと痛む。ステラは思わず顔をそむけた。そのとき、視界の端のブライスが少し浮いて見える。誰かが彼女を持ち上げたのだと気づいたのは、隣にいたミオンが口を半開きにして固まったからだ。彼女の視線を追って、ステラも顎を落としてしまう。


 気づかぬうちにオスカーが立っていて、ブライスの襟首をつかんでいたからだ。


「あ、おはよう、部長」


 ぶら下げられながら笑顔で挨拶する「部員」に、オスカーは小さくうなずく。それから、ステラたちに視線を移した。


「エルデなら、今日は来ない」

「……え?」


 いつもの淡々とした口調で言い放った少年を、少女たちはまじまじと見返す。明らかに説明を求める視線に対し、オスカーは変わらぬ口調で応戦した。


「俺も『魔導科』の奴から伝え聞いただけだ。休憩時間に本人を引っ張って連れてくる。説明はそのときにする」


 説明、あるいは弁解を終えたオスカーは、ブライスを下ろして三人に背を向ける。さらなる追及を逃れるように、彼は教室を出ていった。大きな後ろ姿を見送った少女たちは、テイラー先生が教室に入ってくるまで、「謎」と書かれた顔を見合わせていたのだった。


――そして、昼休憩の時間。昼食を早めに切り上げたステラたちのもとに、魔導科生を連れたオスカーが本当に現れた。目を丸めたステラは、身を乗り出して、彼と一緒にいる人々を見つめる。


「えーっと。オスカーが言ってた本人って、トニーとナタリーだったの?」

「こいつは勝手についてきただけだ」


 隣に立っているナタリー・エンシアを指さして、オスカーは顔をしかめた。ちなみに、もう一人の魔導科生は彼に腕をつかまれたまま沈黙している。冷淡な少年に対し、ナタリーは黒い短髪を振り乱す勢いで反論した。


「そりゃついてくるよ! あんたがいきなり第四講義室に現れたかと思ったら、無言でトニーをさらっていくんだもん! 何があったのかと思うじゃない!」

「ここへ連れてきただけだろう」

「トニーを殴り殺しそうな顔してたくせに、よく言う」


 ナタリーはじろりとオスカーをにらんだが、にらまれた方は目もとも動かさずにステラたちの方を見ていた。


「トニーのことだからな。こうでもしなければ白状しないだろうと思った」

「だから、なんのことか説明しろって――」

「ナタリー、いいよ」


 口論というには一方的過ぎるやり取りは、間に挟まれた少年の一声で打ち切られる。まなじりに怒りを湛えたままのナタリーに、トニーが笑みを向けた。彼にしては弱々しい笑顔だった。


「オスカーの言う通りだ。強引にでも引きずり出されないと、俺、逃げてたかもしんない」

「そんな、犯罪者みたいな……」


 ナタリーがため息をつく。その一言をきっかけに、ステラは口火を切った。


「トニーは知ってるの? なんで、今日レクが来ないか」

「……ああ、うん」


 地底から響くような声で応じたトニーが、重くうなずく。よく見たら顔色がひどく悪い。――嫌なざわめきが、ステラの胸中を満たした。


 少女たちが息をのみ、少年が鋭く沈黙する中で、トニーは重い口を開く。そして彼は、今朝、男子寮で起きたことを話した。言葉の一つひとつが重く、話そのものもどこか要領を得なかったが、事実として起きたことはなんとか理解できる。いつもは切れ味よくものを言う彼がそうなるほど憔悴しょうすいしていることにも、納得がいった。


 だが。それ以上に、純粋な衝撃が、真相を知ったステラには襲いかかっていた。トニーの話が終わった後、頭が真っ白になって、しばらく何もできなかったほどである。


 やっとの思いで我を取り戻してあたりを見回す。オスカーとブライスは渋面をつくり、ナタリーとミオンは絶望に染まった顔で沈黙していた。


「なんで憲兵が出てくるのさ。一般人から話を聞くのは、おまわりさんの仕事でしょ」

「軍人の横暴というやつだ。今に始まったことじゃないだろう」


 オスカーの呟きは灰色だった。幽霊森でジャックに対する敵愾心をむき出しにしていた頃のそれと、少し似ている。ステラはそれを聞いた瞬間、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がっていた。あっけに取られている同級生をよそに、歩き出す。


「どこへ行くつもりだ?」


 唯一、彼女の足を止めたのは、淡々とした少年の一声だ。大きく息を吸って立ち止まったステラは、鋭い視線を投げ返す。


「職員室。学長先生は今日いないから、学部主任の先生に話を聞いてみる」

「やめておけ」

「黙っていられるわけないでしょ、こんな状況で」


 自分の喉から、口から吐き出される音を、ステラは他人のもののように聞いていた。


 彼女が冷たく言い捨てるのとほぼ同時に、オスカーが動く。あくまで冷徹に、しかしすばやく歩み寄ってきた彼は、ステラの右腕を勢いよくつかんだ。


「悪いことは言わない。やめろ」

「嫌だ。放して」

「自分のやろうとしていることを理解しているか? 今回は軍人が絡んでいるんだ。しかも、どう考えてもまともな案件じゃない。学生一人が騒ぎ立てたところで何も変わらない。それどころか、かえってあんた自身を危険にさらすことになる」


 少年と少女が。殺気すらこもった視線と視線が、ぶつかりあって火花を散らす。熱気のこもった部屋の中で、その一角だけ、背筋が震えるほど冷え切っていた。


「あんただけじゃないぞ」


 続いたオスカーの言葉に、ステラは小さく肩を震わせた。発言した本人は、何も思っていないような無表情のままだ。


「ここにいる全員。あるいは、エルデと交友関係を持ったすべての人間が目を付けられる。最悪の場合、エルデ本人の立場も悪くなるかもしれないな。それでもあんたは、てめえの感情のままに動くのか」


 彼の言葉は、きっかけだった。ステラが昨日から溜め込んでいた感情があふれ出す、きっかけ。


「――じゃあ、どうしろって言うんだよ!」


 爆発した。もう耐えられなかった。目の前が真っ白で気持ちが悪い。そんな中で、渾身の力をもってオスカーの腕を振り払えたのは、身に沁みついた動作だったからだろう。


 激情にかられるまま、オスカーをにらみつける。こんなふうに誰かを見たのは、実家にいたとき以来だった。


 オスカーは彼女の視線を冷然として受け止めた。


「少なくとも、現時点で俺たちにできることはないな」


 そう言い放って顔をそらした彼は、そのままブライスに声をかける。軽やかに駆け寄ってきた少女に講義の予定を尋ねている。


 そのやり取りをぼんやりと見ているうち、ステラは全身から力が抜けていくのを感じていた。怒りも悲しみもそこにはない。ただ空虚な穴だけを抱えて、倒れるように座った。そこへナタリーとミオンが駆け寄ってきたことに気づかぬまま、どこへともなく目を向ける。


 空虚な時間。そこに新たな音を落としたのも、またオスカーであった。


「説明は済んだ。これ以上、ここで話し込んでいても意味がない。さっさと戻るぞ」


 吐き捨てるように言った彼は、そのまま立ち去ろうとしたらしい。けれど、その間際、置いてきぼりの少年少女を振り返る。


「そうだ、『調査団』の。あんたらの団長から伝言だ。――『放課後、第二学習室に集合』」


 指名された四人は、戸惑った顔を見合わせる。彼らの了解を待たずに、少年は淡々と付け足した。


「あと、魔導科生の二人に頼みがある。まったく同じ内容をシンシアとカーターに伝えておいてくれ」

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