第52話 運命の朝

 前へ進む。


 上体を少し傾けて、次は足を前に。ぐっと、力を込める。それだけのことをするのに、果てしない労力が必要だった。いつから自分は体に重石おもしをつけたんだっけ、などと実りのない思考が芽生える。立っているというより、浮いているように感じる。気を抜けばそのままどこかへ飛んでいきそうなほどに。


 全身が熱い。肺が張り裂けそうだ。それでも前へ進んだ。けれど、当時の小さくて貧弱な体では、それにも限界があった。木の根に足を取られた途端、使い物にならない体が大きく前へ傾いた。


 痛い思いをすることはなかった。前を歩いていた父が、すぐに気づいて支えてくれたからだ。不愛想な父は、顔を真っ赤にし、悲鳴のような音を立てて呼吸をしている息子を見下ろし、眉をわずかに下げた。


 珍しい表情だ。父がそんな顔をするのは、母に呆れられたときだけだと思っていた。


「休憩しよう」


 言われて、けれど首を振った。立ち止まれば、見つかる。見つかれば大変なことが起きる。また、不愛想な父が無茶をするかもしれない。そう思って今までも、とてもではないが疲れたと言えなかったのだった。


「大丈夫だ。ここまで来れば、すぐに追手がくることはない。……そういえば、昼ごはんもまだだったな」


 どうあっても淡々とした喋り方になる父が、声をやわらげようとしているのがわかる。


「おまえにばかり気をつかわせている気がするな」


 ため息まじりに続ける父の声を聞き、とっさに否定しようとした。けれども空気の通り道がぎゅうっと痛んで、そんな声すら出ない。結局、何も返せないまま、太い腕に頭をゆだねた。



     ※



 レクシオは、鞄の中身を点検しながら、大きなあくびをこぼす。早くも本日三度目のあくびだった。夢のざんが頭にこびりついているようで、思考には未だ靄がかかっている。これでは何度点検しても忘れ物をしでかしそうだった。


 レクシオはひとつ伸びをすると、あきらめて廊下の方向につま先を向ける。先に朝食を摂ってくることにした。人前でご飯を食べれば、多少は頭が冴えるだろう。


 いつもの調子で部屋を出たレクシオだったが、寮の食堂にたどり着くより前に、異変に気付いた。


 やけに強く視線を感じる。肩と首まわりをほぐすふりをしてあたりをうかがうと、何人かの生徒がちらちらとこちらを見ていた。指さしてきて、何やら話している少年たちもいる。ただの噂話にしては、悪意が濃い。


 これは一言言ってやるか。内心で嘆息したレクシオが、指をさしてきた少年たちの方へ体を向けたとき。元気よく背中を叩かれた。


「おっす、レク!」

「……トニー? おはようさん」


 振り返ったレクシオは、ほとんど反射で挨拶を返す。常に帽子を持ち歩くかかぶるかしている少年は、けれどこのとき手ぶらだった。朝食前だからかもしれないが、おかげで一瞬誰だかわからなかった。


 白い歯を見せて笑っていたトニーは、けれど挨拶が済むとその笑みを消した。軽く背伸びして顔を寄せてくる。


「おお、どうなさった?」


 猫目に鋭い光が宿る。それにやや気おされつつレクシオが問うと、トニーは彼の腕を少し引いた。


「ちょっと、こっち来て。何も知らずに食堂行くのはまずい」


 学友の顔は真剣だ。だからレクシオは、首をかしげつつも彼に従った。


 トニーがレクシオを連れてきたのは、男子寮の広間だった。みんなこぞって食堂に向かっているらしく、ひと気はほとんどない。トニーが足早に端の丸テーブルに歩み寄り、何かをひったくるように拾った。新聞と一緒に広げてあった一枚の紙だ。


「これ……」


 わずかに震える声でそれだけ言って、トニーは紙をレクシオに手渡す。――手配書だ。その内容を一目見て、レクシオは得心した。


 長いこと名前がなかった、男の手配書。そこに名前と今少し詳しい情報が書き加えられている。おそらく、昨日か一昨日に更新されたばかりなのだろう。でなければ、何年も前からあるものが無造作に置かれているわけがない。


 かのヴィント・エルデでも、軍人の目をかいくぐり続けるのは無理だったらしい。そう思うと、むしろ笑いがこみ上げてきた。


 頬に何かが当たったように感じて振り返る。トニーが心細げに目を細めて彼を見ていた。思わず口角を上げたレクシオを見て、逆に心配したらしい。沈痛に黙り込んでいる少年に、レクシオはひらりと手を振った。


「気にしなさんな。指名手配犯の名前がわかったってだけだろ?」

「でも……どう見てもそれ、レクの身内……だよな。エルデなんてそうある姓じゃないし」

「まあ、実の父親だけどな」


 淡々と返すと、トニーは口を開けて固まった。瞳孔まで細くなっている。本当に猫みたいな目になっている、とレクシオはのんきなことを考えた。


「この手配書が最初に出たときから、親父だってことは知ってたよ。約十年越しに答え合わせがされたってだけだ。俺は気にしないし、トニーが気にすることでもない」


 おそらく、外野の人間はそうもいかないだろうが――とは言わなかった。トニーが気にかけているのが、まさにそこであろうから。


 丸テーブルに手配書を戻して、レクシオは未だ動揺している学友を振り返る。


「ま、教えてくれたのは助かった。ありがとう」


 そう言葉を付け足して、食堂に行こうと言おうとした。しかし、彼が口を開く直前、その名を呼ぶ声が広間にこだまする。


 寮監が広間に入ってきたところだった。後ろに見慣れぬ壮年の男性がいる。その取り合わせを見て、トニーが表情をこわばらせた。レクシオはむしろ凪いだ目をもって、大人たちを迎える。


「エルデさん、少しいいですか」

「俺に何かお話でも?」

「いえね、こちらのお客様が、君にお会いしたいと仰って……」


 寮監は、よほどのことがない限り穏やかで優しい人だ。今日も物腰柔らかだが、さすがに顔はこわばっている。彼が脇にどいたところで、後ろに立っていた人物が半歩前に出た。


 軍人だ。紋章の入った腕章をしているところを見ると、所属は憲兵隊だろう。だが、憲兵にしては妙に違和感がある――レクシオが警戒心ゆえに目を細めたとき、その憲兵が敬礼した。レクシオはとっさに敬礼を返す。将来軍人になる生徒が多い『武術科』では、敬礼も叩き込まれる。ゆえに、自分が軍属でなくとも反射的に返礼してしまうのだった。


 目の前の憲兵がそれを知っているかどうかは、レクシオの目からはわからない。少なくとも彼は、驚きもせずに淡々と言葉を発した。


「憲兵隊のスティーブン・メンデス少佐だ。レクシオ・エルデくんといったか、君に話を聞きたい。急なことだが、本部までご同行願いたい」


 レクシオは、つい後ろの丸テーブルを一瞥した。その拍子に、青ざめたトニーの横顔が目に入る。巻き込んでしまう形になったことを申し訳なく思いつつも、レクシオはメンデス少佐なる人物を見返した。


「……話、というのは、父に関係することでしょうか」

「ここでは答えられない」

「お気遣いいただかなくて結構ですよ。わかりきったことでしょう」


 わずかに嘲笑をひらめかせ、レクシオは切り返す。寮監が顔をこわばらせたのが見えた。それでも彼は、態度を変えようとは思わなかった。自暴自棄になっていたのかもしれない。


 一方のメンデス少佐は、いわおのようであった。眉一つ動かさず、けれどため息まじりの言葉を紡ぐ。


「単なる気遣いだけではないのだよ。形式というものがあるのだ。くだらんことだがね」

「くだらない、という点には同意します」


 レクシオが乾いた声を投げ返すと、初めてメンデス少佐が目をみはった。その間に、少年は、表情をやわらげて半歩前に出る。


「わかりました。一緒に行きます。提供できる情報なんてものはほとんどありませんが、それでもよければ」

「……感謝する」


 まったく心のこもっていない感謝だ。けれど、そこにわずかな居心地の悪さ、あるいは気まずさのようなものを見出して、レクシオは少し目を細めた。


 父が何をしでかしたかは知らないが、これはいささか面倒なことになるかもしれない。


「ちょっと、レク」


 内心で嘆息したレクシオを、控え目に呼び止める声があった。トニーだ。顔面蒼白の少年は、彼の肩をつかんで離さない。レクシオがじっと見つめると、彼は強くかぶりを振った。


「だめだ。おまえだってわかるだろ。これ、なんかおかしいよ」

「そうだな。この状況はおかしい」


 同じように声量を落として言うと、トニーは歯を食いしばった。きつい目でレクシオをにらみ返してくる。「だったらなんで行くなんて言うんだ」という彼の心の声がそのまま聞こえてくるようで。レクシオはふっと目もとを緩める。そうでもしないと、与えられたぬくもりに甘えてしまいそうだったから。


「トニーが気にすることじゃない。さっき言ったでしょうが」

「そういう問題じゃないだろ!」


 声を荒らげるトニーに向かって、今度はレクシオがかぶりを振った。


「軍に逆らってもいいことなんか一つもないっしょ。後々騒ぎになるくらいだったら、唯々いい諾々だくだくと従うさ。――大丈夫、どうせ単なる事情聴取だ。すぐに終わる」


 学友をなだめ、あるいは諭したレクシオは、肩にかかっていた手を強引に外す。よろめいたトニーに心の中で謝罪しつつ、彼の目は軍人を見上げていた。


「お待たせしました。行きますか」


 メンデス少佐はうなずいて、レクシオの手を取った。その力はなかなかに強い。逃げやしませんよ、とささやいても、まったく緩めてくれなかった。


 鬱屈とした気分をため息に変えたレクシオは、しかたなしに歩き出す。トニーの呼び声が何度か聞こえたが、振り返らなかった。



 広間を出るその瞬間、まなうらに屈託のない少女の笑顔が浮かぶ。


 もう少し猶予があると思っていた。最後に一回くらいは会えると思っていた。が、レクシオの予想以上に軍人たちの動きは早かったらしい。


 間に合わなかった。それだけが、心残りといえば心残りだ。


――別れの挨拶くらい、しておきたかったな。


 レクシオは、そっと、声に出さずに呟いた。

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