第11話

 なんかとっても良い匂いがする。

 食欲を刺激してくる甘くかぐわしい匂い。

 これは、バターの匂いだ。


 ――ゆうちゃん、起きて?


 オレを呼ぶ優しい声が聞こえる。

 これは桜さんの声だ。

 間違いない。

 オレが桜さんの声を聞き間違えるなんてあるわけない。


 桜さんってば、わざわざ起こしに来てくれたんだろうか。

 なんかそれって、控えめに言って、めちゃ嬉しいよ。


 ――優ちゃん、朝ごはんできてるよ。起きて?


 匂いから察するに、今日の朝ごはんは卵焼きかな?

 桜さんの卵焼きは甘くて、ふわふわで、とても好きだ。

 桜さんの卵焼きを朝から食べられるなんて、今日はなんて良い日なんだろう。


 ――優ちゃん? 早く起きて?


 ああ、桜さんの声だ。

 オレを呼んでる桜さんの声だ。


 早く起きなくちゃ。

 そして、早く食べたい。

 桜さんの卵焼き。

 とっても甘くて美味しい桜さんが作ってくれた卵焼き。


 でも……。

 ゴメン、桜さん。

 もう少し……もう少しだけ、このままでもいいかな?


 桜さんの優しい声に起こされて、桜さんの美味しそうな卵焼きの匂いがして、そして微睡まどろんでいるこの時間が、オレにとって何ものにも代え難い至福のひと時なんだ。


 だって……だってそれって、まるで新婚みたい……


「――さっさと起きろっ! バカ優!」


 ――っ!?


 優しいとはとても言い難い、むしろ対極とも思える怒声が響き、それと同時にオレの後頭部に衝撃が走る。

 思わずパッチリとオレの目が開いた。


 最初に目に写ったのは二つの真っ黒な液晶モニタ。次いでキーボード。

 頬に感じるのは柔らかいベッドの感触ではなく、硬い木製の机。


 昨夜机に向かいながらいつのまにか寝てしまったんだとすぐに気付いた。

 まあ、それはいつものことだ。

 だからそれはいい。


 けど、今の怒声と衝撃は何だ?


 体を起こして後ろを振り向けば、ソコには女が一人、仁王立ちしていた。


 桜さん……じゃない。

 胸元に高校のエンブレムが縫い付けられた紺色のブレザーに膝上のスカート。

 ショートカットのサラサラな黒髪に整った顔立ち。

 その茶目っ気を含んだ瞳がオレを見下ろしている。


「……なんだ。あずさ、お前か」


 思わずそんな声がこぼれてしまう。

 桜さんを期待してたのに、違ったんだ。

 さすがに落胆の色は隠せない。

 っていうか、こいつ相手に隠す必要もない。


 生まれてから十七年。

 ほとんど毎日顔を合わせているような存在だ。


「むぅ。せっかくわざわざ起こしに来てあげた、とっても優しい幼馴染に対する第一声がそれ?」


 とっても優しいとか自分で言うな。

 っていうか、その左手に持っている枕は何だ?

 さっき、それでオレの頭を叩いたんじゃないのか?


 ったく、なんて乱暴なヤツだ。


 これで学校では、もう一人の美少女と並んでツートップと噂されるほど人気があるっていうんだから、信じられん。

 桜さんの妹なだけあって、黙って立ってれば美少女と言えなくもないが、こいつの性格の物騒さも少しは加味すべきじゃないか?

 男どもはみんな、揃いも揃って見る目がなさすぎる。


 こいつも、少しは桜さんの爪の垢でも煎じて……


 って!

 そんなことはどうでもいいんだった!

 それより桜さんだ。


 さして広くもない自分の部屋を見渡すが、どこにもいない。


「……あれ? 桜さんは?」


 疑問の声が漏れる。


 さっきまで確かに桜さんの声がしてたハズだ。

 なのに、桜さんの姿は見えない。


「今何時だと思ってるの。姉さんならとっくに会社へ行ったわよ」


 梓が枕をベッドの上に放り投げながら口を開いた。


 その言葉に釣られるように机の橋に置いてある小さな時計に目を向ける。

 現在午前七時四十二分。


 確か桜さんはいつも七時三十分に家を出るはずだ。

 梓の言う通り、この時間ではもう出発してしまった後だろう。


 あれ?

 だとしたらさっきの桜さんの声は?

 気のせいだったのか?

 それとも、オレの夢……?


『優ちゃん? 起きたかな?』


 ――っ!?


 聞こえてきたのは紛れもなく桜さんの声。

 思わず声がした方に視線を向けるが、そこにいるのは梓だけだ。

 桜さんはもちろん、他には誰も……


 梓の顔がにやりとしてる。

 ぜったい学校では見せない顔だろ、それ。


 めちゃくちゃ嫌な予感がする。

 っていうか、嫌な予感しかしない。

 こいつがこういう顔しているときは、ぜったい何か良からぬことを企んでいる。

 それくらい分かる。

 伊達に十七年も幼馴染やってねぇ。


 あっ!?

 もしかして今の桜さんの声はこいつが……?


 よく見れば梓は制服を着ているが、その右肘にはバスケットを下げ、そして手の先にはスマホをこちらに向けてかざしてる。

 さらによく見れば、そのスマホの中には妖精のような六枚のはねを背中から生やした緑色のメイド服着た少女の姿。


 それを見た瞬間、全てが分かった気がした。


「……お前か、フュンフFünf!」

『お早うございます、マイマスター。梓お姉さまのに従い、桜お姉さまの声と口調を真似てみたのですが、お目覚めのご気分はいかがでしょうか?』


 自分でも分かってる。

 今のオレの左目辺りはピクピクしてる。


 何か言ってやりたいが、すぐには言葉にならない。

 いや、そもそもフュンフに言っても仕方ない。

 悪いのはフュンフじゃない。

 こんな悪質なことを考えた全ての元凶は……


 オレの視線がいまだにやにやしている梓に向けられる。

 だが、そんなオレの視線など全く気にもせず梓はしれっと口を開いた。


「姉さんの声で起こされたんだもん。良いに決まってるじゃない。最高の目覚めのハズよ。優にこれ以上のモノなんてないでしょ。それより!」


 晴れやかな笑顔で言いやがった梓に、何かしら文句を言ってやろうかと思ったのだが、それより先に右肘に下げていたバスケットを突き出された。


 口を半開きしてたオレの鼻孔を甘いバターの香りがくすぐる。

 その途端、オレの腹の虫がぐぅうううと鳴った。

 思わず右手で腹を押さえ、視線がバスケットに向けられる。


 ……文句を言うのは後回しだ。

 後でゆっくりしてやる。

 それよりも優先すべきはこっちだ。


「……これは?」


 なんとなく察してはいたが、一応聞いてみた。


「決まってるでしょ。優の朝食よ。いつもの時間に来ないから、どうせ寝坊してるんだと思ってわざわざ持ってきてあげたのよ」


 おお!

 やっぱりそうだ。

 桜さんの手作り朝食だ!


「さすが桜さん。いつもお世話になってま……す?」


 受け取ろうと手を出したのだが、何故か梓がバスケットを降ろさない。

 それどころか少し上に上げてオレの手から遠ざける。


 なんでだよ、と梓を見上げるオレの視線に少し非難の色が混じってしまったとしても、それは仕方ないことだよな?

 だって、桜さんが作ってくれた――


「……今日は私が作った、と言ったら?」


 ……は?


 そのセリフに、思わずオレは眉をひそめてしまう。


 梓が作った?

 これを?


 軽く目を閉じてバスケットから漂う香りを確認してみる。

 梓が「あんたは犬か!」と呟いたが、そんなことはスルーする。


 うん。

 この良い匂いは桜さんの卵焼きの匂いだ。

 ぜったい間違いない!


 なんで梓がそんなことを言い出したか知らんが、ウソは必ずバレるんだよ。

 ちゃんと証人もいるんだろうし。


「フュンフ」

『はい、マイマスター』

「これは桜さんが作ったものだよな?」

『え? あの……それは、そのぉ……』


 スマホの中でフュンフの目が泳ぎだす。

 それだけで十分答えを言っているようなもんだ。

 だけど、一応念のため……


「マスター権限で命じる。正直に答えろよ?」

『あう。あ、梓お姉さまぁ……』


 フュンフの透明な六枚翅が震え、涙目になって梓を見上げた。

 その様子に少し心が傷んでしまう。


 マスター権限を使うのは、さすがにちょっとやりすぎたかな?

 でもそうでもしないとフュンフは梓の味方をしちゃうからな。


 全く前代未聞だろう。

 オレマスターよりも梓の言うことを優先して従ってしまう人工知能AIなんて。


 フュンフは妹属性で調整したハズなんだが、それが悪かったのか?

 ホント、なんでこんな性格になってしまったんだか。


「ああフュンフ、ゴメンね。もう無理しなくていいからね」


 梓がスマホの中のフュンフに声をかけ、右手で少し撫でてあげる。

 次いでオレに向かって、校内で人気を博している美少女とはとても思えない鋭い視線で睨んできた。


「優も大人げないわよ! 朝っぱらからこんな可愛いフュンフをマスター権限を使って虐めるなんて! そんなんだからモテないのよ」


 ひどい言われようだ。

 オレが悪いのか?

 そんなこと無いよな?



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