第8話

 オレのシャツをギュッと握りしめるかえでさんの手が微かに震えている。

 その手をそっと外しながらオレは口を開いた。


「すみません。やっぱ無理ですよ」

「な、なんで! どうして! この流れなら後はもう『楓!』『ゆう!』って呼び合って抱き合ってハッピーエンドの流れでしょ!」


 ……たぶんこれ、ツッコんだら負けな気がする。

 シリアスが続かないとこが楓さんクオリティってヤツなのか?

 しかも何故か互いに呼び捨てになってるし。


 足元に落ちてしまっていたバインダーを拾い上げる。

 さっき楓さんが興奮しすぎたのか、落としてしまったものだ。

 これには画像ファイルの中に書かれていた七つの数字がメモされている。

 ノインが見付けてくれたものであり、今回の仕事の成果であり、大事なものだ。


 オレは軽くはたいて、それを楓さんに差し出した。


「さっき、楓さんはオレに聞きましたよね。なんでAIを作ったのかって」

「ええ」

「それをお話しすれば分かってもらえるかもしれませんけど、時間は大丈夫ですか? 少し長くなりますよ?」

「構わないわ。話してちょうだい」


 楓さんは真剣な顔つきで頷いた。

 それを見てオレは、もう一度イスに座り直して話し始めた。


 ◇


 初めは、偶然だった。

 オレがそのサイトを訪れたのは、ホントにただの偶然に過ぎなかった。


 そこは、ドイツのとある大学の公開論文データーベースだった。

 調べ物をしていて、ネット上で検索していたとき、たまたまそこの論文が引っかかっただけだった。


 論文の題名タイトルは、日本語で言うと〝コンピュータによる知的能力実現の可能性〟といったものだったと思う。

 つまり人工知能AIに関する論文だ。

 しかもそれは、今からおよそ五十年前に書かれた論文だった。


 ちなみに論文のファイルフォーマットは、今じゃほとんど見なくなった PostScriptポストスクリプト ってやつだ。

 現在ならばPDFなんかが主流だろう。

 しかしPDFの仕様が公開されたのは今から二十五年くらい前。

 その前ならば確かにPostScriptが主流だったかもしれない。

 だけどそのPostScriptにしたって、世の中に発表されたのは今から三十五年くらい前のはずだ。


 つまり、この論文はPostScriptが全盛だった頃に、紙からスキャンされて画像として埋め込まれたものだと思う。

 それがよくもまあ、検索に引っかかったものだ。

 最近の検索エンジンの進歩には恐れ入る。


 百ページを超えるその論文には、現在の深層学習〝Deep Learningディープラーニング〟の基本となる多層構造アルゴリズム〝Deep Neural Networkディープニューラルネットワーク〟とは全く異なるアルゴリズム理論が展開されていた。


 簡単に言ってしまえば、あまりにも複雑なニューロン動作のモデリングがされていたんだ。


 オレも最初は古い理論だと思った。

 つまり、今となっては淘汰されて消えていってしまった昔の理論の一つだと考えていた。


 多層構造アルゴリズムは以前興味があって少しだけかじったことがある。

 それに比べると、この論文のモデルはあまりにも複雑過ぎる。


 しかも五十年前だ。

 コンピュータの性能はあまりにも貧相プアだった時代だ。

 これでは全く実用的ではないとされても仕方がない。


 そして後の時代、いわゆるGOFAI――古き良き時代のAIGood Old Fashioned AI――として、誰からも見向きもされなくなってしまったんだろう。


 そんな論文を何故オレは読み続けてしまったんだろうな。

 それは自分でもよく覚えてない。


 当時オレは色々と行き詰まっていた時だったからな。

 ネタ探しだったのかもしれない。

 たんなる現実逃避だったのかもしれない。


 だけど、読みふけっているうちに、なんとなく思ったんだ。


 このモデルならば、上手くすれば現在では不可能と言われているイノベーションを起こせる人工知能AIに成り得るんじゃないか?

 そして、いわゆる技術的特異点シンギュラリティに到達できる人工知能AIになれるんじゃないか?


 ――技術的特異点シンギュラリティ

 簡単に言ってしまえば、AIが学習を繰り返すことによって飛躍的に高度化し、ついには人を追い越す時点のこと。


 そして同時に、何か閃くものを感じたんだ。

 もしかしたらこれが、今自分が抱えている行き詰まっている問題の突破口ブレイクスルーになるんじゃないかって。


 そう思ったらオレは、作ってみたいという衝動に駆られた。


 もうこれしかない!

 これが今のオレには必要なんだ!

 これがなければオレはもう先に進むことはできないんだ!


 そういう脅迫概念にも似た思いに捕らわれてしまった。

 後から考えると、それもまたたんなる現実逃避だったのかもしれない。


 だけど、そう簡単な話じゃない。

 確かにオレはシステムエンジニアをしている親父の影響で、七歳のころからコンピュータに触れ、プログラミングもやってきた。


 プログラミング言語だって Fortran、Pascal、C/C++、Java、Lisp、Perl、Python、Ruby、Tcl/Tk などなど、様々なものを経験している。必要に応じてアセンブリ言語にも手を伸ばしていた。


 でも、オレの専門はネットワーク関係と数値計算分野だ。


 ちなみに、これも親父の影響だな。

 親父は某大手メーカーの研究所でシミュレーターの研究開発に携わっているそうで、やはり専門は数値計算分野だそうだから。


 つまり、人工知能AIという分野にはそれほど詳しいわけじゃない。

 一般的な常識範囲よりは知っているつもりだが、それでも多少毛が生えた程度だろう。

 色々分からないことがある。

 いや、知らないことのほうが遥かに多い。


 専門とは違う分野のプログラミング。

 いつもとは全然違うたぐいのコーディングになる。


 だからオレはプログラムの設計から始めた。

 いつもならそんな面倒なことはしない。

 頭に浮かぶアルゴリズムをただソースコードに起こすだけだった。

 だが新たに作ろうと考えたAIは、さすがに無理だ。


 基本設計をした。

 自分なりに要件定義から始め、全体像を浮かび上がらせるための概要を整えた。


 詳細設計もした。

 基本設計を元にプログラムの構造や様々なデータの流れを図にして整理しつつ、作るべきクラスやモジュールを一つ一つ細かく明らかにしていった。


 読んだ論文には色々欠けている箇所もあった。

 オレの知識も当然ながら全然足りなかった。

 それを補完すべく他の文献も読み漁った。


 英語はもちろん、ドイツ語、フランス語、ロシア語などなど。

 色々な言語の論文を読むことになったが、今の世の中様々な言語に対応したフリーな翻訳サイトもあって助かった。


 細かいアルゴリズムもかなり検討した。

 論文に書いてあったニューロンモデルはほとんど概念的なモノだ。

 そのままプログラミングになんて、とてもできる代物じゃなかった。

 モデルをコンピュータ上で実現するための効率の良いアルゴリズムを寝る間も惜しんで考えた。


 あの当時は何度も夢に出てきたくらいだ。

 考えた、とも言えるかもしれないな。

 まあ、それは冗談だけど。


 そしてコーディング。

 もちろんテストもだ。


 非常に楽しかった。

 とてもわくわくした。


 こんなに夢中になってプログラムを作ったのは何年ぶりだろう、と思った。

 それくらい凄く凄く楽しかった。


 そうしてできあがったのが、AI第一号……いや第号のヌルNullだ。

 ヌルというのは、ドイツ語でゼロのことだ。

 最初の論文に、オレなりに敬意を払いドイツ語を使ってみたのだが、それ以降、オレはドイツ語の数字を彼女たちの名前として使っている。


 プログラムは完成した。

 だけど、それで終わりじゃない。

 人工知能AIは学習させる必要がある。

 考え方によってはむしろそっちのほうが大変かもしれない。


 オレはヌルに色々なことを教えた。

 それこそ小さな子供にモノを教えていたようなモノだった。


 ひらがな、カタカナ、数字、アルファベットなどなど。

 最初はそんなレベルからだった。


 だけど、そんなのは最初の三十分くらいだ。

 ヌルはオレの予想を遥かに上回る驚異的なスピードで学習していった。

 まさに乾いた砂が水を吸うがごとく。

 二十四時間動かしっぱなしのコンピュータの中で。


 そのうちマルチコアを有効利用して並列実行することまで覚え、オレが教えることだけでなく、自分でネットの中を探索して知識を高めていった。


 一ヶ月も経つ頃には、ヌルの知識データベースは一般常識はもちろん、コンピュータ関係についても十分に形成された。

 もうオレが教えることなど殆どなく、それどころかオレと対等に議論ディスカッションもできる程に。


 その知識データベースは、ヌルの後に起動開始ロールアウトしたアインスからノインまで九人の人工知能AIたちの基礎知識となっている。


 今では九人とも各々が自分で考え、必要と思えることや興味を持ったことなどをネットの中から自由に集めてくる。そして一日一回、整理された情報を共有するという方法でより効率的に知識を高度化している。



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