冬空。


 霜月の下旬。ソレはこの世に誕生した。開国が為され、元号を延寿えんじゅあらためた時代の中頃過ぎだ。


 日ノ国の帝都、夕京ゆうきょう迫間はざま区は、かの大遊郭を擁する国内最大の歓楽街として名高く、遊女の艶めいた声が届く程の近さに、百鬼なきりの邸宅は存在した。


 この地を治める〈夕京五家〉、迫間家の本家とも近く、けれど千年を連ねる花守の屋敷としてはささやかで、家。


 敷地を囲う常緑の垣は背が低く、手入れの細やかな庭が誰でも目に入れることのできる、一見して開けた一家のように、思えた。


 百鬼一門、と呼ばれるその家にはしかし、他の花守の家に多くある道場などなく、代わりにそこそこの家であれば建てられているような土蔵がひとつ。分家を持たない百鬼家の邸宅は、住んでいる人間に対して――両親とその嫡男だけ――なら、広すぎると言って差し支えないほどに、客観的に見れば空虚な屋敷だったのだ。



 ――けれど。その屋敷に生を受けた当の嫡男、後の百鬼椿つばきにとってはその限りではなかった。


 千年間。詳しくはそれに少し届かぬ間、実に六十二代に渡って〈刀霊〉を降ろし続けたこの家には、余人には視えないが……数えて三十を超える、姿が存在している。


 霊感のある者がこの屋敷を目に入れれば、すわ幽霊屋敷だと慌てるだろう。困ったことに間違いではない。大政奉還の後、刀が廃され、各地の幾何いくばくかの名刀神刀が皇室に召し上げられて尚、現存する百鬼の刀はすべて此処にあったのだから。その刃に宿った神々――いずれも歴代の当主――も、衣食不要なれど住としてこの屋敷に暮らしていた。


 父親である煉慈れんじの小太刀に宿った、自身の祖父と名乗る狼を、幼い椿は無感動にそういうモノか、と受け入れた。


 生きている者が三人しか居ない家。けれどそれを寂しいと思ったことは一度もなく。


 立って歩くことさえ覚束おぼつかない赤子の頃ならいざ知らず、自由に歩き回れるような歳になってまで姿なき狼たちに見守られ続けることへの閉塞感さえ覚えるほど。


 その頃からの癖が、大人になってからも抜けていない。



 /


 冷たい冬の夜風が勢いを無くすのを待ってから、燐寸マッチを擦り火をともす。


 やがて吐き出した紫煙は身体に纏わることもなく消えていった。その段になって、灰皿を持ってくるのを忘れたことに気づくが、まぁ誰に咎められるでもなし、と礼節を灰と一緒に落として空を見上げる。


 ――未だ凡てを取り戻せてはいない。けれど守り抜いた榎坂えのざかの夜空は冬に冴え渡り、澄んだ黒に幾つもの煌めきを羽織っている。


 自分以外に誰もいない花霞かすみ邸の屋根の上。二階建てのその階下では、夜半を過ぎてもヒトの営みというものが途切れない。だからこそ、こうして昔のように逃げてきたのだろう、と他人事のように自身の行動を分析する。


「……面倒事は増えちまったが」


 これまでのように、夜な夜な街を巡回し、怪異を探し出しては斬るだけでは済まなくなった。やっていることは程度と頻度の差こそあれ変わらない。けれど――祖先がそうであったように――できるだけそれだけに収めておきたかったのに、ヒトというモノのしがらみの、なんと不自由なことだろうか。


「椿の人間性を育むには丁度良いんじゃないかい?」


「……行儀が悪ィぞ御曹司。捨てたもんを拾ってンじゃあ無ェよ」


 完全に独り言として吐いたつもりの言葉を返してきた朝霞あさか神鷹じんように顔を向け、何の用だよと瞳で問う。


「特にはないかな。ここのところ忙しかったし、僕も休みたかったんだ」


 椿の実感はさておき、椿と神鷹の……百鬼家と朝霞家のそれは、程度が大きく異なる。自他共に好き勝手やっている認識のある百鬼と違い、夕京五家たる朝霞は全体のことも考えねばならず、その重責は他家の比にならないだろう。


 椿は知る由もないが、自室で自分の刀霊が訪れた百鬼りつに『あれは時折、独りになりたがる』と聞かせていた通り、他者の煩わしさからこの屋根に退散してきた椿はけれど、神鷹を拒絶することも、自分が空けることもしなかった。


「ま、いいけどさ」


 ……会話は弾まない。それは、そんなものでは居心地が悪くなどならない、幼い頃からの付き合いあってからこその沈黙だった。


 椿の紙巻タバコが灰へと変り果て、二本目をくわえた時に、神鷹が口を開いた。


「椿。どうして律殿を百鬼に?」


「ぁン?」


「同じ境遇であるなら、他にも……霧原きりはらの彼女であっても良かっただろうってさ」


「余生短くが身上の百鬼に後見人させられるか? いいンだよ、アイツとはこの位の距離で。折角親父と兄貴が花守と無縁の生活を敷いたっつーのに、わざわざに留まらせる理由も無ェだろうが」


「では律殿は?」


「気に食わなかったからだよ」


 その答えの何処に笑点があったのか。神鷹は瓦屋根に両手を支え、顔を上げて笑った。


「椿、椿。君は昔、僕に同じことを言った。覚えてるかい?」


「お前さんが泣きべそかいてた頃だろ? 覚えてるさ」


「そこは忘れて欲しいけども」


「ンな都合のいい脳味噌してねェよ。それがどうした」


「いいや、いいや。……椿がそうして、誰かを想うことが嬉しいんだよ僕は」


 できれば、自分自身もそのくらい想って欲しいけれど、と付け足して。


「くっだらねェ」


 紫煙を吐いて、椿は辟易へきえきとした顔で神鷹を見る。


「オマエらニンゲンは、幸福の何たるかも知らずに早死にしたがる。解かって無ェようだからこの際言っとくが、そんなんだから幽世かくりよからこっちに来るヤツらが減らねェンだよ。地獄も極楽も知ったことじゃあないが、生きてる間にろくにしなかった奴が、逝った先で上手くいくはず無ェだろうが」


「……椿。誰もが君のように、幼い頃からその、荷造りを終えてから人生に臨む、なんてことはできないと思うよ」


「知ってる。だから面倒が増えたっつってンだ。お前も律も。霧原の妹も深山みやまの嬢ちゃんも同じだ。いのちは使じゃねェ。全うすることもなく、ただ漫然と永らえることが目的にすり替わっちまったから、霊境崩壊に際して九瀬くぜは出せる手が律しかなかった。深山と同じだ」


 あァ気に食わない、と苛立ちを紫煙に混ぜて吐き出す椿。状況は日ノ国の存亡に関わり、百鬼が如何いかに怪異殺しの専門種、と言われても手が足りない。本来は形骸化したところでそのまま続けば良かった花守の家も総出で掛からねば現世ごと滅びてしまう。


「まったく、誰がやらかしたンだか」


「まったくだ。……霊脈を全部取り戻せばわかるかな」


「仮初の平穏なんざ死んでも御免だな。根は絶っちまわねェと落ち着かん」


「はは、流石は百鬼の当主殿。頼もしいよ」


「オマエがやるんだよ、朝霞の当主殿。前線に出れる五家なんざ他に無ェンだし」


 戻るわ、と椿は立ち上がる。……そろそろそそぎがあることないこと律に吹き込んでいそうだ、と。


「なんだ、気づいてたのかい?」


「応えないのと気づかないのは別だ。お前さんなら解かるだろ?」


「……まぁね」


 百鬼律の椿への想い。朝霞杏李あんりの神鷹への想い。


 気づかないのではなく、応えない。幼馴染だからか、二人の青年が二人の少女に取る手は、似通わない性格に反して同じだった。


 続く日は後に語られる山郷決戦。〈鬼神〉と呼ばれる二人はこの夜、引かれる後ろ髪もないままに寝所へと戻っていった。


 ――澄み渡る冬の星空を、この先も見られる日々のために。




 /百鬼の椿 了

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