目覚め

 ジーナとの契約も終わり、後は兵士が目覚めるのを待つだけ。そんな中、ついに妖精の気つけ薬は完成した。

 小さな瓶に入った液体は黒と紫と茶色を混ぜたようなどす黒い何とも言えない色をしている。何より蓋をしているのに漂ってくる匂いが、すごい。


 皆が鼻をつまんで顔をしかめている中、ロルフ一人だけが布を口周りに巻いてマスクをしている。作っていたから当たり前なんだけれど、なんだかずるい。


「これを鼻先で嗅がせるんですよ。一瞬だけで十分です」

「そ、そうか。病院まで俺が持って歩くのか?」

「我々妖精は馬車屋敷から出られないわけではありませんが、これを作るために他の仕事をためてしまっているので」


 ぐぐっと渡そうとするロルフに、嫌がるカーマイン。歩く化学兵器になりかねない。私も嫌だ。


「妖精の気つけ薬なんて言うからもっと綺麗でいい匂いかと思ってた。喉の奥まで来るね、これ」

「そりゃ、ゴブリンやトロールだって妖精だからね。僕みたいな花の妖精なんてごく一部だよ」


 鼻をつまみながら私がぼやくとガガエが律儀に答える。確かに、妖精と一口に言ってもいろいろなものがいる。もちろんいろいろな種類を今後も描いていくつもりだ。

 誰に持たせようかとカーマインが室内を見渡す。ある一点で視線が止まり、きらりとカーマインの目が光った気がした。


 一瞬で纏う空気が変わる。思わずその場にひれ伏したくなるような、高貴な者が持つ気配。ピンと張りつめた静寂の中、カーマインが言葉を発した。聞いた者を心酔させるような、朗々とした声。


「ラセット、出番だ」

「嫌ですよ!何ムダに良い声で言ってくれちゃってるんですか!」

「命令だ。国外追放となった時に何でもするから連れて行ってくれと言ったよな」

「それを今ここで持ち出しますか」


 カーマインとラセットがやんやと喧嘩している内に、ロルフはすすすとラセットに近づいて瓶を握らせた。


「はい、ラセット様。使い終わったら放置せずにきちんと持って帰ってください。こちらで処理も行いますので。もちろん落とさないでくださいよ」

「い、いつの間に」

「この程度の覚悟も無しにお傍に付いているんですか」


 自信の無さそうな彼にしては珍しく非難するような声に、ラセットはぐっと文句を飲み込んだ。




 病院へ行くと、警備に付いていたトープがとても嬉しそうに出迎えた。何だか久々に会った気がする。


「ノア!皆もそろって見舞いに……なんか臭い」

「妖精の気つけ薬が完成したから持って来たんだよ。臭うよね」


 道中でやっぱり鼻をつまんだ人たちに白い目で睨まれたラセットは、すっかりやけになっている。ちなみに私やカーマイン、イーオスは数歩後ろを歩いて他人のふりをしていた。

 医者の立会いの元、妖精の着付け薬が使われる。スクワルの上半身が起こされて準備は整った。


「く、さっさと目覚めないお前のせいだ。死人も驚いて起き上がると言われる薬、とくと味わうがいいっ!」


 なにやら変なセリフを吐きながらラセットはスクワルの鼻先に瓶を近づける。あんな臭いものを間近で嗅いだら―――


「けほっっ、ぅえほっっ、うわっなんだこの匂いっ!?」


 スクワルは急に飛び起きて、目をぱちくりさせている。起きる直前にラセットは瓶を遠ざけたので無事だった。そのまま蓋をしてしまい込むと医者と立ち位置を換える。


「ここは……あれ?元に戻ってる。え、ゴブリンになった悪夢だったのか?」

「いーや、お前はしっかりゴブリンになってから人間に戻ったんだ。意識がぼんやりしていないか。これは何本に見える?」


 指を立てながら医者が健康状態を確認する。戸惑いながら答えていくスクワルを見て、謝るなら今の内だと思った。ゴブリンだった時からは想像も出来ないくらい優しそうな人だし、早い方が私にとってもスクワルにとっても精神的に良いはずだ。


「あのっ、スクワルさんっごめんなさいっ」


 口調ははっきり、お辞儀は自分の膝小僧を見るつもりで深々ときっちり三秒。頭を上げると案の状、スクワルは驚いた顔をしていたので、状況を説明しながら更にお詫びを重ねる。


「私が回復させようとして迂闊に魔法陣を使ったばかりに痛い思いをさせてしまいました。本職でもないのに分を弁えない行為をしてしまい本当に申し訳ございません」

「君は確か……」


 スクワルは記憶をたどる様にしばらく目を泳がせた後、ポンと手を打った。


「っああっ、そうか!君がゴブリン化を治してくれたんだね」

「え、いや、あのう……ごめんなさい」


 もう一度、念のために謝っておくがスクワルは聞いていない。それどころか崇敬するような眼差しを向けられてしまった。


「ゴブリンに変えられてから誰にも見向きをされなかったのに、君だけが気に掛けてくれた。あの時にもらった七色お焼きの味を忘れないよ」


 おかしいな。気を失う前は『お前、何をしたぁっっ』と憎悪の目を向けられたと思っていたのに、彼の中では無い事になっているのだろうか。

 医者も首を傾げた。


「お前さんたちから聞いたのと随分印象が違うが、記憶が混乱でもしているのか?」

「確かに耐えがたい苦痛を受けましたが、ゴブリン化する時にも悶絶するような痛みはありましたから、戻る時の激痛も仕方ないと今は納得しています」

「一歩間違えれば死んでいたかもしれないのに、ですか?」


 せっかく恨まれずに済むのに、イーオスがいらんツッコミを入れる。スクワルは笑いながら首を振った後、何やら悟ったような顔で話し始めた。


「ゴブリンの時に受けた思いは、同じ体験をしたものしか分からない。たとえ死んだとしても最期に手を差し伸べられたら、きっとそれだけでも救われた。僕にとって、彼女は聖女だ。聖女様、名前をお聞かせ願えませんか」


 聖女、と来たか。非難されるのを多少なりとも覚悟していた身としては何だかむず痒い。それに、ここで自ら名乗ったら聖女であると自分で認めたようなものだ。

 名乗るもんかと「いえ」とか「その…」とか言いながら言葉を濁していたら、逆に奥ゆかしいと感激されてしまった。


 埒が明かないと判断したイーオスが代わりにあっさりと答える。


「彼女の名前はノアールです。聖女だなんてとんでもない。あなたが目覚めなければ彼女は許しも無しに貴族に魔法を使った罪人として、捕らわれる所だったのですよ」


 スクワルが一兵士ではなく貴族であると判明したので、実は罪状がかなりまずいところまで変化していたらしい。只の投獄が下手したら死罪と言うところまで。

 平民が国王になれるこの国であっても、秩序はとても大事な物。


「お付きの者がたくさんいたから、てっきりお忍びかと思っていました」

「陛下はあなたが目覚めれば無罪と判断されましたが、訴えれば彼女らを罰する事も出来ます。どうされますか」


 スクワルは、私を始めとして皆の顔を見回す。

 平民と見下し、厳罰を求めるのか。それとも、パーシモンさんと同じく無罪と判断してくれるのか。私たちの命運は彼に握られている。

 カーマインとはちゃんとした面識がないのか、気づいていないみたいだ。もしも気づいていたらきっと厳罰の方へ天秤が傾いていただろう。


 祈るような気持ちで、次の言葉を待つ。暫く考えた後、スクワルは断罪と引き換えに条件を出してきた。


「ゴブリン化の犠牲になった他の者達を治してください。私だけが元に戻っては、彼らに申し訳が立たない」


 顔から血の気が引いていく。


 彼の願いは当然だ。貴族として素晴らしい姿勢だ。今までどうして微塵も考えなかったのか不思議なくらい。彼が治ったら、本人からではなくとも『次』を要求される事くらい、予想出来そうな物なのに。


 あんな思いをするのは、もう、嫌だ。


 私はゆるゆると首を振った。


「……できません。あなたが戻れたのは本当に偶然です。私は専門家ではありませんから、責任は持てません。あなたを死なせてしまうかと思っ、どれだ、け、苦しんだかっ……」


 言葉の最後は、嗚咽混じりになってしまった。

 正確に言えばその苦しみの大部分は魔力のため込み過ぎとイーオスのせいだけど、スクワルの件が引き金になったのは間違いではない。

 絵を描けずに、自分が壊れていく感覚。命を懸けてまで他人を救える程、私はお人よしではない。


「俺も、反対だ。確率の低い方法を安易に使うのはまずい」

「生きていれば無罪と言うことは、次にやって死なせてしまえば彼女は有罪です。繰り返せば耐えられない者が出てくる事くらい分かるでしょう」


 医者と、意外にもイーオスが味方になってくれた。そして、カーマインも。


「自分だけ助かる辛さなら知ってる。彼らが生きているだけ、今はまだ良い方だと思え」


 事情を知っている人にしかその言葉の重みは分からないかもしれない。けれどスクワルはゆっくりと頷いた。

 私は、何度目かの謝罪をする。


「本当にごめんなさい」

「いいえ、謝罪は必要ありません。身分がどうであれ、ノアールさんは恩人ですから」

「では、被害届も出されないと言うことでよろしいですね」

「ええ」


 知らず知らずの内に止めていた息が吐き出される。「良かった」と、誰かが呟いた。大きな荷物を下ろした気分だ。


「でもそうなるとトリエーレには戻れないし、シャモアとも……」

「体調が安定しているのであれば、事態の証明とあなたの今後の身の振り方を話し合うことになります。陛下と元老院に呼び出しを受けるかと思いますので心に留め置いて下さい」


 無関係のイーオスは淡々とお仕事をしている。少しくらい喜んでくれたっていいのに。

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