どん底
あれから結局、イーオスと一緒に病院へ行った。
ラセット曰く、病院に見舞いに来たはずの私の顔は患者よりもずっと死に近い顔をしていたらしい。元々色の白い肌から更に精気が抜け、表情が抜け落ちていたと。
普通に会話もしていたし努めて明るくしていたつもりなのに、空元気がばれて心配かけるなんてと余計に落ち込む要素となった。
それぞれ別行動だけれど、食事時には馬車屋敷の食堂で誰かと顔を合わせることになる。
昼食時にはラセットがいる事が多い。トープは警備へ、カーマインは睡眠をとっていて私を見ていない。
夕食時にカーマインと顔を合わせた時にはガガエからベルタ、アルマ経由で不調を聞いていたらしい。食堂に入るなり「本当に顔色が悪いな」と言った後、まるで劇でも演じているかのように大げさに両手を広げた。
「おお、ノアよ!可哀想に。大好きな絵が描けない程とても苦しい思いをしているんだね」
おどけた調子で、元気づけようとしてくれているのが凄く分かる。カーマインはそのまま私に近づき、傍にイーオスがいるにも関わらずひしっと思い切り抱きしめてしまった。
「でも大丈夫、あいつが生き返らなかったとしてもノアが気に病むことは無いんだよ」
「死んでません。患者が死んだらそれこそ絵を描くどころではなくなりますからね」
横を素通りしていくイーオスの嫌味が遠ざかり、椅子を引いて席に着いた音だけが聞こえた。
カーマインの胸に顔を押し付けられている状態だけど、顔を間近に見ているわけでもないのでそんなにドキドキはしない。
寧ろ寒くなってきたこの時期にはちょうどいい温かさだ。手をつないだのを思い出してあれほどパニックになったのに、ほっとして寄りかかりたくなってくる。
弱っているのかな。自分のときめきポイントが、時々分からなくなるよ。
「お前が何か余分な事を言ったんじゃないのか?」
「絵画が高額で取引される意味が分からないと言っただけです」
「芸術が理解できないとは寂しい頭だな」
「あなたは分かるのですか」
カーマインとイーオスが私の頭越しに口げんかを始めている。カーマインは私を抱きしめたままだ。
気持ちを伝える前にこの行為はどうなのとか思うけれど、嫌われていない事だけは確かだと自分に言い聞かせる。不安とか全部溶けてなくなってしまう感覚に寄りかかりたくなる。
このまま、気を失ってしまえたら。全てから逃げ出せるかもしれない。
私らしくない、酷く後ろ向きの考えだ。
「ああ、分かるとも。ノアの傍に居れば自然とな」
「でしたらこの後もしばらく共に行動すれば私にも分かるのでしょう」
「嫌味な奴だな。俺が傍に居られないと知っていてそれを言うか」
二人とも会話のネタは私なのに、私自身をほったらかしにしている。
……何だか前にもあったようなと思ったら、関所でトープに抱きついた記憶が脳裏に浮かぶ。トープには本当に悪いことをした。罪悪感と共に心にまた一つ、何かが積もっていく。
恋愛感情としての好きを行動で示すにはどうすればいいんだろう?
あの時はトープの背中に腕を回していたから、それ以上の事をしないと恋人にはなれない。でも、腕ごと抱えられているから動かせない。
ああ、もう……どうでもいいや………
「今日は一日描くと言っていたのに、外をほっつき歩いているような人にそんな御大層な絵が描けると思いませんが。今だって描けないと男に泣きついて、本気で画家をやっているかどうかさえ怪しいですね」
能天気な事を考えていた私に、イーオスの言葉がぐさりと刺さる。私が慌ててカーマインから離れると既に食事の準備は終わっていてテーブルに皿が並んでいた。
「食事の用意までされ、住処の心配も無く、画家でいる為の環境をこれだけ御膳立てされているのに甘えが過ぎる」
確かにその通りだと思った瞬間、ほろりと涙がこぼれた。
それを至近距離でばっちり見てしたカーマインは、一瞬驚いた後に怒りの表情へと変わる。
「イーオス。お前……」
「被害者が死んでから落ち込むならともかく、死ぬ前に落ち込んで描けなくなるとは本当に理解しがたい。そんな暇があるならば死ぬ前に一枚でも多く描いておけばいい」
確かに理屈ではそうだけど、筆が動かせないのだから仕方がない。いや、でも今日はまだ描こうとしていないか。
もしかしたら、今日こそは。
私は頭を振ってから席に着いて食事を始めた。
「この後しばらく部屋に籠って描くことにするよ。ベルタ、今後は食事を部屋の方へお願いしても良いかな?」
「かしこまりました」
「カーマイン、ありがと。少しだけ元気でたよ」
そう言って笑って見せたけれど、うまく笑えていただろうか。
キャンバスの前に座る。木炭を持つ。描けない。
ならば筆はどうかとパレットに黄色を出し、筆先につけてキャンバスに置く。そこから先が進めない。
呪いなんて懸かっていない。妨げているのは自分の気持ちだけ。
描かなくてはいけない。お金を稼ぐために。
描こうとしているのは魔法陣じゃない。鬱金の絵だ。あれほど描きたかった地球にはいない不思議な生物だ。
ならば無機物はどうだろうと、部屋の中を描こうとする。傷つけるのが、命を奪ってしまうのが怖いのなら生きていない物を描けば良い。これだって不思議な馬車だ。ファンタジーだ。きっと描きたい物の中に含まれるはずだ。
なのに、描けない。
これでお金を頂く?少し図々しくないか。本当に技術を持っているのか。
「私、どうやって描いていたっけ。何で異世界に来てまで絵を描いているんだっけ」
絵を描くのが好きだったから、そのはずなのに。
今まで描けなくなるかもしれないと思った事は何度もあった。エボニーの元へ行こうとしていた時。カーマインの肖像画が完成した後。
どちらも結局このような事態に陥らず、その後も普通に描けていた。
画材は目の前にたくさんあるのに。大切な人は元気で傍にいるのに。描きたい題材だってあるのに。
イーオスが言ったように甘えがある。贅沢すぎる。
外へ出て気分転換をするはずだったのに、意識が全く無い状態の彼を見ていたら呑気に絵を描いても良いのかと葛藤した。外出するべきではなかったかもしれない。
カーマインがシャモアさんと結婚していたらイーリックの守りの要になっていたかもしれない。
トープには時じくの香の木の実の皮を手放させている。
ゴーレムの絵が無ければイーオスを煩わせずに済んだ。
パーシモンさんは他者に知られる危険を理解しながら、時じくの在り処を教える事は無かった。
ゴブリンだった人だって、それなりに生きる道を模索中だったかもしれない。私が余計な事をしなければ、東部の農民たちの様に、ゴブリンの姿のままでも歩める人生はきっとあったはずだ。
いろいろな考えが、筆を止める。たくさんの負の考えが渦巻いている。おかしいと思いながら、もしもを探して記憶が遡っていく。
良い思い出だってあったはずなのに。誰かを助けられた事だってあったのに。
アクバールはコンクールで盗作しなかったかも。
メイズさんがもっと美人にシアンさんを描いていたかも。
石板に絵を描かなければトープは落書きをしなかったかも。
もしも美術室で一人残って絵を描かなければ、黒沢七月は死ななかったかもしれないのに。
「……描けない……描けない…よぉっ」
涙が出ては床を濡らす。
もう一度筆を持って、確かめてみる。
せめて彼の目が覚めるまで描くのを止めて居られたら、こんなに苦しい思いをしなくて良かったかもしれないのに。でも、覚めないかもしれない。
知り合いでも何でもない、只の通りすがりの人なのに。
助けた相手を恨むのは筋違いだと分かっていても、恨まずにいられない。彼があんなところに居なければ良かったのに。
描けない私は必要ない。
イーオスに言われてもへこたれない自信はあるけれど、もしもカーマインやトープにそう思われてしまったら?
―――部屋のドアを開ける勇気が出ない。
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