施し
食事を終えて宿へと帰る途中、路地の隅にゴブリンがいた。
緑色ではなく人肌色をしたゴブリンで、よく見るとあちこちに傷を負っている。がりがりに痩せ細っていて、農村で見かけた人たちと違ってまともな服を着ていない。この時間まで出歩いているところを見ると帰る場所が無いのかもしれない。
誰もが見て見ぬ振り。私達だってそのまま通り過ぎた。
中途半端な優しさは却って傷つけるだろうか。
偽善だと思われるだろうか。
上から目線だと思われるだろうか。
美味しいご飯を食べて、飲んでもいないお酒でほろ酔い気分になっていたのかもしれない。何だかこの幸せを分けてあげたい気分だった。
それは確かに傲慢かもしれない。でも、女神の加護を受けるこの地で恩恵を受けずにいるのは見過ごせなかった。きっと昼間に見た時じくがとても神々しかったからだ。
広範囲に渡って豊穣の地が展開されているのに、その足元でひもじい思いをしている人がいるのは女神だってもどかしいだろう。
お土産用に買ったお焼きを一つ上げたところで私も、トープやカーマインも困らない。意見を聞きたいガガエは酔いつぶれてトープのカバンの中で寝ている。
もしも彼が人間の姿だったら、私は気にも留めなかっただろう。我ながら、ちょっと歪んでいるのかもしれないと思う。
彼のいた路地から数歩進むまでの思考で、私はらしくない決断をした。
「ごめん、皆ちょっと待って」
念のため、皆に一声かけてから彼に近づいてお焼きを差し出す。
「あの、これ、よかったらどうぞ」
ぎょろりとした目が私を捕らえ、次いでお焼きに釘付けになった。迷っているようだったのでもう一度差し出すと、ひったくるようにして私の手から奪う。躊躇いがちに一口齧ってから、むさぼるようにして食べ始めた。
「けがをしているみたいね。ああ、でもスケッチブックを持ってこなかった」
「ノア、ほれ。メモ帳ならあるぞ」
トープが小さな冊子を取り出すと、カーマインがそれを遮った。
「ダメだよ、ノア。魔法はあくまで貴族の使うものだ。自分や周囲の者を守るならともかく、見ず知らずの者に使うべきではないよ」
「ええ、ええ。旦那の言う通りです。見返りも無いのにタダ働きなんて、ゴーレムの絵だけにしておいてください」
「ケチなラセットは置いといて……貴族が魔法を使う所、ノアは見たことはあるのかい?」
アトリエの先生たちが使う所は見たことがある。絵に組み込んでいたり、大森林で使っていた。けど、貴族であるメイズさんには魔力が無くて使えなかったはず。
他に知っている貴族と言えば、カナリーさん達親子、ヴォルカン様にヴィオレッタ様、蘇芳将軍や王族。機会が無かっただけと思っていたけれど人前で魔法陣を描くのがタブーとされていたとしたら?そもそも魔法は魔法陣だけじゃないから、きっと緊急時には呪文を唱えるタイプを使うのだろうけれど、それも見たことが無い。
「もしかしてカーマインも滅多に使わないようにしている?」
「聞かれてもいないのに貴族ですって名乗っているようなものだよ。不必要に危険を呼び込む可能性だってある。平民ならなおさらだ」
理解は出来る。目立つことをすれば、たとえ善行だったとしても良い形で帰ってくるとは限らない。
私はもう一度路地裏の彼を見た。逃げることもなくこちらをじっと見ている。元々は人間なんだし、言葉を理解しているはず。
まずは話を聞くべきだろうか。けど、治してほしいかなんてわざわざ聞くの?
「原因が分からなければ、もう一度けがをする可能性だってある」
「誰かに苛められてる可能性ってこと?でもだからと言ってけがを治さなくてもいい理由にはならないよ」
流石に原因を排除する所まで面倒を見る気は無い。
「それに私の持つ魔力は、エボニーの恐ろしい実験の為なんかじゃない。カーマインを助けた一つの要素でもあったよ。カーマインには使ってもいいけれど、他の人には使わないなんておかしいでしょう」
一瞬だけ、複雑な表情をしたカーマイン。笑っているような、怒っているような、泣いているようなその顔に構わず、私は理屈を並べた。
「……大きな魔法は使わない。でも、時々魔力を発散させておかないといけないから、マザーは魔法陣を教えてくれたの」
「分かった、分かった。使えば良いよ。ノアの気が済むようにすればいい。そうだな。そこらに転がっているゴブリンにされた人間と、俺の命の価値に差なんてない。大丈夫。ノアにとってはそうだとしても俺は違うからこいつを治すことはしない。守る立場として助言はしたからな。後はどんなことがあっても俺がノアを守れば済む話だ、うん」
私に話していると思ったら、最後の方は何だか独り言のようになっている。
どうやら焼きもちを妬いてくれているらしい。この面倒くささとこそばゆさと安心感その他諸々の感情を、どうしてくれよう。
もちろん私にとってこの人とカーマインの命が同じ価値なわけがない。そんな綺麗ごとを言う聖人君子ではない。
死刑を回避した時の様に、命まで懸けて治療するつもりは無いのになぁ。でもそれを言ったら魔法を使うこと自体止められそうだから黙っておこうっと。
描くのはけがを治す魔法陣。それとあまり衛生的な生活をしているようには見えなかったから、傷口の洗浄をするための効果もつけた。
何の変哲もない魔法陣のはずだ。日常的によく使うもの。自分にだって、トープにだって今まで何度も使った事がある。
魔力を流し込んだ紙きれをほんの少し怯えるような素振りを見せる彼に、貼り付けた。
けがを治すだけ。ただ、それだけのはずなのに―――
小さく丸めた体から何故かバキバキと音が鳴り始め、肉が盛り上がっていくように見えた。立っていられなくなったのか地面に倒れ込む。けがの部分からは赤い液体がしたたり落ち、よく見ると皮膚も裂けて血が滲んでいる。人間ともゴブリンともつかぬうめき声が発せられて、何か別の物に変わろうとしているようだった。
異様な光景に、思わず私は後ずさりした。
カーマインが慌てて魔法陣の描かれた紙をはがし、確認をしている。
「何で……?けがを治そうとしただけなのに」
「魔法陣は正常だ。一体何が起きて―――」
「痛いっっいだいぃぃおまっなにをしだぁぁぁっっ!うぎゃああああぁぁっ」
うめき声は静寂を切り裂くような悲鳴に変わる。彼の肉体の変化はなおも続いていた。
「旦那、逃げた方が…」
「いや、丁度いい。安易な施しで何が起こるのか、ノアに見ておいてもらいたい」
騒ぎを聞きつけて周りに人が集まって来たころには、彼は気絶していた。満身創痍だけれど背丈が伸びて、人間の姿になっているように見える。
誰かが呼んだのか、白衣を着た医者が彼を覗き込んでいた。
「これをやったのはお前さんか?」
医者は魔法陣を持ったままのカーマインに聞いた。カーマインはこちらを全く見ずに返事をする。
「……ええ」
違う!と叫ぼうとした時にはラセットの手によって口がふさがれていた。カーマインはそのまま魔法陣を医者に見せる。医者は一通り魔法陣をなぞりながら確認すると、返した。
「話が聞きたい。仲間がいるなら一緒で良いから、明日、病院へ来てくれ。頼むから逃げてくれるなよ」
担架が用意されて訳も分からないうちに彼は病院へと運ばれて行った。後に残された私たちに「酷い」とか「お前らがやったのか」と詰るやじ馬の声が遠くから聞こえる。
この中の誰かが彼に危害を加えたのかもしれないのに。彼を助けることもせずに放っておいたのはこの人たちなのに。
―――私はただ、けがを治してあげたかっただけなのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます