本気
絵を描くことに対して真剣さが足りないのではないか―――
アクバールの一件以来、そんな思いが心に靄のようにかかって眠れない時がある。
たとえば私は色にあまりこだわりが無い。パレットの上で混ぜるだけだ。
先生やメイズさんは顔料の原石を砕いた粉の状態を工房から買って、自分で油を混ぜて調整する時がある。紫苑さんとスマルトさんは私と同様チューブに入った絵の具を買ってそのまま使う。紫苑さんはどちらかと言うと彫刻の方が仕事として入って来るし、スマルトさんは旅をしているのでそちらの方が手っ取り早いからだ。
チューブ入りは混ぜ物をしてある分手間は省けるが、色合いは変わって来るかもしれないとトープが言っていた。
トープと言えばあの一件以来変わらず接してくれるのが、何とも申し訳ない気持ちになる。メンタルが強すぎだとトープの認識を改めることにもなった。私が逆の立場だったら人間不信になって引きこもり確定だ。
失恋もした事だし、トープを異性として意識し始めてもいいのではとの考えが頭を過る。兄弟同然にして育って来たトープをそう言う目で見るには抵抗があるけれど、私の絵描きとしての仕事を理解できているのはかなり大きい。恋愛の先には結婚があって、生活があって、ごにょごにょな事もしたりして……
羞恥に悶えて無言で枕をがすがす叩き始めた私を、ガガエが怯えた目で見てる。何でもないと笑って誤魔化すが、どこか恐ろしいものを見るような視線に居た堪れなくなった。
ダメだ、話を戻そう。こういう時は絵の事を考えるに限る。
寝食する時間まで削るようでは描けない絵もあると先生はおっしゃった。生活の基盤はそのままで気を使うとなると、やはり道具や画材に目が行く。
絵の具を練るところから始めるとなると、色を作ってばかりで絵を描かなくなりそうだ。
本当にこれで終わっていいのか、まだ手直ししてより良いものに出来るのではないかといつも迷って筆が遅くなるのにこれ以上時間をかけてはいられない。
賞を取ったお陰で描いた先から絵が売れていく。絵が売れていくと私の場合、悪い意味で逆に手が抜けなくなった。せっかく高額で買ってもらえるのだから良いものを描かなくては、と思い悩むあまり自分の好きな絵ではなくて客の欲しがるものに意識が持ってかれる。
絵を描くことよりも客に対しての真剣さを持つようになってしまったのかもしれない。
できれば少し時間を置いて、好きなものを思う存分描ける様に自分の気持ちを切り替えたい。どこかピクニックでも出かけて自然の風景を見れば、そのうち描きたいと思う衝動が湧き上がってくるかもしれない。
心をどこかに置き去りにして、自動的に絵を描く機械になったみたいだ。仕事が切れた途端に筆を置くようになってしまった。
以前のスランプよりもよほど深刻な状況を誰かに明確に説明することも出来なくて、私は一人で怯えていた。
戦争がどうやら終わったらしい。神殿の大元にあたる宗教国家、デアルーチェが介入して落ち着いたようだ。横やりが入って終わったなら勝ち負けは関係ないと思うのだけれど、同盟を結んでいたイーリック側の勝利で決着がついた。
領内では物価がほんの少し値がりしただけで終わっている。フリントさんから聞いていた悲惨な状況など、ほとんど経験しなかった。それだけヴォルカン様が有能なのだと、朝の食堂は領主を持ち上げる声でいっぱいだ。
「やっぱり平和が一番だねぇ。戦争がもっと酷くなってアトリエの連中が徴兵されたらって心配してたんだよ」
「画家連中も職人もそこそこは戦える奴ばかりだからなぁ。真っ先に前線に送られそうだ」
食堂のおばちゃんの一人であるマゼンタさんが仕事に一区切りついたのか、食事を摂りながらバフさんと話をしている。マゼンタさんは私が小さい頃、市場で絵を買ってくれた人だ。
「ヴォルカン様のお陰かねぇ。兵士を出し渋りしなかったらしいじゃないか」
「だのに治安も悪化しなかったのは、やっぱ慕われてるからなんだろうな。養子に出した自分の息子が指揮を執って王家に忠誠を示すなんてなぁ」
「まぁなんにせよ、無事に戻ってくるんなら良かった良かった」
そこかしこで終戦を祝う話題が聞こえてくる。派遣されていた軍も引き上げられ、凱旋パレードが王都ヴァレルノで催されることになったそうだ。ガガエとトープはパレードを見たいらしい。
「ノアは見に行きたいとおもわないの?僕、見てみたい」
「だって、王都だよ?領都に行くのとはわけが違うし、絵ももっとたくさん描かなくちゃならないから暇がないよ」
パレードがあるのなら個人の馬車で行こうとすると門前で物凄く混み合うだろう。先生の伝手を使おうとしても、お祭り騒ぎの中で転移の魔法陣の許可が下りるかどうかも分からない。
「今のところ依頼は受けてないし、集中できてないんだろ?カーマイン…様が見られる最後のチャンスかもしれないぞ」
不意打ちのようにその名前をトープに出されて内心はパニック状態だったが、悟られないように気になる単語を聞き返した。
「最後って?」
「偉くなったら今までよりも俺たちが見られるような場所には出て来なくなるだろう。王族を嫁にもらうったってカーマイン様が王族になるわけじゃないからな」
建国祭、と言うものが毎年王都で開かれるらしい。建国祭に行った人の話では、城のバルコニーから民衆に向かって王族が手を振る。王城で仕事をするような高貴な方々が公に顔を出すのはその時だけで、王族の血の流れていない宰相や将軍などがバルコニーに立つことは無い。王族の警備担当は近衛の騎士や兵士で、将軍は軍を将(ひき)いる存在なので平時にはあまり出てこない。おそらく兵を鍛えたり外交をしたりと裏方に徹するのだと思う。
結婚してもカーマインが王族に引き上げられるのではなく、王女が降嫁する形になる。性別が逆だったら毎年顔を見られるかもしれないのに。
今でさえ貴族だから簡単には会えないのだが、この先もっと機会が減るとトープは言いたいのだ。
「別に私は―――」
「ノアがカーマインを好きだったのは知ってる。でも命の恩人なんだぞ。自分を助けてくれた人が元気であるのを確認するのに理由はいらないだろ」
トープの言葉に、息を飲んだ。食堂のざわめきがどこか遠くから聞こえる気がする。自分でも長いこと明確にはしてこなかった気持ちなのに、どうして―――
「どうして、知っているの」
「俺はノアの…兄貴だからな。何でもお見通しだ。そのせいで今、絵が描けなくなってるだろ?」
微妙に惜しいタイムラグ。今、描けない理由はそれではない。ちょっと抜けているところがトープらしくて思わず笑ってしまった。
何か勘違いしたのか、トープはむすっとした顔をして言い訳を並べ立てる。
「大勢の人がいる所やパレードを見に行くのだって気晴らしになるかもしれないし。パレードってなかなか見れないもんだぞ。ついでに王都の名所の絵も描けば良い」
「僕も見たい。見たいったら見たい。危険のない好奇心は満たされるべきだと思うんだ。だって僕は妖精だもの」
行きたいのならガガエとトープで行けばいい、なんて冷たいことは言わない。私が行かないと言えば二人も行かないだろうし、気を遣ってくれているのに邪険に出来るほど私だって鈍いわけでは無い。
「うん、そうだね。……有難う。浅葱さんに相談してみようか」
外からの刺激を受ければ気持ちも変わってくるはずだ。まだまだ描きたいものだっていっぱいある。
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