軽いスランプ
「コンクールの提出日は冬の終わり。春になったらこの前行った大神殿で展覧会が開かれるの。絵の大きさは―――」
浅葱さんの説明によると絵の大きさは三十号。910×727ミリとかなり大きいが工房の方でキャンバスは用意してくれているらしい。油絵のみで題材は自由。神殿主催では無くアスコーネ領が主催なので神話をテーマとしていなくても良く、資格はヴァレルノ国内に住む者。風景画、人物画、静物画、などなど応募は多岐に亘るので審査する方も大変だと傍に居た先生はぼやいていた。
部屋を与えられていないスマルトさんはアトリエの一階で作業しつつ眠るようになったので、紫苑さんの作業スペースはかなり手狭になった。私は二階、メイズさんは三階。
中庭には鳥小屋同様に即席の馬小屋が作られてスマルトさんの馬車を引いていた馬が入れられた。馬車自体は野ざらしだ。
「ノアちゃん、トープ君を使っての情報集めもダメだからね」
「いや、何を描くのかくらいは……」
「ダメだからね?」
この時ばかりはお互いにライバルなので他所の階に作品を見に行ったりは出来ない。盗作を防ぐためだ。せめて何を描くのか知りたいなぁと朝食時にトープに洩らすと、耳ざとく浅葱さんが聞きつけて来た。
脅しを含んだ笑顔に、はいと頷くしかなかった。傍で聞いていたトープが苦笑する。
「ピリピリしてんなぁ。工房の方もいつ色の注文が来るかって神経とがらせているんだ」
「そう言えばユニコーンの角、バフさん喜んでくれた?」
「おお、とりあえず根元の方を少しだけ切って皆で研究中。価格は高いけれど実際には人魚の涙よか、かなり手に入りやすいって聞いたから楽しんでいるみたいだ」
良かった。あのセクハラユニコーンに耐えた甲斐があった。
「軽く魔力を含んでいるみたいでさ。他の白よりも、なんて言うか…光沢感?があるんだ。あれで水面でも描いたら光の反射が綺麗に表せるんじゃないかなって」
「トープも少しずつ絵の事が分かって来たんだね。頑張っているみたいで私も嬉しいよ」
自然に浮かんできた笑顔を向ければ、トープは「お、おう」と戸惑いながらも返事をした。
今日も頑張れよとトープの激励を背中に受けて私はアトリエに向かう。大きな窓にかかるカーテンをざざっと開けて光を取り入れ、私は真っ白なキャンバスに向かった。
―――真っ白。アトリエに戻ってから一週間がたつのに、未だに何も描かれていないそれを前にして、私は途方に暮れていた。
描く意欲が全く湧いてこないのだ。
原因ならわかっている。おそらく失恋だ。ここまでカーマインが深く自分の心に食い込んでいるとは思わなかった。最初に会った人間だからもしかして刷り込みの部分も入っているかもしれない。二度目に助けられた時はきっと吊り橋効果も入っていたんだろう。
描き続けていればいつか会えるかもなんて全く保証のない楽観的な希望を持っていたから、余計に筆が持てないでいる。
思いっきり泣けたのなら良かったかもしれない。けれどしっかり向き合ってこなかった自分の心を、今更掘り下げていくのも遅すぎる気がして。
ぼんやりと思い出しては落ち込むのを何度も繰り返していたら、朝から晩まで何もしない状態が続いてしまった。
「だめだ、前に進むためにも何か考えないと」
落ち込むのは後でも出来る。差し迫る締め切りに間に合わなければ多分もっと落ち込んでしまう。
切り替える為に考えを声に出して言うと、不思議と前向きになれた。
まずは題材だ。この何とも言えない曖昧な感情をキャンバスにぶちまければ、きっとおどろおどろしい絵になってしまうのは明白だ。今の私にしか描けない絵なのかもしれないけれど、抽象的になりそうな気がする。
コンクールでそれが受け入れられるかと言えば自信が無い。それにできれば気分を浮上させたいから、却下。
ユニコーンは嫌だ。絶対に嫌だ。あんなのを描いて賞にでも入ってしまったら一生悔やむ。あのユニコーンが「俺のお陰だろ」とにやりと笑うのが目に見える。と言うか、気持ち悪いのを思い出しながら描くことになる。スマルトさんの題材はおそらくユニコーンだろうし、重なってしまうのも嫌だ。
次に思いついたのは工房の様子。労働者を題材とした絵はこちらでも受け入れられている。トープ一人では隙間が持たないので全体を描いたらどうかと思うんだけど、作業工程には機密も含まれているらしいからきっとこれも無理。
万人に受け入れられつつ、できればオリジナリティのある絵を描きたい。他の誰にもまねできない、私にしか描けない絵。
―――そんなもの、描けるわけがない。
心の奥で誰かが呟く。多分ネガティブモードな自分だ。恋愛から来た落ち込みが絵を描く意欲の部分にまで伝染して、泥沼にはまってしまっているのがよく分かる。分かりすぎて、不意にカンバスを真っ黒に塗りつぶしたくなる。
―――前世で見た名画を模写すればいいよ。
この世界では誰も知らない、まさに転生した私にしか描けない絵、だ。サーカスのチラシに描いた絵はミュシャ風にしたけれど、飽く迄私の絵として描いた。
―――誰も何も言わなかったのだから、今度は丸ごとそっくりまねてもバレないよ。認められたいんでしょ?
ルノアール、ゴッホ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、レンブラント、フェルメール、モネ、ゴーギャン、セザンヌ、ドガ、ピサロ……。ピカソやダリやシャガールはかなりの冒険だ。クリムトみたいに金箔をはるのは人目を引くかもしれないけれど、油絵の規定に反するかもしれない。
お手本はいくらでも記憶の中にある。現物も無いのに精密描写は無理だけれど、雰囲気を再現するのは不可能ではない。でも、そんなの私の実力じゃない。
―――実力が後から伴ってくることだってあるよ。
「もう、うるさいなぁ!」
「僕、何にも言ってないよっ?」
一人だと思っていたのにいつの間にかガガエがいた。目を見開いて、随分驚かせてしまったようだ。アトリエに帰ってからのガガエは私の元を離れてあちこち飛び回っているのが目撃されている。
「ごめん、今の独り言。おかえり、ガガエ。アトリエの敷地の外には出ないでね」
「ん、ただいま。ノア、何してるの?絵を描かなくていいの?」
「むー、ちょっとね。スランプ中」
ガガエとの会話でほんの少しだけ気が紛れる。自分は一人でも平気だと思っていたけれど、こういう時は傍に誰かがいるだけで状況が変わってくる可能性だってある。
ガガエがカンバスの横のテーブルに座ったので私も近くの椅子に腰を下ろした。……今まで座るのも忘れてずっと立っていたみたい。よく貧血にならなかったな。
鉛筆も筆も持たずカンバスと暫くにらめっこしていた私の周りを、ガガエは心配そうに飛び回る。
「ノアは、どうして画家になりたいと思ったの?」
「ドラゴンとか妖精とか人魚とか、そう言ったちょっと不思議なものを描きたいと思ったからだよ」
「どうして描きたいと思ったの?」
「どうしてって……」
前世でいまいちうまく描けなかった絵も、実物の存在するこの世界ならうまく描けると思ったから。
ならばなぜそれらを描きたいと思ったのか。
私は一生懸命記憶を掘り下げる。ノアールのものではなくて、前世のそれをたどるうちに一つ、思い当たることがあった。
「―――勇気を、もらえたから」
それはゲームのイラストだったかもしれない。子供向けの図鑑だったかもしれない。神話を題材とした絵画だったかもしれない。あまりに幼い頃の、しかも前世の記憶。もう既に何の絵だったかは全く浮かんでこないのに。
存在しない生き物をこんなにも精密に描けるなんてすごい。現実離れした背景なのに違和感が全くない。絵の向こう側には確かに『世界』が広がっていて、まるでその一部を覗いているような感覚に陥ったのを覚えている。
私もこんな絵を、『世界』を作り出したいと思ったのが切っ掛けだ。それは恋心にも似たときめきで、初めの一歩を踏み出す勇気になった。
忘れてた。最初の気持ち。
固く握りしめた拳に、ガガエがちょこんと両手をついて私を見上げている。明らかに心配している顔だ。
「今でも、勇気、出る?」
「……出る、出るよ。有難う」
ガガエの健気な様子に癒されて、思わず頭を撫でる。
「そうだ、ガガエと出会った夜の景色を描こうかな。慈愛に満ちた緑色の月の光に導かれて、花畑の中、妖精たちが一斉に飛び立つの」
「ん、僕は絵はあまり分からないけれど、見てみたい」
私が絵を描かなくなったら、何者でもなくなってしまう。だったら足掻いて足掻いて描きつづけて、前に進むしかない。
下手でもいいや。評価なんて気にしない。画家としてそれはダメなんだろうけれど、描いてるうちにいつの間にか身に付いている才能だってある。
一息ついて気合を入れて、私はカンバスに向き合った。
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